失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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第4章 北伐

44:北伐、レセナ

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第4章-地図


 その日、シモンはレセナのハンターギルドの壁際にある椅子に腰掛け、一人でぼんやりとしていた。

 レセナに入ってからの柊也とシモンは、朝食と昼食はこの世界の食材を使った物を摂っていた。二人だけで行動していた時は食料確保の関係もあって右腕の力に依存していたが、流石に多数の人が行き交うレセナでトイレまで一緒に行っていたら、奇異の目で見られる。そのため、朝食と昼食はこの世界の食事を取る事で2mの制限を解除し、日中は別々に行動する事も増えていた。

 いつもは類まれな美貌が凶器に変わるほど苛烈な光を瞳に宿しているシモンだったが、この日は違っていた。同じフロアに居る多数のハンター達の視線を一身に受けている彼女は、しかしそれに気付かず、テーブルに肘をつき、卵の様な形の良い顎を指で支え、心ここにあらずといった態で反対側の壁を眺めている。いつもの苛烈な光は鳴りを潜め、その瞳は潤み、蠱惑的な光を放っていた。

「…はぁ…」

 瑞々しく色鮮やかな、形の良い唇から、艶めかしい溜息が漏れる。側頭部を飾る美しい三角形の耳が時折快楽に打ち震える様に痙攣し、胸元に添えられた右手は溜息にあわせ何かを掻き抱くかのように力が入り、形良い豊かな胸を変形させる。肩口で切り整えられゆったりと上半身を覆う白い上着と、彼女の美しい曲線を忠実に再現する濃茶のレザーレギンスに包まれた彼女は、清廉と淫靡という相容れない要素の融合により危うい光を放ち、男達の目を釘付けにした。

 周りにいる男達は皆、彼女に決まった男がいる事を知っていたが、いや、知っていたからこそ、彼女の恍惚とした姿を見て、男の前で露になる彼女の一糸まとわぬ姿とその裸体が毎晩繰り広げる様々な痴態を想像し、体の一部を熱くする。そしてその体を独占しているポーターを心の中で袋叩きにしたが、実のところ彼女が昨晩夕食後に出されたチョコレートパフェを脳内で反芻していただけだとは、誰も思い至らなかった。

「皆、忙しいところ集まってくれて、すまんな」

 フロアの中に広がる、いつもとは異なる雰囲気に戸惑いながらも、ギルドマスターのサントスが声をかけ、進み出る。男達は意識を改めてサントスの方を向き、シモンも脳内での13回目の食事を中断し、口の端から零れ落ちそうだった涎をふき取った。

 サントスが、フロアに居並ぶ男女を見渡す。フロアがそう広いわけでもなく、また幾人かはクエストの途中で不在だが、それでもここに居るハンター達は、シモンを筆頭に、レセナで有数の力量を持つ上位陣だった。サントスはレセナを代表する彼らに、ハンター全員に伝える意味を込め通達する。

「先日、王家より布告があった。――― 教会より、北伐が発布された」

 サントスの声がフロアに響き渡る。

 ハンター達は即座に反応を見せず、傍らにいる同業者と顔を見合わせる。その顔に映し出されたのは、戸惑いではない。肚の底に溜まり、せり上がってくる熱気と歓喜にじりじりと熱せられていく自分自身に、驚く顔だった。一同はやがてサントスの方を振り向き、一斉に拳を掲げる。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
「ついに、ついにかっ!」
「やるぞ!俺はやるぞ!」

 男達は喜びに沸き立ち、我こそはと参加を表明する。その姿を見て、サントスも満足げに頷いた。

 人族は長年に渡り、ガリエルの侵略を受け続けている。日々レセナに押し寄せる魔物達はその尖兵であり、ハンター達はいわば防壁だった。ハンター達は自身の役割に誇りを持っているが、しかしあくまで受け身であり、対処療法でしかない。人族が「やられっ放し」である事に、ハンター達は鬱憤を募らせていた。

 それに対する唯一のはけ口である北伐が、ついに発布されたのだ。前回の北伐から15年。その間の鬱憤を晴らし武名を挙げる絶好の機会に遅れまいと、ハンター達は我先にとサントスに詰め寄った。

「俺に、俺に参加させてくれ!」
「いや、俺の素質こそ、このためにあるんだ!是非俺を連れて行ってくれ!」
「落ち着け!お前ら静かにしろ!」

 日頃大人しいサントスが珍しく声を荒げ、ハンター達を黙り込ませる。すでにハンター稼業は引退した身だが、A級ハンターとして前回の北伐に従軍して無事生還し、引退した後にギルドでハンター達を取り纏めるようになったサントスの気迫を無視できず、ハンター達は大人しく耳を傾けた。

「まあ、これくらい気概がないと、先達者としては張り倒すところだったがな。皆、骨があって何よりだ。…でだ、その意気は有難いが、実際皆が皆北伐に参加して空っぽにしてしまうと、甚だ問題だからな。こちらで選定させていただく。名が挙がらない者は、悪いが留守番だ。せいぜい選定された者を妬んで、酒を奢ってもらえ」

 そう言うとサントスは手元の紙を広げて、目を落とす。

「とは言え、上の方は軒並み行って貰うぞ。…まず、シモン」

 名前を聞いたハンター達が一斉に後ろを振り向き、壁際の座ったままの彼女を見やる。皆が当然のように、最初に呼ばれるであろうと予想していた彼女は、しかし意外にも驚いたような顔をしたままサントスを見やり、動かなくなった。

「どうした?シモン。君は今やここレセナの代名詞とも言える、突出したハンターだ。君に行って貰わないと、レセナはこの国の名折れと言われてしまう。輝かしい武功を期待しているぞ」
「…承知した」

 一拍置いて、厳しい顔をしながらも承諾するシモンを見てサントスは頷き、ハンター達と手元の紙を交互に見やりながら、言葉を続ける。

「続けて名を呼ぶぞ。アダン、ベニート、カルロス、…」

 名前が次々に呼ばれ、その都度野太い男の歓声が上がる中、シモンはただ一人厳しい顔をして椅子に座り、下を向いて何かを堪えていた。



 ***

 柊也はその朝請け負ったD級クエストを昼過ぎに終わらせ、自宅で椅子に座り、固いパンを齧りながら本を読んでいた。

 レセナに来てから、柊也はコンスタントにクエストをこなしていたが、思うように評価には繋がらなかった。最近、レセナ周辺に出没する魔物や獣のバランスがどうにも悪く、D級が単独で片付けられる魔物や獣がほとんどいない。かと言ってシモンと一緒に行動すると、外聞を気にしてどうしてもポーターとして活動せざるを得ず、結果シモンの評価へと繋がってしまうのだ。そのため、合間を見て「ライトウェイト」や「クリエイトウォーター」を必要とするクエストを中心にこなしていたが、重要だが地味極まりないため、なかなか他者の目に留まる事がなかった。

 柊也は別に目立ちたがり屋というわけはなく、外聞を気にしたり、プライドが高いわけでもない。A級ハンターのシモンと一緒に居ても、別に嫉妬するわけではないが、それでもやはり一人の成人男性として、一緒に生活している女性に相応しい、頼りがいのある男でいたいと思う程度には気負っていた。ぶっちゃけて言えば、周囲の者から「ヒモ」だと思われたくなかったのである。

 扉の開く音が聞こえ、柊也が顔を上げる。

「お帰り、シモン。ギルドの招集は、何の話…だった?」

 気軽に声をかけた柊也だったが、下を向いたまま顔を上げずに歩み寄るシモンを見て、声のトーンを落とす。シモンはそれには答えず、柊也の前まで進むと、立ったまま動かなくなる。

「シモン、どうした?」

 柊也の問いかけにシモンは答えず、下を向いたまま動かない。柊也はそれ以上追求せず、じっと彼女が口を開くのを待っている。

 やがてカーテンの様に綺麗に流れる長い髪が揺れ動き、彼女が髪で顔を隠したまま、言葉を紡いだ。

「…北伐が、発布された」

 シモンの発言を聞き、今度は柊也が動かなくなる。

「…いつだ?」
「ロザリアの第2月1日。ラモアの街から出立する」

 シモンの口から、レセナから歩いて4日程かかる街の名前が挙がった。

「何故だ?…早すぎる」

 柊也が眉間に皴を寄せる。前回の北伐は、召喚が行われてから2年後だった。それ以前の事例を知らないから何とも言えないが、10ヶ月前に柊也を襲った陰謀とその後一人ぼっちになった美香の精神状態を考えると、遅れる要素こそあっても早まる理由が柊也には思いつかなかった。柊也の疑問に、シモンが答えを齎した。

「君と一緒に召喚された女性が、昨年の末にS級を単独撃破したそうだ。その報を聞いた教会が神の啓示と見て、計画を早めたらしい」
「…何をやっているんだ、あいつは…」

 柊也は左手を顔に当て、天を仰ぐ。確かに柊也は美香に対し自分の思う道を進むよう、書き置きをして指し示した。彼女がこの世界で独り立ちできるよう、自分のできる範囲でサポートしたつもりだったが、立ち直るのはいいにしても突き抜けすぎだろう。以前、言葉の綾で美香の事を「脳筋」と表現した事があったが、あながち誤っていなかったようだ。

 美香に対して愚痴を吐く柊也に、シモンが言葉を続ける。

「私も、従軍する事になった」

 シモンの声のトーンに引っ掛かりを覚え、柊也は顔から手を離し、シモンへと目を向ける。それに呼応するかのように、シモンが静かに顔を上げる。

「…嫌だ」

 シモンの顔は悲しみで大きく歪み、泣き出すのを必死で堪えていた。

「…私は誓ったんだ。この牙に誓ったんだ。あなたの傍にいると、片時も離れないと、そう誓ったんだ。…でも、私はA級ハンターだ。務めを果たさなければいけない」
「…」

 口を開いた事で卵の殻に穴が開き、そこから涙が流れ落ちた。

 ハンターには徴兵義務があり、北伐はそれに該当する。そのため、指名されたシモンは参加しなければならない。そして、ある種の良識や輜重の管理、兵質の維持のために、低ランクのハンターは除外される。今回の北伐において参集されたハンターは、A級が全員とB級の6割、C級の上位の一部で、D級以下は除外されていた。

「…嫌だ。離れたくない…」
「…」

 殻の穴が大きくなる。

 シモンの殻の中では、相反する感情が大きくうねり合っていた。A級ハンターの矜持と銀狼の誇りが出征を呼びかけ、牙の誓いが必死にそれを引き留めようとしている。そして、その三者の諍いを全て丸ごと飲み込み押し流そうと、牙の誓いとは異なる大きな感情が覆い被さって来ていた。

「…私は、A級を捨ててもいい…」

 シモンがぽつりと言う。

「…ハンターを辞めてもいい。あなたが望むなら、あなたの奴隷に身をやつしてもいい。だから、だからっ!」

 卵の殻が割れて中から噴き出す感情を押しとどめようとシモンは胸に両手を当て、慟哭の声を上げる。そして、

「シモン」

 極めて平板な抑揚の、柊也の声に遮られた。柊也は、激情を止められ動きを止めるシモンの目を見据えている。その光は不愛想で抑揚に乏しいものの、確かにシモンを気遣い、不器用に受け止めようとしていた。

「シモン。お前と専属ポーター契約を結ぼう」
「…え?」
「専属ポーター契約を結べば、俺は北伐について行ける。そうだろう?」
「…」

 柊也の目に射抜かれたシモンは、驚きの表情を顔に浮かべたまま、首を縦に振った。

 専属ポーター契約は、文字通りポーターが雇用者の専属となる契約だ。この場合、契約したポーターは雇用者の所有物扱いとなる。いわば剣や鎧と同じ扱いになるため、こういった制限がある場合でもポーターの同行が可能になる。

 ただし専属ポーター契約は、ほとんど行われる事がない。何故なら所有物扱いになる契約であり、雇用者とポーターとの上下関係があり過ぎて、雇用者によるポーターの迫害や奴隷化、刃傷沙汰が後を絶たないのだ。しかも所有物扱いに合意した契約であるため、第三者による介入もできない。契約が登場した当初はそういうリスクが想定されていなかったが、一部の頭の回る者達による悪用によってそれが伝播され、いつしか常態化するようになっていた。

 これを防ぐためには、契約時に所有物としての適用範囲を明確にして、ポーター側の心身を守る条項を加えるべきだが、識字率も高くないこの世界で、片田舎から出てきたようなポーターが契約書を理解できるわけがない。そのため雇用者側の都合の良いように書かれた契約書を覆すことができず、悪しき前例が増えていくだけとなっていた。

 今ではポーター側にもその危険性が知れ渡っており、専属ポーター契約は百害あって一利なしとされ、見向きもされない。現在では専属ポーター契約を行うのは、借金で首の回らなくなったポーターが身売りする様な場合に限られていた。事実上の奴隷契約とはいえ、雇用者以外の第三者に対しては一般の人間として扱われるため、奴隷よりはマシと言える。そしてその実情も知れ渡っているため、専属ポーター契約を結んだポーターは、白眼視されるのである。

 シモンには、信じられなかった。彼女にとって、柊也は全てを捧げた相手である。上下関係で言えば柊也の方が遥かに上だ。にも拘らず、シモンのいわば我が儘に、自身を貶めてでも応じようとする柊也の心が信じられなかった。

「…しかし」
「シモン」

 何ら成算なく、それでも柊也を押し留めようとシモンは口を開くが、またも柊也に遮られる。

「黙って受け取れ。両立させるには、これしかない。ここまでは、俺も付き合おう」
「トウヤ…」

 頑として我を押し通そうとする柊也を見て、シモンは何も言えなくなった。

 柊也にとって、シモンは太陽の女だった。ラ・セリエとレセナでは、その場に居るだけで苛烈で眩い光を放ち容赦なく周囲を焼き尽くす、真夏の太陽だった。そして柊也の前では日が陰り、涼しい風と時折雨の降る、秋の太陽だった。彼女はケルベロスとの対決以後、夏と秋の間を揺れ動きながら、それでも太陽として明るく輝き、柊也を照らしていた。

 その彼女を支えていたのが、A級ハンターの矜持と銀狼の誇りだった。この二つが彼女の四肢となり、彼女を銀狼たらしめ、魔物蔓延る原野で縦横無尽に力を発揮し、太陽として輝かせる原動力となっていた。

 しかし今回、彼女は牙の誓いによって鎖に繋がれた。そして彼女は牙の誓いに殉じ、矜持と誇りを自らの手で葬り去ろうとしていた。

 それではいけなかった。柊也は、もっと太陽を見ていたかった。原野を走り回る一頭の狼を眺めていたかった。そして柊也はその狼と自分を繋げる、一本の手綱を手放すつもりは、全くなかった。

 この世界に召喚されて以降、柊也は物事の取捨ができるようになっていた。この瞬間、自分が何を守り、そのために何を捨てるべきか、選択できるようになっていた。エーデルシュタインでは、自身の命を守るために美香とヴェルツブルグを捨てた。カラディナでは、自分の矜持を守るために自ら退路を塞ぎ、そして結果的にラ・セリエを捨ててシモンを得た。

 今回もその繰り返しだった。守るものはシモンをシモンたらしめる事と、シモンとともに在る事。捨てるものは、自分の評価。柊也の取捨選択の基準は、明確に定まっていた。そして、この2つを守るために、それ以上のものを捨てる覚悟もしていた。

「だが付き合えるのは、ここまでだ。俺は、俺とお前の命を最優先に考える。北伐なんざ、糞くらえだ。我々二人を守るために、最悪北伐からの離脱も考える。その時はシモン、お前もハンターを捨てる事になるかもしれない。それは覚悟しておいてくれ」
「…わかった、トウヤ。そして、すまない。その時が来たら、躊躇わず行動に移してくれ。私は全てを捨てて、あなたについて行こう」

 シモンは、口惜しさと嬉しさの入り混じった顔で礼を言う。そして、テーブルに両手をついて身を乗り出すと、目を閉じ、口を開いた。柊也に、殻に開いた穴を塞いでほしかった。
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