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1巻
1-2
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しかし時間はあっという間に過ぎるもので、私のお腹は徐々に目立つようになった。
この子を殺すのならうんと早い方が良いのに、私はそれを考えないようにして逃げていたのだ。
怖くてたまらなかった。この子を殺すことも、そうした後に何事もなかったふりをして生きていくことも。
そんな葛藤を見越していたかのように、セオルドはいたっていつも通りにさらりと口にした。
「私と結婚しないか?」
「……え?」
「君は子どもを堕ろすと言っていたけれど、きっとそれは君に永遠に傷をのこすだろう。もちろん断ってくれてかまわない。私のような老いた男と結婚したら君はいろいろと噂されるだろうから」
「そんなこと……!」
ずっとこの時間が続くのなら、これほど幸せなことはなかった。
しかしどこまで厚かましくなれれば、他の男との間にできた子どもを共に育ててくれと言えるだろう。
黙って俯いた私にセオルドはやはり優しい声音で言った。
「エリーナ。私は妻との間にとうとう子どもに恵まれなかったが、ずっと父親になってみたかった。君さえ良ければそうなりたいと思っている。男でも女でも関係なく可愛がると約束するし、その子に私の全てを譲ろう」
「セオルド様、それは」
「他の者からは若い女を囲った爺と評されるかもしれないが、それでも余生をこの家で、君と穏やかな時間を過ごせるのなら何も気にならないさ」
あんなにもすぐに堕ろそうと決めたのに、暖かいこの空間でセオルドと子どもと三人――まるで昔望んだ夢が叶おうとしていた。
「──ごめんなさい……」
「エリーナ。気にしないでくれ、私は」
「あなたのその言葉に甘えてしまう私を、どうか許してください」
私の言葉に彼がパッと顔を上げた。それはそれは嬉しそうな顔で大きく頷いた。
「あぁ、必ず君とお腹の子が幸せに暮らせるようにしよう」
あまりにも大きい贈り物だった。
その贈り物以上のものを私はいつかこの人にあげられるだろうか。そんなことを考えて私は目を伏せた。薄い涙の膜に気付かないふりをして。
そしてその一週間後、社交界はセオルドと私、歳の離れた二人の突然の結婚の話で賑わっていた。
セオルドを慕う部下たちは「人の良い彼が悪女に騙された」と囁いたそうだが、それをセオルド自身が宥め、自分はこれから幸せになるのだから祝福してくれと言ったらしい。そんな彼にそれ以上反論する者はいなかったという。
結婚から少し経った頃、安定期に入った私は少し運動をした方が良いと主治医に勧められ、侍女と共に城下町へ出かけていた。
最近人気のお菓子屋が、と嬉しそうな顔で案内してくれる侍女について歩いていた時、最悪な偶然が起こってしまった。
「久しぶりだな。俺の次は公爵か」
その言葉に思わず振り返ったことを後悔した。
よりにもよって視察中の殿下と鉢合わせてしまうなんて。
「あの堅物にも色仕掛けが通用するとは驚きだ。それとも俺を亡き者にしようとしたことを無実だとでも嘯いて同情を誘ったか?」
連れていた侍女の顔が険しくなったけれど、私は驚くほど穏やかな心地で元恋人を見ることができた。
「お久しぶりでございます、王太子殿下」
ずっと考えていた。
もしまたいつか彼の顔を見ることがあれば、その時私は冷静でいられるだろうか。まだ心のどこかに燻っているあの傷が、熱が、まだ無実だと訴えようとしないだろうかと。
けれどいざ会ってみると全く何も感じない。釈放された今となっては、この人がどんな勘違いをしていたってかまわないとすら思えた。
「夫に色仕掛けなどした覚えはありませんが……」
だって私にはもう家族がいる。私を守ると言ってくれた夫がいるのだ。何も持たない私が夫にあげられるのは、妻としての誠意だった。
私と過ごすことを幸せだと言ってくれる夫と共にいるのに、私がいつまでも昔の恋人のことで悩む必要はない。しかしその堂々とした態度が気に障ったようでエドワードの機嫌が悪くなった。
「っ、どうだかな! お前は昔から男に色目ばかり使っていたんだろう? そんなお前に信用などないに決まっているだろう!」
「──僭越ながら、王太子殿下の信用を得ようとはもう思っておりません。それに申し訳ありませんが、昔のことは忘れました」
「は……なんだと……?」
だって私は何もしていない。あなたに罪悪感を抱く必要だってない。
私を信じてくれたのは恋人でも両親でもなく、セオルド様だけだったのよ。
「それでは私は失礼いたします」
丁重にお辞儀をして通り過ぎようとした私の手を、彼が強い力で掴んだ。
「泣いてしおらしくすればまだ可愛げがあるものを……! 忘れたなどと酷く他人行儀じゃないか、女というのは昔の男にそうも冷たくするものか?」
あんな終わらせ方をしたくせに。私のこの対応は冷たいだろうか。二度と顔を見せるなとあなたは言ったのに。
「冷たくしているつもりはありませんが……申し訳ありません、夫に誠実でありたいだけです。お気に障ったのなら謝罪いたします。手を放していただけますか?」
「っ……俺のお手付きに手を出すほど、公爵が飢えていたとはな‼」
セオルドを侮辱する言葉に、今度こそ侍女は耐え切れなくなって言葉を発した。
「お言葉ですが、奥様と旦那様はとても愛し合っておられます‼ 申し訳ありませんが、これ以上はお腹の子に障りますので失礼いたします! 奥様、行きましょう!」
怒りで瞳が揺れている彼女に緩く頷いてエリーナはその場を後にした。
「お腹の子……だと……?」
すれ違いざまのエドワードの酷く歪んだ顔に私はしてやったり、という気持ちになり、ほんの少しだけ気が晴れた。
セオルドにとって二度目の結婚なので、式をする必要はないだろうと思っていたけれど、せめてドレス姿だけでも残したいということで絵を描いてもらうことになった。
セオルドも普段は着ないような正装をして私の横に並んでいる。
「いやぁ、綺麗な奥様ですねぇ!」
画家の男が軽快な声で言う。
その言葉に、見るからに気をよくするセオルドに私もくすりと笑った。
「お二人が年の差結婚っていうのは街でも話題ですけど、どこでお知り合いに?」
実家に来ていた画家はこんなに話すことはなかったので、なんだか根掘り葉掘り聞かれている気がして居心地が悪い。
しかし私の疑心とは逆にセオルドは照れたように質問に答えた。
「恥ずかしながら私が彼女に惚れ込んでね、無理言って連れて来たんだよ。彼女のいる日々が私の幸せなんだ」
「──私も幸せです」
無理に連れて来られたなどと思っていない。
画家の男は笑い合う私たちを和やかに眺めながら筆を動かした。
「奥様は椅子に座ったままお描きして良かったんで?」
「あぁ。妻は妊娠中でね」
「そうなんですね! いつ頃お生まれに?」
「来年の春頃だよ」
何のためらいもなく答えた夫はやはりすごいと思った。
予定日はちょうど冬真っ只中だと言われたけれど、それが社交界で知られたらエドワードの子どもではと疑われかねない。
「だが身体が弱くてね、早産になるかもしれないと言われているんだが」
「そうなんですね。いやぁ公爵様、幸せ者ですね!」
「ははは、そうだろう? 男の子なら私が剣術を教えようと決めているんだ。女の子ならたくさんドレスや宝石を買ってあげないとな」
「まぁセオルド様ったら、気が早いですわ」
「ははっ、本当に仲が良いですねぇ」
どこか乾いた笑い声に私はどくりと心臓が鳴った。
『ははっ、本当に仲が良いですねぇ、アンタたち』
脳裏に浮かんだのはかつてエドワードの部屋で過ごした時の光景。
私を膝に乗せた彼を見て、政務の報告に来た男が呆れたような顔でそう言って笑った。
……どうして……
どうしてその男がここにいるのだろう。彼の部下が来たことに、どうして私はもっと早くに気付かなかったのだろう。
「──おっと。エリーナ、すまない。そろそろ約束がある時間だから用意してくる」
「っ、セオルド様……!」
「支度ができたら一度寄るよ、それまで描いてもらいなさい。何かあれば呼んでくれ、すぐに戻ってくる」
まさか引き止めるわけにもいかず、その後ろ姿を見送った私はうるさい心臓の音を悟られないように必死だった。
「……いやぁ、奥様、本当にお綺麗ですね~」
軽い調子で再び口を開いた男──そう、確かダールと呼ばれていたはす。その彼を私は強く睨み付けた。
「あなたはいつから画家になったのかしら」
「……はい?」
「あなたは殿下の部下の方でしょう」
妙に渇く喉のせいで掠れそうな声だったけれど、彼にははっきり伝わったらしい。
面食らった顔をした彼はすぐにニッと笑った。
「アンタなら忘れていてもすぐに思い出してくださると思っていましたよ、エリーナ嬢」
「……今はもうセオルド様の妻よ」
「あぁ、確かにそうですね。それにしても残念だ、アンタが殿下と結婚してくれたら良かったんですがね」
いつだったか自分も夢見ていた戯言をいまさら耳にするとは。
「あいにく、私は今の夫と幸せに暮らしているのよ。あなたが一体どういう用件でこんなところまで来たのかはわからないけれど、殿下の命令なのならぜひ報告してちょうだい。私はいま最愛の人と最愛の人の子を授かって本当に幸せそうだって」
エドワードが私のことを探る理由はわからないけれど、不幸を願われているならそれはそれで腹立たしい。自分の全てを奪った男の望み通り振る舞うほど私は優しくはない。
「……まぁ、そうですね。俺としてはアンタが良かったけど、もう結婚しちゃったし仕方ないっすね。あ、絵はちゃんと完成させるんで安心してくださいね! 俺これでも画家よりうまいんで!」
緑色の瞳を細めたその男は、なんだか憎めない笑みを浮かべていた。
* * *
王城の一角にある王太子の執務室で、ダールはこちらを睨み付けた己の主人である王太子のエドワードに報告をしていた。
「お元気そうでしたよ、コルサエール夫人」
コルサエール夫人、という呼び方にあからさまに不機嫌になったエドワードだったが、特に気に留めた様子もなくダールは続けた。
「それにしても画家として潜入するのは初めてですよ、まさかこんなところで絵の巧さが役に立つとは。俺、最近あの絵を仕上げるのといつもの仕事との両立ですっかり寝不足……」
「元気かどうかを聞いてるんじゃない、俺が知りたいのは……!」
苛立ったように机を殴るエドワードに、怯む様子もなくダールは、あぁ、と思い出したように頷く。
「公爵の子ども、ご懐妊中なのは本当みたいっすね。お腹も少し目立ってましたし……まぁ、すごい幸せそうでしたよ!」
「俺を殺そうとしたあの女が、幸せになって良いわけがないだろう⁉」
執務室に響き渡るその怒鳴り声は、おそらく廊下に控えている彼の侍従にも届いているだろう。
「そんな怒らなくても……」
「屋敷に入り込めたのなら、階段から突き落とすなり何なりして子供を殺すことくらいっ……」
「殿下」
さすがに言葉が過ぎると珍しく真面目な顔をしたダールに、エドワードはわかっているとばかりに再びテーブルを殴った。
「……あの女、浮気してたんだ……! 絶対にそうだ、それ以外にない!」
「はぁ、別にいいんじゃないですか? もう別れたんだし、お互い縁が切れたんだと思ってそっとしておいたら……」
「ふざけるな‼ 俺のことを愛していると言いながらあいつは他の男とっ……!」
「いや、でも、もう別れたんだから……」
「うるさい黙れ‼」
エドワードはまるで子どものように怒鳴り散らしている。
相変わらず彼女のことになると我を見失い、恐ろしいことを平気で口にするものだとダールは心の中でため息を吐いた。
「まぁ良いじゃないっすか、元から子爵令嬢じゃ王太子妃になれないし」
「公爵の正妻にだってなれないはずだろうが!」
「あれはイレギュラーでしょ」
「正妻といったところで二度目の結婚じゃないか! それに三十も歳上なんだぞ⁉ それなのに幸せだなんて……! くそっ……!」
「幸せは人それぞれですからね。本人たちが良いなら、良いんじゃないっすか?」
答えながらもダールは内心で呆れていた。あの女呼ばわりし、酷い別れ方をしても、ましてや捨てたつもりでいたってエドワードの心の底にはエリーナが棲みついて離れないのだ。
こんなことならいっそ誰が何を言おうが、彼女の言葉を信じて手放さなければ良かったのに。
それでも結果は同じだっただろうなとダールは二人をそばで見ていたからこそわかっていた。エリーナならば、きっと責任を感じて自分から離れていっただろう。
いずれにせよ、エリーナはエドワードがいなくとも幸せになれたのだ。エリーナがいなければ幸せになれないエドワードとは違って。
「どうせあの女は、公爵のうまい口車に乗せられて騙されたんだろう、哀れなものだ」
エドワードはそう思わなければやっていられないのだ。
ダールは哀れなのは一体どちらだろうかと思った。
気持ちを胸に留めておく。エリーナに自分の正体がバレていることは言わない方が良いだろう。大体数度だけとはいえ、顔を合わせたことのある人間を潜入させる方がおかしいのだ。
「じゃあ、報告は終わったんで俺はもう行きますね。さっさと絵の続きを……」
「おい」
「はい?」
「……絵はいつ頃完成するんだ?」
「あと一か月くらいっすかね。お腹がこれ以上目立ってきたらドレスも着れませんから、早めに仕上げるように言われましたけど」
「ならでき上がったら、公爵家に納品する前に俺に見せにこい」
「はい? なんでですか?」
わかっていてダールはすっとぼけてみせた。
大方、彼女の婚礼衣装が見たいとかそんなところだろう。しかし長く仕えているダールには、絵を見せたらエドワードが、彼女の肩に添えているほかの男の手に怒り狂って絵を駄目にするだろうところまで見えていた。
そうはさせるものかといつものおちゃらけた調子で笑ってみせる。
「あぁ、彼女のドレス姿が見たいとか?」
「っ……そんなわけがないだろう⁉ 誰があんな女のドレス姿なんかっ……!」
「そうっすか。じゃ、そのまま納品しますね。今からまた公爵家で仕事なんすよ、何かあればまた報告に来ますね」
しまったという顔をした主人に情がないわけではなかったが、今は徹夜続きの己の身体の方が可愛かった。
ダールが部屋を出てすぐ、何かが割れる音が執務室の閉じた扉の向こうから聞こえたが、彼はその場をさっさと後にした。
* * *
真剣な顔で筆を持つダールに、エリーナはある意味で感心していた。
「あなたって本当にいろんなことをしてるのね」
エドワードの部下としてさまざまな任務に就いていることは聞いていたが、まさかここまで絵が描けるとは。
いっそ画家に転職すればと言った私に、ダールは考えておきますと小さく笑う。
「私はもうドレスを着なくて良いの?」
「ああ、はい。レースとかの細かいところはあとでドレスを借りて描く予定なんで。今はアンタの顔だけあれば」
「ふうん、そう……殿下はお元気?」
話題の一環として投げかけたその言葉は未練から来るものではなかった。
ただ共通の知人くらいの認識で、自分にとってそこまで元恋人の存在が小さくなっていたことに言いながら驚いた。
「あれ、まだ心が残ってたりします?」
「まさか……私はもう何とも思ってないわ。セオルド様が全て忘れさせてくれたもの」
獄中で味わった苦しみも、一生消えないだろうと思っていた憎しみも、それよりずっと優しい感情で受け止めてくれたから。
「公爵、良い父親になりそうですもんねぇ」
「そうね。良い夫で、良い父親で──だから私も良い妻であるように頑張るの」
「……女ってのは本当、決めたら一途なもんだ」
「なあに、急に」
「しみじみ思っただけっすよ。男も同じくらい忘れられたら楽なんでしょうが」
「あら、別に全部を忘れたわけじゃないのよ」
エドワードと過ごした全ての時間が憎悪に巻かれたわけではない。幸せだった思い出はしっかり根付いて離れない。だからこそ苦しい時期もあったけれど、今ようやく乗り越えられたのだ。
「けれど、今が最高に幸せなの」
とても言葉で言い表せないくらい、と私は今朝を思い出してまた笑う。
ありふれた日常だ。朝、顔を合わせておはようと言い、行ってきますと微笑む彼に行ってらっしゃいと言う。夕方になればただいまと笑うあの人をおかえりなさいと迎える、ただそれだけなのだが幸せだった。
「もう殿下に偶然会ったって、運命だなんて思わないっしょ?」
「ふふ、当たり前でしょう?」
「──まぁなんにせよ、幸せなら良かったっす。殿下の機嫌は最悪ですけど……二人とも不幸よりかは片方だけでも幸せな方がいいでしょ」
さらりと王太子を不幸者扱いしたダールを咎めようかと思ったが、もう自分が口を出すことでもないなと笑った。
絵が納品されたのはそれから一か月ほど経った頃だった。
「すごく上手ね。セオルド様が帰ってきたら早速お見せするわ」
「毎度あり!」
殿下の部下として公務をこなしながらの作業はとても大変だったのではないだろうか。
セオルドから預かっていた給金を渡すと、少し疲れて見えたその瞳がパッと輝く。
「あなたに描いてもらって良かったわ」
「はは、嬉しいこと言ってくれますね。まぁこれでアンタと会うことももうないでしょうけど、お幸せに」
「ありがとう。……殿下も、幸せになれると良いわね」
その幸せの中に私が入ることはないけれど、と苦笑する。
ダールは一瞬だけ息を呑んで、けれどいつものように軽快に笑った。
「知ってます? 女が過去の男の幸せを願うのは、自分がいま幸せだからって」
「……唐突にどうしたの?」
「殿下が幸せになるってことは、今のアンタの幸せが崩れるってことですよ」
その言葉が何を意味するのか、よくわからなかった。どういうことか詳しく聞こうかと思ったが、あまりに長居しているダールを訝しんだのかメイドが近くに寄ってきたので、それ以上は尋ねなかった。
「それじゃ、失礼します!」
去っていくその後ろ姿は、ついに一度もこちらを振り返ることはなかった。
私もまた、二度と会うことがないことを心の中で願っていた。
それから数か月後、吹雪の強い真冬の夜に息子のフィルを産んだ。セオルドは実の子どものように「私の跡を継ぐ子だ」と喜び、私の身体をそれはもう労ってくれた。
セオルドは以前から口にしていた通り、フィルが物心ついた頃からおもちゃの木剣を買い与え、使い方をそれは丁寧に教えていた。フィルもまたセオルドをお父様と呼んで慕った。
この幸せが永遠に続けば良いと思っていた。
しかし、幸せな日々の終わりはとても呆気なく、同時に無慈悲だった。持病に加えてまともに休まず仕事をしすぎたのだろう、倒れてからは意識も戻らず逝ってしまった。
心の準備もできないまま、私は結婚して約七年で寡婦となってしまったのだった。
睡眠薬を飲んだおかげか、少しばかり眠れたが、目を覚ましたところで待っているのはセオルドのいない朝だった。
「奥様、もう少しお休みください」
「……フィルは?」
息子の姿がそばにないことに不安を覚える。私が尋ねると、メイドたちは申し訳なさそうに顔を見合わせた。
「それが……旦那様が起きるまでそばにいると仰って。お止めしたのですが、旦那様が疲れているところを起こしてはいけないからと、静かにするように仰られまして……」
「……あの子らしいわね」
セオルドが亡くなってから初めて、微かにではあるが笑った。
私の言葉を聞いてメイドの一人が言いづらそうにこちらに視線を向けた。
「奥様、そろそろ旦那様を埋葬しませんと……」
棺に寝かせた夫の身体は今にも腐敗が始まるだろう。メイドたちが気を利かせて香水を定期的に漂わせたり空気を入れ替えたりしていることは知っていた。
しかしどうしても別れの準備をする心の余裕がない。かといってそのままにしておくわけにもいかず……
「……けれどセオルド様、声をかけたら今にもお目覚めになりそうでしょう……?」
静かに眠っているだけのようだ。声をかけて起こせば、今にも起き上がりそうでどうしても別れの挨拶ができない。
「奥様……」
窓の外の空がまた明るくなったら、自称親戚が今日もたくさん来るのだろう。フィルが爵位を継げるようになるまでの繋ぎになってやるとか、後継人になってやるだとか、みんなが同じことを言いにわざわざやってくる。夫をまともに悼むこともせずに。
この子を殺すのならうんと早い方が良いのに、私はそれを考えないようにして逃げていたのだ。
怖くてたまらなかった。この子を殺すことも、そうした後に何事もなかったふりをして生きていくことも。
そんな葛藤を見越していたかのように、セオルドはいたっていつも通りにさらりと口にした。
「私と結婚しないか?」
「……え?」
「君は子どもを堕ろすと言っていたけれど、きっとそれは君に永遠に傷をのこすだろう。もちろん断ってくれてかまわない。私のような老いた男と結婚したら君はいろいろと噂されるだろうから」
「そんなこと……!」
ずっとこの時間が続くのなら、これほど幸せなことはなかった。
しかしどこまで厚かましくなれれば、他の男との間にできた子どもを共に育ててくれと言えるだろう。
黙って俯いた私にセオルドはやはり優しい声音で言った。
「エリーナ。私は妻との間にとうとう子どもに恵まれなかったが、ずっと父親になってみたかった。君さえ良ければそうなりたいと思っている。男でも女でも関係なく可愛がると約束するし、その子に私の全てを譲ろう」
「セオルド様、それは」
「他の者からは若い女を囲った爺と評されるかもしれないが、それでも余生をこの家で、君と穏やかな時間を過ごせるのなら何も気にならないさ」
あんなにもすぐに堕ろそうと決めたのに、暖かいこの空間でセオルドと子どもと三人――まるで昔望んだ夢が叶おうとしていた。
「──ごめんなさい……」
「エリーナ。気にしないでくれ、私は」
「あなたのその言葉に甘えてしまう私を、どうか許してください」
私の言葉に彼がパッと顔を上げた。それはそれは嬉しそうな顔で大きく頷いた。
「あぁ、必ず君とお腹の子が幸せに暮らせるようにしよう」
あまりにも大きい贈り物だった。
その贈り物以上のものを私はいつかこの人にあげられるだろうか。そんなことを考えて私は目を伏せた。薄い涙の膜に気付かないふりをして。
そしてその一週間後、社交界はセオルドと私、歳の離れた二人の突然の結婚の話で賑わっていた。
セオルドを慕う部下たちは「人の良い彼が悪女に騙された」と囁いたそうだが、それをセオルド自身が宥め、自分はこれから幸せになるのだから祝福してくれと言ったらしい。そんな彼にそれ以上反論する者はいなかったという。
結婚から少し経った頃、安定期に入った私は少し運動をした方が良いと主治医に勧められ、侍女と共に城下町へ出かけていた。
最近人気のお菓子屋が、と嬉しそうな顔で案内してくれる侍女について歩いていた時、最悪な偶然が起こってしまった。
「久しぶりだな。俺の次は公爵か」
その言葉に思わず振り返ったことを後悔した。
よりにもよって視察中の殿下と鉢合わせてしまうなんて。
「あの堅物にも色仕掛けが通用するとは驚きだ。それとも俺を亡き者にしようとしたことを無実だとでも嘯いて同情を誘ったか?」
連れていた侍女の顔が険しくなったけれど、私は驚くほど穏やかな心地で元恋人を見ることができた。
「お久しぶりでございます、王太子殿下」
ずっと考えていた。
もしまたいつか彼の顔を見ることがあれば、その時私は冷静でいられるだろうか。まだ心のどこかに燻っているあの傷が、熱が、まだ無実だと訴えようとしないだろうかと。
けれどいざ会ってみると全く何も感じない。釈放された今となっては、この人がどんな勘違いをしていたってかまわないとすら思えた。
「夫に色仕掛けなどした覚えはありませんが……」
だって私にはもう家族がいる。私を守ると言ってくれた夫がいるのだ。何も持たない私が夫にあげられるのは、妻としての誠意だった。
私と過ごすことを幸せだと言ってくれる夫と共にいるのに、私がいつまでも昔の恋人のことで悩む必要はない。しかしその堂々とした態度が気に障ったようでエドワードの機嫌が悪くなった。
「っ、どうだかな! お前は昔から男に色目ばかり使っていたんだろう? そんなお前に信用などないに決まっているだろう!」
「──僭越ながら、王太子殿下の信用を得ようとはもう思っておりません。それに申し訳ありませんが、昔のことは忘れました」
「は……なんだと……?」
だって私は何もしていない。あなたに罪悪感を抱く必要だってない。
私を信じてくれたのは恋人でも両親でもなく、セオルド様だけだったのよ。
「それでは私は失礼いたします」
丁重にお辞儀をして通り過ぎようとした私の手を、彼が強い力で掴んだ。
「泣いてしおらしくすればまだ可愛げがあるものを……! 忘れたなどと酷く他人行儀じゃないか、女というのは昔の男にそうも冷たくするものか?」
あんな終わらせ方をしたくせに。私のこの対応は冷たいだろうか。二度と顔を見せるなとあなたは言ったのに。
「冷たくしているつもりはありませんが……申し訳ありません、夫に誠実でありたいだけです。お気に障ったのなら謝罪いたします。手を放していただけますか?」
「っ……俺のお手付きに手を出すほど、公爵が飢えていたとはな‼」
セオルドを侮辱する言葉に、今度こそ侍女は耐え切れなくなって言葉を発した。
「お言葉ですが、奥様と旦那様はとても愛し合っておられます‼ 申し訳ありませんが、これ以上はお腹の子に障りますので失礼いたします! 奥様、行きましょう!」
怒りで瞳が揺れている彼女に緩く頷いてエリーナはその場を後にした。
「お腹の子……だと……?」
すれ違いざまのエドワードの酷く歪んだ顔に私はしてやったり、という気持ちになり、ほんの少しだけ気が晴れた。
セオルドにとって二度目の結婚なので、式をする必要はないだろうと思っていたけれど、せめてドレス姿だけでも残したいということで絵を描いてもらうことになった。
セオルドも普段は着ないような正装をして私の横に並んでいる。
「いやぁ、綺麗な奥様ですねぇ!」
画家の男が軽快な声で言う。
その言葉に、見るからに気をよくするセオルドに私もくすりと笑った。
「お二人が年の差結婚っていうのは街でも話題ですけど、どこでお知り合いに?」
実家に来ていた画家はこんなに話すことはなかったので、なんだか根掘り葉掘り聞かれている気がして居心地が悪い。
しかし私の疑心とは逆にセオルドは照れたように質問に答えた。
「恥ずかしながら私が彼女に惚れ込んでね、無理言って連れて来たんだよ。彼女のいる日々が私の幸せなんだ」
「──私も幸せです」
無理に連れて来られたなどと思っていない。
画家の男は笑い合う私たちを和やかに眺めながら筆を動かした。
「奥様は椅子に座ったままお描きして良かったんで?」
「あぁ。妻は妊娠中でね」
「そうなんですね! いつ頃お生まれに?」
「来年の春頃だよ」
何のためらいもなく答えた夫はやはりすごいと思った。
予定日はちょうど冬真っ只中だと言われたけれど、それが社交界で知られたらエドワードの子どもではと疑われかねない。
「だが身体が弱くてね、早産になるかもしれないと言われているんだが」
「そうなんですね。いやぁ公爵様、幸せ者ですね!」
「ははは、そうだろう? 男の子なら私が剣術を教えようと決めているんだ。女の子ならたくさんドレスや宝石を買ってあげないとな」
「まぁセオルド様ったら、気が早いですわ」
「ははっ、本当に仲が良いですねぇ」
どこか乾いた笑い声に私はどくりと心臓が鳴った。
『ははっ、本当に仲が良いですねぇ、アンタたち』
脳裏に浮かんだのはかつてエドワードの部屋で過ごした時の光景。
私を膝に乗せた彼を見て、政務の報告に来た男が呆れたような顔でそう言って笑った。
……どうして……
どうしてその男がここにいるのだろう。彼の部下が来たことに、どうして私はもっと早くに気付かなかったのだろう。
「──おっと。エリーナ、すまない。そろそろ約束がある時間だから用意してくる」
「っ、セオルド様……!」
「支度ができたら一度寄るよ、それまで描いてもらいなさい。何かあれば呼んでくれ、すぐに戻ってくる」
まさか引き止めるわけにもいかず、その後ろ姿を見送った私はうるさい心臓の音を悟られないように必死だった。
「……いやぁ、奥様、本当にお綺麗ですね~」
軽い調子で再び口を開いた男──そう、確かダールと呼ばれていたはす。その彼を私は強く睨み付けた。
「あなたはいつから画家になったのかしら」
「……はい?」
「あなたは殿下の部下の方でしょう」
妙に渇く喉のせいで掠れそうな声だったけれど、彼にははっきり伝わったらしい。
面食らった顔をした彼はすぐにニッと笑った。
「アンタなら忘れていてもすぐに思い出してくださると思っていましたよ、エリーナ嬢」
「……今はもうセオルド様の妻よ」
「あぁ、確かにそうですね。それにしても残念だ、アンタが殿下と結婚してくれたら良かったんですがね」
いつだったか自分も夢見ていた戯言をいまさら耳にするとは。
「あいにく、私は今の夫と幸せに暮らしているのよ。あなたが一体どういう用件でこんなところまで来たのかはわからないけれど、殿下の命令なのならぜひ報告してちょうだい。私はいま最愛の人と最愛の人の子を授かって本当に幸せそうだって」
エドワードが私のことを探る理由はわからないけれど、不幸を願われているならそれはそれで腹立たしい。自分の全てを奪った男の望み通り振る舞うほど私は優しくはない。
「……まぁ、そうですね。俺としてはアンタが良かったけど、もう結婚しちゃったし仕方ないっすね。あ、絵はちゃんと完成させるんで安心してくださいね! 俺これでも画家よりうまいんで!」
緑色の瞳を細めたその男は、なんだか憎めない笑みを浮かべていた。
* * *
王城の一角にある王太子の執務室で、ダールはこちらを睨み付けた己の主人である王太子のエドワードに報告をしていた。
「お元気そうでしたよ、コルサエール夫人」
コルサエール夫人、という呼び方にあからさまに不機嫌になったエドワードだったが、特に気に留めた様子もなくダールは続けた。
「それにしても画家として潜入するのは初めてですよ、まさかこんなところで絵の巧さが役に立つとは。俺、最近あの絵を仕上げるのといつもの仕事との両立ですっかり寝不足……」
「元気かどうかを聞いてるんじゃない、俺が知りたいのは……!」
苛立ったように机を殴るエドワードに、怯む様子もなくダールは、あぁ、と思い出したように頷く。
「公爵の子ども、ご懐妊中なのは本当みたいっすね。お腹も少し目立ってましたし……まぁ、すごい幸せそうでしたよ!」
「俺を殺そうとしたあの女が、幸せになって良いわけがないだろう⁉」
執務室に響き渡るその怒鳴り声は、おそらく廊下に控えている彼の侍従にも届いているだろう。
「そんな怒らなくても……」
「屋敷に入り込めたのなら、階段から突き落とすなり何なりして子供を殺すことくらいっ……」
「殿下」
さすがに言葉が過ぎると珍しく真面目な顔をしたダールに、エドワードはわかっているとばかりに再びテーブルを殴った。
「……あの女、浮気してたんだ……! 絶対にそうだ、それ以外にない!」
「はぁ、別にいいんじゃないですか? もう別れたんだし、お互い縁が切れたんだと思ってそっとしておいたら……」
「ふざけるな‼ 俺のことを愛していると言いながらあいつは他の男とっ……!」
「いや、でも、もう別れたんだから……」
「うるさい黙れ‼」
エドワードはまるで子どものように怒鳴り散らしている。
相変わらず彼女のことになると我を見失い、恐ろしいことを平気で口にするものだとダールは心の中でため息を吐いた。
「まぁ良いじゃないっすか、元から子爵令嬢じゃ王太子妃になれないし」
「公爵の正妻にだってなれないはずだろうが!」
「あれはイレギュラーでしょ」
「正妻といったところで二度目の結婚じゃないか! それに三十も歳上なんだぞ⁉ それなのに幸せだなんて……! くそっ……!」
「幸せは人それぞれですからね。本人たちが良いなら、良いんじゃないっすか?」
答えながらもダールは内心で呆れていた。あの女呼ばわりし、酷い別れ方をしても、ましてや捨てたつもりでいたってエドワードの心の底にはエリーナが棲みついて離れないのだ。
こんなことならいっそ誰が何を言おうが、彼女の言葉を信じて手放さなければ良かったのに。
それでも結果は同じだっただろうなとダールは二人をそばで見ていたからこそわかっていた。エリーナならば、きっと責任を感じて自分から離れていっただろう。
いずれにせよ、エリーナはエドワードがいなくとも幸せになれたのだ。エリーナがいなければ幸せになれないエドワードとは違って。
「どうせあの女は、公爵のうまい口車に乗せられて騙されたんだろう、哀れなものだ」
エドワードはそう思わなければやっていられないのだ。
ダールは哀れなのは一体どちらだろうかと思った。
気持ちを胸に留めておく。エリーナに自分の正体がバレていることは言わない方が良いだろう。大体数度だけとはいえ、顔を合わせたことのある人間を潜入させる方がおかしいのだ。
「じゃあ、報告は終わったんで俺はもう行きますね。さっさと絵の続きを……」
「おい」
「はい?」
「……絵はいつ頃完成するんだ?」
「あと一か月くらいっすかね。お腹がこれ以上目立ってきたらドレスも着れませんから、早めに仕上げるように言われましたけど」
「ならでき上がったら、公爵家に納品する前に俺に見せにこい」
「はい? なんでですか?」
わかっていてダールはすっとぼけてみせた。
大方、彼女の婚礼衣装が見たいとかそんなところだろう。しかし長く仕えているダールには、絵を見せたらエドワードが、彼女の肩に添えているほかの男の手に怒り狂って絵を駄目にするだろうところまで見えていた。
そうはさせるものかといつものおちゃらけた調子で笑ってみせる。
「あぁ、彼女のドレス姿が見たいとか?」
「っ……そんなわけがないだろう⁉ 誰があんな女のドレス姿なんかっ……!」
「そうっすか。じゃ、そのまま納品しますね。今からまた公爵家で仕事なんすよ、何かあればまた報告に来ますね」
しまったという顔をした主人に情がないわけではなかったが、今は徹夜続きの己の身体の方が可愛かった。
ダールが部屋を出てすぐ、何かが割れる音が執務室の閉じた扉の向こうから聞こえたが、彼はその場をさっさと後にした。
* * *
真剣な顔で筆を持つダールに、エリーナはある意味で感心していた。
「あなたって本当にいろんなことをしてるのね」
エドワードの部下としてさまざまな任務に就いていることは聞いていたが、まさかここまで絵が描けるとは。
いっそ画家に転職すればと言った私に、ダールは考えておきますと小さく笑う。
「私はもうドレスを着なくて良いの?」
「ああ、はい。レースとかの細かいところはあとでドレスを借りて描く予定なんで。今はアンタの顔だけあれば」
「ふうん、そう……殿下はお元気?」
話題の一環として投げかけたその言葉は未練から来るものではなかった。
ただ共通の知人くらいの認識で、自分にとってそこまで元恋人の存在が小さくなっていたことに言いながら驚いた。
「あれ、まだ心が残ってたりします?」
「まさか……私はもう何とも思ってないわ。セオルド様が全て忘れさせてくれたもの」
獄中で味わった苦しみも、一生消えないだろうと思っていた憎しみも、それよりずっと優しい感情で受け止めてくれたから。
「公爵、良い父親になりそうですもんねぇ」
「そうね。良い夫で、良い父親で──だから私も良い妻であるように頑張るの」
「……女ってのは本当、決めたら一途なもんだ」
「なあに、急に」
「しみじみ思っただけっすよ。男も同じくらい忘れられたら楽なんでしょうが」
「あら、別に全部を忘れたわけじゃないのよ」
エドワードと過ごした全ての時間が憎悪に巻かれたわけではない。幸せだった思い出はしっかり根付いて離れない。だからこそ苦しい時期もあったけれど、今ようやく乗り越えられたのだ。
「けれど、今が最高に幸せなの」
とても言葉で言い表せないくらい、と私は今朝を思い出してまた笑う。
ありふれた日常だ。朝、顔を合わせておはようと言い、行ってきますと微笑む彼に行ってらっしゃいと言う。夕方になればただいまと笑うあの人をおかえりなさいと迎える、ただそれだけなのだが幸せだった。
「もう殿下に偶然会ったって、運命だなんて思わないっしょ?」
「ふふ、当たり前でしょう?」
「──まぁなんにせよ、幸せなら良かったっす。殿下の機嫌は最悪ですけど……二人とも不幸よりかは片方だけでも幸せな方がいいでしょ」
さらりと王太子を不幸者扱いしたダールを咎めようかと思ったが、もう自分が口を出すことでもないなと笑った。
絵が納品されたのはそれから一か月ほど経った頃だった。
「すごく上手ね。セオルド様が帰ってきたら早速お見せするわ」
「毎度あり!」
殿下の部下として公務をこなしながらの作業はとても大変だったのではないだろうか。
セオルドから預かっていた給金を渡すと、少し疲れて見えたその瞳がパッと輝く。
「あなたに描いてもらって良かったわ」
「はは、嬉しいこと言ってくれますね。まぁこれでアンタと会うことももうないでしょうけど、お幸せに」
「ありがとう。……殿下も、幸せになれると良いわね」
その幸せの中に私が入ることはないけれど、と苦笑する。
ダールは一瞬だけ息を呑んで、けれどいつものように軽快に笑った。
「知ってます? 女が過去の男の幸せを願うのは、自分がいま幸せだからって」
「……唐突にどうしたの?」
「殿下が幸せになるってことは、今のアンタの幸せが崩れるってことですよ」
その言葉が何を意味するのか、よくわからなかった。どういうことか詳しく聞こうかと思ったが、あまりに長居しているダールを訝しんだのかメイドが近くに寄ってきたので、それ以上は尋ねなかった。
「それじゃ、失礼します!」
去っていくその後ろ姿は、ついに一度もこちらを振り返ることはなかった。
私もまた、二度と会うことがないことを心の中で願っていた。
それから数か月後、吹雪の強い真冬の夜に息子のフィルを産んだ。セオルドは実の子どものように「私の跡を継ぐ子だ」と喜び、私の身体をそれはもう労ってくれた。
セオルドは以前から口にしていた通り、フィルが物心ついた頃からおもちゃの木剣を買い与え、使い方をそれは丁寧に教えていた。フィルもまたセオルドをお父様と呼んで慕った。
この幸せが永遠に続けば良いと思っていた。
しかし、幸せな日々の終わりはとても呆気なく、同時に無慈悲だった。持病に加えてまともに休まず仕事をしすぎたのだろう、倒れてからは意識も戻らず逝ってしまった。
心の準備もできないまま、私は結婚して約七年で寡婦となってしまったのだった。
睡眠薬を飲んだおかげか、少しばかり眠れたが、目を覚ましたところで待っているのはセオルドのいない朝だった。
「奥様、もう少しお休みください」
「……フィルは?」
息子の姿がそばにないことに不安を覚える。私が尋ねると、メイドたちは申し訳なさそうに顔を見合わせた。
「それが……旦那様が起きるまでそばにいると仰って。お止めしたのですが、旦那様が疲れているところを起こしてはいけないからと、静かにするように仰られまして……」
「……あの子らしいわね」
セオルドが亡くなってから初めて、微かにではあるが笑った。
私の言葉を聞いてメイドの一人が言いづらそうにこちらに視線を向けた。
「奥様、そろそろ旦那様を埋葬しませんと……」
棺に寝かせた夫の身体は今にも腐敗が始まるだろう。メイドたちが気を利かせて香水を定期的に漂わせたり空気を入れ替えたりしていることは知っていた。
しかしどうしても別れの準備をする心の余裕がない。かといってそのままにしておくわけにもいかず……
「……けれどセオルド様、声をかけたら今にもお目覚めになりそうでしょう……?」
静かに眠っているだけのようだ。声をかけて起こせば、今にも起き上がりそうでどうしても別れの挨拶ができない。
「奥様……」
窓の外の空がまた明るくなったら、自称親戚が今日もたくさん来るのだろう。フィルが爵位を継げるようになるまでの繋ぎになってやるとか、後継人になってやるだとか、みんなが同じことを言いにわざわざやってくる。夫をまともに悼むこともせずに。
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