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第17話
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光を感じて目を開くと、船の上だった。
一瞬だけ、この世の終わりを迎えたような顔のディヒトバイが見えた気がしたが、意識を取り戻したばかりの頭が見間違えたのかもしれない。
クラーケンを退け船乗り達が祭りのように騒ぐ中、海水に濡れ体にまとわりつく服を邪魔に思いながら身を起こすと、今度は確かな抱擁が体に伝わった。
それは一瞬だけであったが、ディヒトバイの気持ちを何より確かに伝えている気がして、彼らしいと思った。
ディヒトバイの濡れた髪が頬をかすめ、クエルチアは違和感を覚えた。
「ディヒトさん、鎧を着てたのに、どうして濡れて……」
「ど、どうだっていいだろ」
珍しく口ごもったディヒトバイはすっと立ち上がった。
クエルチアもそれに倣ってゆっくりと立ち上がる。
すると、突然首に腕を絡められた。
アカートだった。
「お前が海に飛び込んでから、キースになんて言い訳しようかずっと考えてたぜ。ディヒトもお前もよくやったな」
「いや、俺は……。ディヒトさんが先に動いてくれなかったら、自分にできることも探そうと思わなかったです。海の上だから何もできないって」
アカートは腕を解くと、毛布を二人に手渡した。
「服を乾かしな。暖かい季節とはいえ、ずぶ濡れのままじゃ風邪ひくぞ」
「はい。ありがとうございます」
船を救った二人の無事を喜ぶ船乗り達を散らしながら、髭を蓄えた壮年の船長が近付いてきて声をかけた。
「船の危機を救ってくれて、感謝する。クラーケンに出会って生き延びたことは他の船乗りにとっても希望になるだろう。何かできることがあったら言ってくれ」
「そう言ってもらえると、俺達も戦った甲斐があります。ですよね、ディヒトさん」
クエルチアは隣にいたディヒトバイに声をかけるも、彼は早々に船室に向かって歩いていた。
それを見てすぐさまアカートが口を開いた。
「気を悪くしないでくれ。あいつは腕が立つんだが人嫌いなんだ」
「いいさ。船には色んな人間が乗ってくる。人嫌いなんざ可愛いほうさ。あとで上等な酒を持って行かせよう」
言って船長は船乗りに指示を出しながら船首のほうに歩いて行った。
「じゃあ、服を脱いでくるので」
クエルチアはアカートに言って船室に向かった。
不意打ちというのは質が悪いと痛感したのは、その直後だった。
船室に入りクエルチア達が陣取っている一角に向かうと、ディヒトバイが濡れた服を脱いでいるところだった。
久しぶりに目にするディヒトバイの体は魅力的で、脇腹にある狼の刺青から目が離せなくなった。
「服を持ってくれば干してくれるとよ」
「は、はい!」
アカートに突然後ろから声をかけられ、慌てて返事をする。
ディヒトバイに目を向けないようにして急いで服を脱いだ。
脱ぐ途中、腰に差していた空の鞘を見つける。
「あ」
「どうした?」
「海の中でナイフを使って、そのまま……。どこかで調達しないといけませんね」
「港町ならいいものが売ってるだろう。時間のあるときに見るといい」
「そうします」
窓があったので服を絞ってアカートに服を渡す。
「ゆっくり休めよ」
アカートはそう言い、服を持って甲板に向かった。
裸に毛布を巻いたまま船内をうろつく気分にもなれず、ハンモックに横になる。
暖かい毛布に包まり、ゆらゆらと揺れる中でいつの間にか意識は夢に溶けた。
その日、初めて父に会った。
七歳の誕生日を迎えたばかりの冬、家を訪ねてきた男は父だった。
悲しいとも、怒っているともとれる顔をしていた。
自分の子供に初めて会う喜びなど一切感じさせない顔だった。
――お前、子供を産んだのか! 誰の子供かわかってるのか!
夜に父が母に怒鳴るのを、扉の陰から見ていた。
母は父に抱きつき、必死に何かを言っている。
――でも、あの子は悪くない!
――お前は耐えられるのか、あいつが育って……。
その時、扉が音を立てた。
自分が隠れて見ていたのに気付き、父がこちらに歩いてくる。
――お前がいるから……!
言いながら父は頬を叩いた。
指輪で肌を抉られ血が流れる。
泣き出した自分を母が宥めるが、何を言われても届かなかった。
何も知らない子供だったが、父が自分を嫌っていることを知った。
「大丈夫か」
体を揺さぶられて目を覚ますと、暗闇の中でディヒトバイの声が聞こえた。
その声で今まで見ていた悪夢から解放されたのだと知る。
小さい窓からの月明かりでほのかに輪郭が浮かぶ以外に、何も見えなかった。
ざあ、と波の音だけが響いている。
「うなされてた」
「……そう、ですか」
瞬きをすると頬をつたうものがあった。
「眠れるか」
波の音にかき消されそうなほど小さい声は夢の中の父とは違い、優しさに満ちているように聞こえた。
「どうでしょう。昼間からずっと寝ていたから……」
「港に着いたらナイフを買ってやる」
「え?」
「ナイフ、なくしたんだろ。俺を助けるために使って。俺が別のを買ってやる」
そう言ってディヒトバイはハンモックに戻って寝転がった。
「どういうのがいいか、決めておきますね」
その言葉が届いたかわからないが、言うだけで胸が軽くなった気がした。
――次があるなら相手をしてやる。次があるなら、な。
会ったばかりの頃、彼に言われた言葉を思い出す。
彼の言葉はいつも自分に夢を与えてくれる。
未来に望みがあることを思い出させてくれる。
だから自分は彼に惹かれたのかもしれない。
目を閉じ、頭の中でどんなナイフがいいか思い浮かべる。
自分は手が大きいから大きめのものがいい。
持ち手は鹿の角かオークだ。
植物ならオーク、動物なら鹿が好きだ。
鹿は特にヘラジカがいい。体が人間より大きいのが気に入っている。
自分の名前はオークと鹿だから、それらが自分の仲間のような存在だと思っていた。
嫌なことがあって眠れないとき、ヘラジカになって森を歩く場面を想像する。
柳や樺の木が生えた誰もいない森の中を自由に歩いて木の皮を食べたり、角を研いだりする。
湖に入って水浴びをしたあと、森の中で一番大きなオークの根元で眠る。
そういう場面を思い描くと、嫌なことも忘れて眠ることができる。
今日も悪夢など忘れ、同じように眠ろう。
この想像をするのは久しぶりだった。
思えば、ディヒトバイと出会ってからは日々が満ち足りていた。
目は彼を常に捉え、声を聞き、手合わせや手伝いで心地よい疲れに包まれながら床につけばすぐに眠れた。
悪夢の忍び寄る隙などなかったのかもしれない。
今日こんな悪夢を見たのは、きっと恐怖に襲われたからだろう。
ディヒトバイが触手によって海に引きずり込まれたとき、体が一瞬で冷え切った。
海に飛び込んでからも、目の前に彼がいるというのになかなか助けられない焦りで手が震えた。
今彼を失ったら、自分は一人で立っていることができないだろう。
何が起こっても彼を守ってみせる。そう決意を固めた。
それからクエルチアは森の中を歩く想像をした。
大きなオークの根元には狼が眠っていて、そのそばで眠った。
一瞬だけ、この世の終わりを迎えたような顔のディヒトバイが見えた気がしたが、意識を取り戻したばかりの頭が見間違えたのかもしれない。
クラーケンを退け船乗り達が祭りのように騒ぐ中、海水に濡れ体にまとわりつく服を邪魔に思いながら身を起こすと、今度は確かな抱擁が体に伝わった。
それは一瞬だけであったが、ディヒトバイの気持ちを何より確かに伝えている気がして、彼らしいと思った。
ディヒトバイの濡れた髪が頬をかすめ、クエルチアは違和感を覚えた。
「ディヒトさん、鎧を着てたのに、どうして濡れて……」
「ど、どうだっていいだろ」
珍しく口ごもったディヒトバイはすっと立ち上がった。
クエルチアもそれに倣ってゆっくりと立ち上がる。
すると、突然首に腕を絡められた。
アカートだった。
「お前が海に飛び込んでから、キースになんて言い訳しようかずっと考えてたぜ。ディヒトもお前もよくやったな」
「いや、俺は……。ディヒトさんが先に動いてくれなかったら、自分にできることも探そうと思わなかったです。海の上だから何もできないって」
アカートは腕を解くと、毛布を二人に手渡した。
「服を乾かしな。暖かい季節とはいえ、ずぶ濡れのままじゃ風邪ひくぞ」
「はい。ありがとうございます」
船を救った二人の無事を喜ぶ船乗り達を散らしながら、髭を蓄えた壮年の船長が近付いてきて声をかけた。
「船の危機を救ってくれて、感謝する。クラーケンに出会って生き延びたことは他の船乗りにとっても希望になるだろう。何かできることがあったら言ってくれ」
「そう言ってもらえると、俺達も戦った甲斐があります。ですよね、ディヒトさん」
クエルチアは隣にいたディヒトバイに声をかけるも、彼は早々に船室に向かって歩いていた。
それを見てすぐさまアカートが口を開いた。
「気を悪くしないでくれ。あいつは腕が立つんだが人嫌いなんだ」
「いいさ。船には色んな人間が乗ってくる。人嫌いなんざ可愛いほうさ。あとで上等な酒を持って行かせよう」
言って船長は船乗りに指示を出しながら船首のほうに歩いて行った。
「じゃあ、服を脱いでくるので」
クエルチアはアカートに言って船室に向かった。
不意打ちというのは質が悪いと痛感したのは、その直後だった。
船室に入りクエルチア達が陣取っている一角に向かうと、ディヒトバイが濡れた服を脱いでいるところだった。
久しぶりに目にするディヒトバイの体は魅力的で、脇腹にある狼の刺青から目が離せなくなった。
「服を持ってくれば干してくれるとよ」
「は、はい!」
アカートに突然後ろから声をかけられ、慌てて返事をする。
ディヒトバイに目を向けないようにして急いで服を脱いだ。
脱ぐ途中、腰に差していた空の鞘を見つける。
「あ」
「どうした?」
「海の中でナイフを使って、そのまま……。どこかで調達しないといけませんね」
「港町ならいいものが売ってるだろう。時間のあるときに見るといい」
「そうします」
窓があったので服を絞ってアカートに服を渡す。
「ゆっくり休めよ」
アカートはそう言い、服を持って甲板に向かった。
裸に毛布を巻いたまま船内をうろつく気分にもなれず、ハンモックに横になる。
暖かい毛布に包まり、ゆらゆらと揺れる中でいつの間にか意識は夢に溶けた。
その日、初めて父に会った。
七歳の誕生日を迎えたばかりの冬、家を訪ねてきた男は父だった。
悲しいとも、怒っているともとれる顔をしていた。
自分の子供に初めて会う喜びなど一切感じさせない顔だった。
――お前、子供を産んだのか! 誰の子供かわかってるのか!
夜に父が母に怒鳴るのを、扉の陰から見ていた。
母は父に抱きつき、必死に何かを言っている。
――でも、あの子は悪くない!
――お前は耐えられるのか、あいつが育って……。
その時、扉が音を立てた。
自分が隠れて見ていたのに気付き、父がこちらに歩いてくる。
――お前がいるから……!
言いながら父は頬を叩いた。
指輪で肌を抉られ血が流れる。
泣き出した自分を母が宥めるが、何を言われても届かなかった。
何も知らない子供だったが、父が自分を嫌っていることを知った。
「大丈夫か」
体を揺さぶられて目を覚ますと、暗闇の中でディヒトバイの声が聞こえた。
その声で今まで見ていた悪夢から解放されたのだと知る。
小さい窓からの月明かりでほのかに輪郭が浮かぶ以外に、何も見えなかった。
ざあ、と波の音だけが響いている。
「うなされてた」
「……そう、ですか」
瞬きをすると頬をつたうものがあった。
「眠れるか」
波の音にかき消されそうなほど小さい声は夢の中の父とは違い、優しさに満ちているように聞こえた。
「どうでしょう。昼間からずっと寝ていたから……」
「港に着いたらナイフを買ってやる」
「え?」
「ナイフ、なくしたんだろ。俺を助けるために使って。俺が別のを買ってやる」
そう言ってディヒトバイはハンモックに戻って寝転がった。
「どういうのがいいか、決めておきますね」
その言葉が届いたかわからないが、言うだけで胸が軽くなった気がした。
――次があるなら相手をしてやる。次があるなら、な。
会ったばかりの頃、彼に言われた言葉を思い出す。
彼の言葉はいつも自分に夢を与えてくれる。
未来に望みがあることを思い出させてくれる。
だから自分は彼に惹かれたのかもしれない。
目を閉じ、頭の中でどんなナイフがいいか思い浮かべる。
自分は手が大きいから大きめのものがいい。
持ち手は鹿の角かオークだ。
植物ならオーク、動物なら鹿が好きだ。
鹿は特にヘラジカがいい。体が人間より大きいのが気に入っている。
自分の名前はオークと鹿だから、それらが自分の仲間のような存在だと思っていた。
嫌なことがあって眠れないとき、ヘラジカになって森を歩く場面を想像する。
柳や樺の木が生えた誰もいない森の中を自由に歩いて木の皮を食べたり、角を研いだりする。
湖に入って水浴びをしたあと、森の中で一番大きなオークの根元で眠る。
そういう場面を思い描くと、嫌なことも忘れて眠ることができる。
今日も悪夢など忘れ、同じように眠ろう。
この想像をするのは久しぶりだった。
思えば、ディヒトバイと出会ってからは日々が満ち足りていた。
目は彼を常に捉え、声を聞き、手合わせや手伝いで心地よい疲れに包まれながら床につけばすぐに眠れた。
悪夢の忍び寄る隙などなかったのかもしれない。
今日こんな悪夢を見たのは、きっと恐怖に襲われたからだろう。
ディヒトバイが触手によって海に引きずり込まれたとき、体が一瞬で冷え切った。
海に飛び込んでからも、目の前に彼がいるというのになかなか助けられない焦りで手が震えた。
今彼を失ったら、自分は一人で立っていることができないだろう。
何が起こっても彼を守ってみせる。そう決意を固めた。
それからクエルチアは森の中を歩く想像をした。
大きなオークの根元には狼が眠っていて、そのそばで眠った。
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