この度、夫が亡くなりまして だけど王太子との復縁はお断りです!

えんどう

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1巻

1-1

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   プロローグ 夫の急逝きゅうせい


 私にとってセオルド・コルサエール公爵は良き夫であり、素晴らしい統治者であった。
 また公爵領の民から多大な尊敬を向けられ、本人もその期待に応えようと奮闘していた。


「全く、無理をなさったものですな」

 夫の亡骸なきがらを前に呆れたように苦笑して追悼ついとうしたのは、夫を幼い頃からていた主治医だった。

「あなたには本当にお世話になりました」

 頭を下げようとした私に「いやいや」と主治医はしわだらけの手を横に振った。

「公爵は最後まで幸せだったことでしょう。美しい奥方様と目に入れても痛くないほど可愛がっていた坊ちゃんが最後までおそばにいたのですから」

 その言葉に私は胸が少し痛んだが、直接応えずに視線を床に落とした。

「私がもっと早くに無理をしないよう止めていれば……」

 後悔を口にした私に主治医はゆるりと首を横に振る。

「奥方様のせいではありません。持病が悪化したのですから、仕方のないことだったのです。どうかお気に病まぬよう……。目の下に疲れが見えます、眠っておられぬのでは?」

 こんな時ほど身体を休めなければならないという主治医の言葉に、私は今朝の鏡の前の自分の姿を思い出す。
 夫が亡くなってから心労のせいか、食欲などとても湧かず、けた頬は化粧でも誤魔化しきれなかった。栗色の髪は丁寧にまとめる暇などなく、かろうじてくしを通したものの、昨夜から降り続く雨の湿気のせいで広がっている。白い肌はまるで病人のようだったし、眠れないせいではっきりとついた濃いくまは母親譲りの紫の瞳と相まって人相を悪くさせた。
 いつもと変わらぬよう気丈に振る舞わなければならないということは私も理解していたが、最愛の夫の急逝きゅうせいにやはり心は追いつかなかった。ただ静かに夫の死をいたむことができたのならまだしも、亡くなったその日から今まで、一度も会ったことがない親戚を名乗る者たちが次々と公爵邸に押しかけてきていたのだ。
 まるで観光地の見物のようにジロジロと屋敷の中を観察し、よく回る口でまくし立てなんとか遺産のおこぼれを貰おうとする者たちばかり。そんな人々の相手をするのは苦痛以外の何物でもなかった。

「お気を強くお持ちなさい。坊ちゃんを守ることができるのは奥方様だけなのですから」

 主治医の言葉に私はうなずき、まだ六つになったばかりの息子フィルに視線をやる。
 まだ何も理解していないフィルは自分のようにやつれた様子はなく、いたっていつもの通りだ。その深い青の前髪の下で同じ色の瞳が綺麗にんでいた。ひつぎの中の父はただ眠っているだけと思っているのか、特に何も言わずそこに寄り添うように座っている。
 人の死をこんな幼子にどう説明しろというのだろう。私とて人の死に直面したのはこれが初めてで、まだ受け入れられないというのに。
 ぼうっと意識を飛ばしそうになった私に、まるでそんな暇はないと言いたげに慌ただしい足音が近付いてくる。
 奥様、と呼ぶメイドの声にまた来客だろうとわかった。どうせまた名前も顔も知らない親戚が訪ねてきたのだろう、面倒なことだ。ため息をきかけた時、メイドがうわずった声を出した。

「王太子殿下がいらしております」

 その言葉に私は一瞬息を呑んだ。何を言われたのかよく理解できず、何度もメイドの言葉を頭の中で反芻はんすうする。
 この雨の中、遺産目当てで来る者はたくさんいたが──何故、王太子殿下が?
 うるさく鳴る胸の音に反して頭の中はひどく冴えていた。

貴賓室きひんしつにお通しして。フィル、部屋へ戻っていなさい。私が迎えに行くまで決して顔を出してはいけないわよ」

 そう口にした自分の声が、冷たく響き渡った。


 公爵邸の前に停まっている王家の紋章が刻まれた馬車。それを見た私は何とも言えぬ気持ちを胸に留め、貴賓室きひんしつへ向かった。

「王太子殿下にお越しいただけるなんて、きっと夫も喜んでおりますわ」

 夫の棺に花を添えたこの国の王太子、そして私にとってはかつて恋人であった男に、今は未亡人として挨拶する。
 人生は何があるかわからないなと、気付かれぬ程度に小さくため息をいた。
 王太子は冷たい瞳をこちらに向けて嘲笑ちょうしょうを浮かべた。

「……夫か。こんなに呆気なく亡くなるとはな。お前がまた何か薬でも仕込んだんだろう? 今度は何の毒だ?」

 あまりにひどい侮辱にかっとなる。立場を忘れて私は声を荒らげ反論した。

「そのようなことをするはずがありません! 夫を殺すなど……‼」
「どうだかな。俺を殺そうとしたのもお前ではないか」

 発言を撤回する気もなさそうな王太子の言葉に、私はそれ以上言い返したところで無駄であることを悟る。一度目を閉じ、ようやくいつものように冷め切った眼差しを向けることができた。

「まだそのようなことをおっしゃるのですね。私が殿下を殺そうとしたと」
「事実だろう? 公爵もよくお前のような女と結婚できたものだ。一度は投獄された女を公爵家の正妻になど──あぁ、お前がその身体であの堅物をたらし込んだのか? 公爵も年老いたとはいえただの男だったというわけだ」


 下衆げすな笑みで故人に対してもひどい侮辱を述べる男に、怒りで握りしめた拳が震える。
 けれど、夫の棺の前でそんなことはしたくない。今にも殴りそうな己の手の力をなんとか抜いた。

「私と夫は愛し合っておりました。そのようなことを言われるのは心外です。どうやら殿下には夫をいたむお気持ちはないようですね。申し訳ありませんが、お帰りを」
「なに……? たかが公爵に取り入っただけのお前が、よくもこの俺にそのようなことを……! 自分の立場がわかっていないようだな!」

 自分の立場なら誰よりも自分がよくわかっている。
 夫を失い、支えを失い、まだ年端としはもいかない我が子と共にこれからどうしていくべきか――、それを考えるよりも先にこうして来客の対応をしなければいけない。
 まともに眠っていないせいか、何年かぶりに向き合ったこの元恋人には苛立つだけだった。

「私をののしるためだけにいらっしゃったのですか⁉ 突然のことで夫の死を受け入れられないのは私なんです‼」

 だからもう帰って、と続く言葉はほとんどつぶやきに近かった。
 溢れて止まらない涙にこんなつもりではなかったのにとハンカチを握りしめる。
 どうして夫は、こんなにも呆気なくってしまったのだろう。
 どうして私は、主治医からも働きすぎだと言われていたあの人をもっと根気強く休むようさとさなかったのだろう。
 私のことを唯一支えてくれた、息子同様、誰よりも大切な人だったのに。支えを失って私はどうやって生きていけばいいのだろう。

「……今日のところは帰ってやる。お前のその涙が演技ならば大したものだ。せいぜい殺人の容疑で捕まらなければいいな」

 王太子は嫌味たっぷりな言葉を残していった。
 ――彼は八年前に最悪な別れ方をした私のことを、いまだ憎み続けている。



   第一章 別れと出会い


 今から八年前、私、エリーナ・サブランカ子爵令嬢はこの国の王太子、エドワードの恋人だった。好意を持って近付いたのは私の方で、王太子として威厳のある振る舞いや正義を貫くその姿に、これ以上ないほど夢中になった。
 そんな時に偶然知り合うきっかけができて、少しずつ挨拶を交わすようになって、学園内で顔を見掛ければ声をかけられるようになって──そんな夢のような日々に私は幸せを感じていた。
 しかしそれだけにとどまらず、王族に多い青色の瞳に見つめられたいと思った。そして恐れ多くも手を伸ばすと、意外なことにエドワードはそれを受け入れてくれた。
 彼も年頃の青年であったし、自分に好意を寄せるそこそこ見目の良い彼女を恋人にするのは別におかしい話ではなかったのであろう。
 恋人となってからも懸命に尽くす私にいつの間にかエドワードはほだされ、愛情を同じだけ返してくれるようになった。
 そうして思い合うようになったけれど、私には負い目があった。
 自分の実家の子爵家という高くない身分、王太子の婚約者候補の令嬢たちに及ばない容姿。せめて自分を恋人にして良かったと思ってもらえるようにただ必死だった。
 そうして日が経ち、おおやけではないものの婚約者として認められ、慣れなかった口づけもいつしか当たり前になって、自然に身体を重ねるようになった頃。
 あろうことか、王太子であるエドワードが毒を盛られたのだ。毒はエドワードに食べたいと言われ私が城へ持っていった自作のケーキから検出されたらしい。恋人が倒れて一体何が起こっているのかもわからぬうちに、私は護衛兵に連行され、三日三晩を強く冷え込む地下牢で過ごした。
 そうして四日目の朝に会いに来た恋人は、今まで一度も見たことのない冷たい瞳をこちらに向けた。

「よくも俺を殺そうとしたな」

 牢屋の監視役から聞いて自分が容疑者としてここに入れられていることを理解していた私は、何かの誤解だとさくすがった。

「違います! 私は毒なんて……っ‼」
「お前が裏市場で毒を購入した証拠はもう揃っている‼ それでもシラを切るつもりか⁉ 一体誰に言われて俺に毒を盛った!」
「裏市場になんて足を踏み入れたことなどないわ! 何かの間違いよ、信じてエドワード、私は絶対に……」

 しかし必死の弁明を初めから聞き入れるつもりはなかったらしい。恋人は冷め切った表情で淡々と告げた。

「二度と俺の名前を呼ぶことは許さない。お前はもう俺の恋人でもなんでもない、ただの反逆者だ」

 まるで頭を鈍器で殴られたような感覚だった。本当に何も知らないのに、そんな証拠が出るはずないのに、どうして信じようとしてくれないのだろう。どうして話すら聞いてくれないのだろう。
 あんなにも愛していると言い合ったのに、そんなこともまるでなかったみたいに。

「私は、本当に知らないの……」

 あなたさえ来てくれたならちゃんと無実が証明されると思ったのに、これは一体なんなの?
 どうして私があなたに毒を盛ると思えるの?
 ただ何もわからなくて溢れ出た涙をエドワードは鼻で笑った。

「あぁ、ルーカスの言った通りだな! そんな涙を見せれば俺が同情するとでも思ったか?」

 何も聞く気がない、私の言葉を信じる気もない、どうしていいかわからずにこぼれた涙すらも嘲笑あざわらうこの人に一体何を言えばいいのだろう。

「俺を殺してどうするつもりだったんだ? 俺に近付いたのも、初めから俺を殺すためだったんだろう?」
「っ、違うわ‼ どうしてそんな恐ろしいこと……‼」

 信じて、お願いよ。私はあなたを愛しているのに。
 さくに触れた彼のローブの裾をたまらず握る。こんなに薄暗く冷たい場所に毛布一枚で、床で寝ることも辛かったのに、愛する恋人すらも自分を信じてくれない事実にこれ以上は耐えられなかった。
 すがるような思いで握った私の手を、彼はためらいなく払いけた。まるで汚いものに触られたかのように。

「……お前など愛した俺が馬鹿だった」

 小さくつぶやいた彼の後ろ姿に、私は必死に無罪を主張したが、ついに届くことはなかった。


「食べなさい、身体が温まるはずだ」

 そう言って湯気の立つ食事を差し入れたのは、当時その牢獄の管轄の責任者となっていたセオルド・コルサエール公爵だった。あまり社交界に来ないことで有名だった彼は妻を亡くしてからはさらに表に顔を出さなくなっていたため、私も誰だったかを思い出すのに少しばかり時間を要した。

「……要りません」
「そんなことを言わないで。ここに来てからまともに食事を口にしていないだろう? それにここの食事はあまり美味しくない。これは厨房から私が持ってきたものだ」

 優しく微笑んだセオルドに、もうれたと思っていた涙がまた溢れてきた。
 ここに来て初めて穏やかな顔で同じ目線で話してくれた人だった。

「っ、本当に私は何も知らないんです、エドワード様を殺そうとだなんて……!」

 この人ならば話を聞いてくれるかもしれない。とうに捨て去ったはずの希望にすがった。彼は力強くうなずいてくれた。

「わかっている、君を信じる。だって君がそんなことをする理由がないだろう」

 汚れた私の手を握った彼の温かさに、今度こそ涙が溢れて止まらなかった。

「私も掛け合って証拠を見せるように言ったが、管轄外だとかたくなに見せようとしない。それに何かがおかしいのはわかっているんだ。もう少しすればそれが何なのか判明するかもしれない。それまで耐えるためにも、今はしっかり食べて力をつけてくれ」
「公爵様……!」

 ずっと尋問され続け、いっそ毒を盛ったと嘘の自白をすれば楽になるのではないかと自問自答する日々だった。心も身体もボロボロで、誰も私の無罪を晴らそうとしてくれる人はおらず、もう死んでしまいたいとすら思ったほどだ。

「安心してくれ。私がきっと君をここから出そう、約束する」

 まっすぐな瞳で言い切ったその人とまさか結婚することになるなど、その時の私は思いもしなかった。


 結局、裏市場で購入した証拠というものが不十分──どころかでっち上げのデタラメであったことと、証拠となるはずのケーキが手作りのせいか早く腐敗して検分することが不可能になったため、証拠不十分となり私は牢から出された。
 王太子が自分の身が無事であったこと、それからもう二度と顔を見たくないから釈放してどこかに捨てておけと言ったことで、呆気なく牢獄生活は終わりを迎えたのだ。
 約三週間ぶりに牢を出た私は衰弱しきっていて、セオルドの気遣いと介助のおかげでほとんど誰とも会うことなく城の外へ出ることができた。

「先程、エドワード……殿下の使者が来ました。見逃してやる代わりに二度と顔を見せるなと。……お父様も私が囚われてすぐ、子爵家から私を除籍したそうです」

 外に出たところで帰る場所を失い、生きる意味も見失いかけていた私は、それでも最後まで無実の証拠を見つけようと奮闘してくれたセオルドに深々と頭を下げた。

「公爵様には大変お世話になりました。心から感謝申し上げます」

 こんなことになっては行く先など修道院くらいだろうか。しかし罪状こそ表に出なくとも私がなんらかの不始末で獄中にいたことは王都の民ならば知っているだろう。できる限り噂の届かない辺境へ向かわなければ。
 こんなことならあの日、身分不相応と知りながらあの手を求めるのではなかった。
 エドワードに最後に会った日から私は後悔ばかりしていた。

「それでは私はもう行きます。このご恩は絶対に忘れません」
「エリーナ嬢」

 誰かに見られる前に去ろうとした私の腕をつかんで止めたのはセオルドだった。

「行くところがないのなら私の家へおいで。行く先を考えるのなら、体調が万全になってからでもいいだろう」
「そんな……そこまでのご迷惑はかけられません」
「結局、私は君に何もしてあげられなかった。無実を証明することもできなかった、そのつぐないだ」

 何もしてもらっていないなんて、そんな風に思えるはずがない。あの冷え切った牢獄にこの人が温かい食事を差し入れてくれたことでどれほど心が救われたか。

「公爵様には十分すぎるほどよくしていただきました……‼ これ以上ご迷惑など、とても……」
「そうは言っても……わかった、それならこうしよう。一度私の家に来て医者に診てもらいなさい。何も異常がなければ、そのあと好きなところに行きなさい。もちろん私の家で過ごしても良い。正直言ってその身なりではいつ人攫ひとさらいに遭ってもおかしくない」

 改めて自分の恰好を見てみた。汚れたドレスと汚い身体、毎日風呂に入れて綺麗な服に包まれていた身分がどれほどありがたいものだったか、こんな時になって痛感する。殿下と交際していた時に自分の身分に文句を付けたことが馬鹿らしくなる。
 けれど今となってはもうどうでもよかった。
 あの幸せな日々に戻ることはない。長い夢だったのだと思うことにした。

「……それでは、……お言葉に甘えさせていただきます」


 しかしセオルドの言葉に甘え、コルサエール公爵邸で医者に診てもらった私は、驚愕きょうがくの事実を知る。
 なんとつい昨夜まで獄中にいたにもかかわらず、妊娠していたのだ。それはもちろんもう二度と会うことはないだろう、この国の王太子の子供だった。
 その診断を受けてすぐに気を失ったのは、まだ十八の小娘が抱えるにはあまりに酷く辛い現実であったからだ。


 目が覚めた私は肌触りの良い服に身をまとい、上質な布団の中にいた。

「目が覚めたかい? 勝手に部屋に入ってすまない。今日はもう暗いし、泊まっていきなさい。食事は食べられそうか? 消化の良いものを用意させたが」

 優しく笑ったセオルドにザッと血の気が引いた。

「申し訳ございません、私っ……!」
「大丈夫だから。君は私の客人として来ているんだ、ここでは好きに過ごすと良い」

 自分より三十も上のセオルドには落ち着いた雰囲気があった。その穏やかな声は私の心を優しく溶かした。

「……殿下にお伝えするのなら、明日の朝に私の方からお伝えしよう」

 一瞬穏やかな気分になったが、殿下と聞いた途端にあの冷たい瞳を思い出し、全身が総毛立った。愛しているとは口ばかりで少しも私の言葉に耳を貸してくれなかった人。

「──いいえ、伝える気はありません。……産む気もありません」

 たとえいかなる理由があろうとも、王族の子供を殺すのは大罪だ。そんな重大な決断をいともたやすくさせてくれたのはエドワードのそれまでの態度だった。

「……それは君が決めることだが、まあ焦らずともゆっくり考えてみたら良い。食事にしよう、久しぶりに人と食べるから楽しみだったんだ」

 セオルドがそう言って笑うと、荒ぶっていた胸の中はすぐに穏やかになった。こんなにも歳上の、父ほど歳の離れたこの人を、ほんの少し可愛いと思ったのだ。
 セオルドはいろんな意味で有名な人だった。
 学生時代から滅多に人付き合いをしなかったのに突然恋愛結婚をした。子供はできなかったがめかけも取らず妻と共に過ごし、妻に先立たれてからは領民のことだけを考えているそうで、社交界にほとんど顔を出さないと。
 頑固者で堅物ではあるが、正義感にあふれた真面目な人柄は領民の人気が高い。莫大な資産があるにもかかわらず堅実な生活を送っている彼は、少し前まで私とはかけ離れた存在だった。

「社交界でたまに見かける公爵様は、もっと笑わない方かと」
「よく言われるが人並みには笑うさ、楽しくないところでは笑えないけれどね」

 たしかに社交界はあまり楽しいところではない。
 噂と憶測が飛び交うあの場所では、きっと今夜にでも私が捨てられて良い気味だと誰かが笑っているだろう。

「私は殿方の話はよく知りませんが、きっと似たようなものなのでしょうね」
「そうだな。だが古狸ふるだぬきの悪知恵を聞くより、君たちに混ざって裁縫の話でもした方が楽しそうだ」
「まぁ!」

 可憐な子女たちの中に一人混じるセオルドを想像して、思わず笑ってしまった。


 公爵邸はとても心地の良い場所だった。メイドたちは余計なことは聞かず優しく接してくれたし、嫌な噂は徹底的に耳に届かないようにしてくれた。
 いつしか自然に笑えるようになった私は心に余裕ができて、セオルドと過ごす時間がとても楽しくてたまらなかった。
 それは殿下に恋をしていた時とは全く違う感情だったが、敬愛以上の、けれども恋ではない何かだった。

「旦那様は奥様に先立たれてからずっとお一人でしたの。エリーナ様がいらっしゃって、旦那様もよく笑われるようになられて……私たちは本当にエリーナ様に感謝しているんです」

 使用人からそう言われた時、ここにいてもいいと言われている気がして嬉しかった。

「ただいま、エリーナ」
「セオルド様っ! おかえりなさいませ!」
「聞いてくれ、今日部下たちが──」
「まぁ、そんなことが! そういえば私も話したいことがあったんです、今日庭で──」

 いつしか名前で呼び合うようになった。出て行くとも出て行けとも言わず、食事を共にして、その日あったことをお互いに話し合う。その後は二人で茶を飲みながら歓談の続きをして、そうして一日を終える。
 セオルドの休みには共に庭園を散策して、まるで熟年夫婦のような過ごし方ではあったけれど、とても穏やかで優しい日々を過ごした。これが一生続けば良いと思うほど幸せだった。


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