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【番外編 1】君じゃなきゃダメだから、ね?
君じゃなきゃダメだから、ね? ②
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AZデザイン事務所に怜を訪ねて地方から来客があるため、出社しない訳にいかなかった怜が『話は帰ってからしようね!?』と、家を出てから三十分。
突然現れた赤ちゃんの存在に愛姫はすっかり気も漫ろで、何度朝食が零れ落ちただろうか。口を開けていたのに急に顔を背けたりするものだから、口の周りや床がいつもの二割り増しくらいで大変なことになっていた。
感情的に怒りだしそうなのを必死に堪えると、反対に泣きたくなるんだと思いながら、愛姫の興味を引き、時間が掛かった朝食を何とか終わらせ、食器を洗いながら愛姫に目を遣ると、身を乗り出してベビーキャリーを覗き込んでいた。
(朝からこの疲労感……)
果たして今日を無事に乗り切れられるだろうか?
とやかく考えるその前に、千尋を安全な所に移動しないと、そのうち愛姫に圧し潰されてしまいそうだ。
ほぼ覆い被さっていると言っていい状態の愛姫に恐怖を覚え、梓は洗い物もそのままにして千尋を抱き上げると、子供部屋に連れて行く。千尋を愛姫のベビーベッドにそっと寝かせると、ハイハイの猛ダッシュで追いかけて来た娘を抱き上げた。
「愛姫ぃ。ちょっとベッド貸してあげてね?」
梓の服をぎゅっと握り、『何で?』と言いたげな小さな双眸が、じっと彼女の眼を覗き込んで来る。
さて何と答えようかと思案し、先輩ママたちが『お姉ちゃんなんだからとか、お兄ちゃんなんだからって押さえ込むような事を言ったらダメ』と話していたのを思い出し、いよいよどうしようかと眉間に皺が寄る。
で、苦し紛れに出た言葉は。
「う~んとね。赤ちゃんがね、愛姫お姉ちゃんのベッドで寝てみたいんだって。貸してあげられるかなぁ?」
純真な眼差しを向けて来る娘に顔を引き攣らせ、「いい?」と訊き返す。『無言で見るの止めて』と心の叫びを上げる梓に、愛姫が数度瞬いて「あいっ」とにっこり笑った。
「……タメるのは止めよう? 心臓に悪いから」
一歳児に何ビビッて言っているんだか。
愛姫なりに小さな頭で考えて、恐らくほとんど理解はしてないんだろうけど、快くお返事をしてくれた娘をギュッとする。愛姫からキャッキャッと笑い声が漏れた。
もしここで愛姫が嫌だって駄々を捏ねたら、心情的に我が子を優先したくなる。それが母親というものだろう。
「愛姫は良い子ねぇ。ママ、愛姫が大好きよッ」
ぷにぷにの頬に頬擦りすると、椛の手が梓の反対の頬に触れて来た。その手を取って掌にキスをすれば、愛姫の一層嬉しそうな笑い声。
千尋が時折口をくちゅくちゅ動かす様子を眺め下ろしながら、胸にモヤっとした物を感じる。
最初の一年は本当に大変だけど、何物にも代えがたい時間だと思う。
目覚ましい成長を遂げる我が子を見てれば、思い通りに運ばないことも忘れてしまえるほどの破壊力なのに、それを見ないなんて実に勿体ない。
梓と怜なんて、笑った、喃語を話した、寝返り打ったと言っては狂喜乱舞し、初めて愛姫が『パパ』と笑った時なんか、心臓撃ち抜かれて、怜が悶絶死するのではないかと思ったくらいだ。
時間は巻き戻せないのに。
一体どんな女性が、千尋の母親なのだろう。
世の中には、いろんな事情があって育てられない人がいる事は理解している。健康的な理由だったり、経済的な理由だったり、それぞれあると思うけど、千尋の服装や所持品を見る限り、困窮して已むに已まれずという感じがしないのが、何か納得しないと言うか、気になると言うか。
何故、怜なんだろう?
(本人の意思とは関係なく、数多の女性にもオモテになりますけどね。やっぱ怜くんの目を引くのは男の人だし……自分で『いい男だ』とかポロっと言っときながら、あたしが賛同すると、本気で拗ねて抗議するのは止めて欲しいわ)
“いい男” を “いい男” と言って何が悪い。偶に別の男性で目の保養して、何の咎があると言うのか。文句を言うくらいなら、怜も迂闊に口を滑らせなきゃ良いのだ。
千尋に向かって身を捩らせた愛姫にバランスを崩しかけ、梓は慌てて態勢を整える。
「こんなに可愛い子なのに……」
我が子じゃなくても、愛おしいと思える寝顔。
無条件で愛されるべきはずの存在なのに。
散漫になりがちな思考を収拾したものの、これからどうしたら良いものか考えあぐねた彼女の唇から溜息が零れた。
早く帰ると言って出掛けた怜が帰宅したのは、二十時を回ってからだった。
梓に押し付ける形で仕事に出たことを深く詫びると、彼なりに空き時間で色々と母親の情報を集めようと動いた結果を話し出した。
結果から言うと、母親が誰だかは判らなかったらしい。
マンションの防犯カメラにそれらしい人物は映っていたものの、変装されていて特定するには至らなかった。とは言え何もしない訳にもいかないので、その映像のコピーと共に警察には届け出をして来たそうだ。
最初は『そう言って逃げる父親も結構いるんですよね』とかなり怪しまれたそうで、『必要ならDNA検査でも何でも受ける』と売り言葉に買い言葉な台詞を吐いて来たらしい。
怜がそこまで言うのだから、何かの勢いでやっちゃったとかでもなさそうだ。
お風呂上がりのビールを飲む怜の頬は、ちょっとのぼせ気味に上気している。何しろ初めて二人の子供を風呂に入れたのだ。
「はーっ。生き返る」
食卓の椅子に背凭れて、右手にはグラス、左手には五百ミリリットル缶。それをグイグイ空けている怜の前に、モヤシとザーサイのナムルを出した。彼は直ぐに箸を取り、大きな一口で頬張るとシャクシャク良い音をさせる。
納戸から引っ張り出して来たベビー用のロッキングチェアを揺らし、愛姫がストローマグで麦茶を飲んでいるのを眺めながら、怜が妙に感心した声を上げた。
「まだまだ赤ちゃんだと思ってたのに。やっぱり女の子だねぇ」
梓の見様見真似だけど、今日一日でお姉ちゃんがすっかり板についている愛姫を見て、怜のニヤニヤが止まらない。
娘を愛でる怜の顔が締まりないのは今更だけど、嬉しい反面ジェラシーを感じてしまう。
「今はまだ物珍しいだけかも知れないよ?」
ちょっと意地悪な言い方だったろうかと、怜の顔色を確認する。けど彼が気にする様子も見せなかったので、ちょっと肩透かしを食らった気分だ。
唇を僅かに尖らせて、黙々とおかずを並べる梓に目を向けると、怜は見透かした笑みを浮かべる。
「アズちゃんが一番可愛いよぉ。僕の愛しの奥さんだからね」
歯の浮きそうな台詞が飛び出て来て、耳が熱くなる。梓が「知ってるし」と強気発言しながら手扇で顔を扇いでいると、中腰に立ち上がった怜に手を取られて引き寄せられ、そのままストンと彼の膝に納まった。
「じゃあこれも知ってる?」
「なに?」
「梓が食べたい」
怜の唇が梓の耳殻をぱくりと食む。彼女は慌てて前傾姿勢になって唇から逃れ、ちょっと涙目で怜を睨んだ。
「ばっ……もお。さっさとご飯食べて。それから。今日から暫らく愛姫と一緒に寝ることになるから、邪な考えは起こさないでね?」
「邪って何ッ!? 何で愛姫が一緒?」
娘を溺愛している怜もさすがに、スヤスヤ眠る子を隣にして致すことは憚られるようで、早々に子供部屋に寝かせるようになった。その代わりベビースピーカーの音量は高め設定だ。
「何でって、愛姫のベッドに千尋くん寝かせるしかないじゃない? 二人一緒なんて、危なくて出来ないし」
千尋が寝返りでも出来る月齢なら、少しは違ったかも知れないけど。
「預かっている子が圧死なんて、冗談じゃないでしょ?」
「そうだけど……」
言ったものの、怜が納得してないのは肩越しから見た表情でも分かる。
綺麗に整った面立ちが無表情で抗議してくるのを敢えて無視し、ウエストに回された怜の手を解くと、空かさず逃げるようにコンロの鍋を火に掛けた。追って来なかった怜に、こっそり安堵したのも束の間。
「いいよ、別に。ベッドじゃないと出来ないワケじゃないし」
「そ……そお来たかぁ」
「何者も僕の愛を止めることは叶わないからね?」
にーっこりと満面の笑顔で返されて、先刻娘にジェラシーを感じた自分を深く後悔する梓だった。
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