10 / 113
チャプター【010】
しおりを挟む
その者は老人だった。
いったい、その老人がどこからやってきたのか、知る者はなかった。
白装束に身を包み、手には錫杖(しゃくじょう)を握っていた。
術者のような出で立ちであった。
しかし、当然のごとく、そのころには術者という存在はなかった。
唇を包むように白い髭を蓄え、額、目尻、頬には深い皺が刻まれていた。
その老人は小高い丘の上に立ち、疲弊(ひへい)しきった人々を見渡した。
シャーン!!
と、錫杖を鳴らすと、
「我は、仙翁(せんおう)。民よ。もう心配はいらぬ」
そう言った。
人々の視線は、その老人――仙翁へと向けられた。
仙翁は空を睨(ね)め上げた。
そして、空を蔽(おお)う黒雲に、錫杖を向けて掲げ、
「カァッ!」
高く声を発した。
すると、錫杖の頭部が光り、そう思った瞬間、眩いほどの閃光が黒雲に向かって走っていった。
光の柱となった閃光は、瞬く間に黒雲を貫いた。
その光の柱を中心にして、それまで一度として空を覗かせることのなかった黒雲が円を描いて晴れていった。
その円が段々と広がっていき、そこから陽光が射しこんで、地上へと降り注いだ。
人々の怒号のような歓喜の声があがった。
心の底から湧き上がる声だった。
人々がその歓喜の声をあげたのは、黒雲が晴れ、陽光が射しこんできたことばかりではなかった。
化鳥に体内へと入りこまれて異形と化した者たちが、陽光を浴びたことで人の姿にもどり始めたからだった。
人の姿にもどった者のたちは、自分に何が起きていたのかわからないといった様子だったが、その者たちのもとへ家族や友人たちが駆けよっていくと、その顔には笑顔がこぼれた。
家族や友人たちは、泣きながらその者たちを抱きよせた。
人々は皆、思った。
ようやく祈りが通じたのだと。
これでやっと救われたのだ、と。
事実、黒雲はみるみる晴れていき、眼を細めるほどの眩く青い空が広がっていった。
人々は安堵した。
だが――
すべての黒雲が消え失せるかに見えたそのとき、錫杖から放たれている閃光に変化が生じた。
柱となった光が、その耀きをとつぜん弱めたのだ。
それによって、消え失せようとしていた黒雲がまた、空を蔽(おお)い始めた。
人々の顔が、一変に落胆の色へと変わった。
いったい、どうしたのか。
皆の視線が、また仙翁に向けられた。
仙翁は、錫杖を掲げ、空を見上げたまま立っている。
その顔が険しい。
そう思っていると、
「かはッ!」
仙翁の口から鮮血がほとばしった。
ゆっくりと仙翁は顔を下していき、自分の胸へと眼をやった。
すると、眼を向けた胸のその部分から、あるはずのない異様なものが生えていた。
黒く、鈍い光を放つ、鋭利なもの。
刃(やいば)であった。
それは、太刀の切っ先だった。
なぜ、こんなものが胸に生えているのか。
仙翁はそんな眼で、その切っ先を見ていた。
しかし、すぐに理解した。
仙翁は、太刀で背から貫かれていたのだ。
切っ先が、さらにゆっくりと胸から突き出てくる。
その周囲の白い布地に血が滲んでいく。
「ぐふッ!――」
仙翁は、またも吐血した。
唇の端から血が流れ、髭を赤く染めて顎を伝い、刀身の峰に滴った。
だが、その血が地へと落ちていかない。
ふつうなら、峰から刀身を伝い落ちていくはずだが、そうならなかった。
それどころか、峰に滴ったはずの血が消失していた。
唇から流れた血が、また太刀に滴る。
と、血が、やはり消失していく。
いや、消失していくというよりは、刀身に吸いこまれていると言ったほうが正しい。
胸を見てみれば、刀身が貫かれている個所の、布地の血の滲みがほんのわずかでしかない。
もう相当量の血を流しているはずだった。
その程度ですむはずがない。
太刀が血を吸っていると考えて、間違いはなかった。
血を吸う太刀。
その刀身は、闇の色をしていた。
黒い妖刀――。
胸から突き出てくるその妖刀を、仙翁は錫杖を握っている別の手で掴んだ。
そうしながら、うしろへと首をねじった。
仙翁の背に、人影があった。
「おぬし……、何者だ……」
その人影に、仙翁は苦痛をこらえた声で問うた。
それに、
「仙翁と申していましたね。そなたこそ何者なのです?」
人影が、そう問い返した。
「なぜに、わたしの邪魔をするのでしょう」
その声は、男とも女ともつかぬ透き通るような静かな声だった。
「決まっておろう……。これ以上、おぬしの好き勝手にはさせられぬのよ……」
そう言うと、仙翁は、ひとつ小さな呼気を吐いた。
と――
仙翁の姿が、その場から消えていた。
そこには、妖刀を突き出した状態のままの、人影の姿があるだけだった。
人影の正体は男だった。
長い黒髪を背へと流している。
鼻梁が通り、瞳は闇のように黒く、唇だけが紅く色づいている。
容貌には、男とは思えぬほどの美しさがあった。
それは、妖麗な美しさだった。
華奢(きゃしゃ)と言うよりは、しなやかな体躯(たいく)をしている。
その身には、黒衣を着ていた。
だがその黒衣は、この世界には存在しない。
光沢のある素材で作られた特異なものだった。
両肩に、防具のようなものが嵌められていて、身体を包みこめるほどの黒いマントを羽織っている。
すべてが、黒で統一されていた。
仙翁とは対照的な出で立ちであった。
その妖麗な男の前方に、仙翁が立っていた。
男とのあいだに、十分な間合いを取っている。
と、雷鳴が鳴った。
空は、またも黒雲に蔽われてしまっていた。
雷光が瞬くたびに、ふたりの姿が薄闇に浮かびあがった。
「どんな術を、使ったのですか?」
男が、ふいに言った。
その唇の端には、あるかなしかの微笑が浮いている。
仙翁はそれに答えず、
「おぬし、異界の者であろう。何処(いずこ)から参った……」
そう訊いた。
「聞いてどうするのです? その傷では、それを聞いたところで、無駄と――」
男は途中で言葉を切った。
眼を細めて仙翁の胸元を見る。
仙翁の胸元を見ると、妖刀で貫かれたはずの傷がなかった。
一滴の血の滲みさえもない。
しかし、男の表情に動揺の色はない。
ふと、男の視線が、自分の足許へと下がった。
「――――」
足許には、人の形に形代された紙片が落ちていた。
その形代(かたしろ)の胸の部分に、斬りこみを入れたような痕(あと)がある。
男は唇に微笑を浮かべたまま、それを見つめていた。
「知らぬか。それは、擬人式神(ぎじんしきがみ)と言うものだ」
仙翁が言った。
男の妖刀によって背から刺し貫かれた仙翁は、形代された紙片に念を込めて使役した、擬人式神だった。
ク、
ク、
ク、
男が口許で嗤(わら)った。
「なるほど。面白い」
視線を仙翁へともどした。
「もう一度訊く。異界の者よ。おぬしは何処から参ったのだ」
仙翁は、さらに訊いた。
「この世界に、これほどの術を使う人間がいようとは……。となれば、その者の問いに答えるのが礼儀というものですね」
そう言うと男は、妖刀を腰の鞘に収めた。
「そなた、わたしが異界の何処から来たのかを知りたいのですね」
「さよう」
「では、お答えしましょう。わたしがやってきたのは、冥界宮(めいかいぐう)ですよ」
「なんと!……」
よほど驚いたのか、仙翁は瞼を見開いた。
「冥界宮からは、この地界宮(ちかいぐう)に通ずる門は開けられぬはず」
「確かに。他の者であれば無理でしょう。このわたしだからこそ、それができるというもの」
「……まさか、おぬし――羅絶(らぜつ)か」
「ほう、これは驚きました。父上を知っていようとは」
男はそう言ったが、その表情にも声にも驚いているふうはなかった。
いったい、その老人がどこからやってきたのか、知る者はなかった。
白装束に身を包み、手には錫杖(しゃくじょう)を握っていた。
術者のような出で立ちであった。
しかし、当然のごとく、そのころには術者という存在はなかった。
唇を包むように白い髭を蓄え、額、目尻、頬には深い皺が刻まれていた。
その老人は小高い丘の上に立ち、疲弊(ひへい)しきった人々を見渡した。
シャーン!!
と、錫杖を鳴らすと、
「我は、仙翁(せんおう)。民よ。もう心配はいらぬ」
そう言った。
人々の視線は、その老人――仙翁へと向けられた。
仙翁は空を睨(ね)め上げた。
そして、空を蔽(おお)う黒雲に、錫杖を向けて掲げ、
「カァッ!」
高く声を発した。
すると、錫杖の頭部が光り、そう思った瞬間、眩いほどの閃光が黒雲に向かって走っていった。
光の柱となった閃光は、瞬く間に黒雲を貫いた。
その光の柱を中心にして、それまで一度として空を覗かせることのなかった黒雲が円を描いて晴れていった。
その円が段々と広がっていき、そこから陽光が射しこんで、地上へと降り注いだ。
人々の怒号のような歓喜の声があがった。
心の底から湧き上がる声だった。
人々がその歓喜の声をあげたのは、黒雲が晴れ、陽光が射しこんできたことばかりではなかった。
化鳥に体内へと入りこまれて異形と化した者たちが、陽光を浴びたことで人の姿にもどり始めたからだった。
人の姿にもどった者のたちは、自分に何が起きていたのかわからないといった様子だったが、その者たちのもとへ家族や友人たちが駆けよっていくと、その顔には笑顔がこぼれた。
家族や友人たちは、泣きながらその者たちを抱きよせた。
人々は皆、思った。
ようやく祈りが通じたのだと。
これでやっと救われたのだ、と。
事実、黒雲はみるみる晴れていき、眼を細めるほどの眩く青い空が広がっていった。
人々は安堵した。
だが――
すべての黒雲が消え失せるかに見えたそのとき、錫杖から放たれている閃光に変化が生じた。
柱となった光が、その耀きをとつぜん弱めたのだ。
それによって、消え失せようとしていた黒雲がまた、空を蔽(おお)い始めた。
人々の顔が、一変に落胆の色へと変わった。
いったい、どうしたのか。
皆の視線が、また仙翁に向けられた。
仙翁は、錫杖を掲げ、空を見上げたまま立っている。
その顔が険しい。
そう思っていると、
「かはッ!」
仙翁の口から鮮血がほとばしった。
ゆっくりと仙翁は顔を下していき、自分の胸へと眼をやった。
すると、眼を向けた胸のその部分から、あるはずのない異様なものが生えていた。
黒く、鈍い光を放つ、鋭利なもの。
刃(やいば)であった。
それは、太刀の切っ先だった。
なぜ、こんなものが胸に生えているのか。
仙翁はそんな眼で、その切っ先を見ていた。
しかし、すぐに理解した。
仙翁は、太刀で背から貫かれていたのだ。
切っ先が、さらにゆっくりと胸から突き出てくる。
その周囲の白い布地に血が滲んでいく。
「ぐふッ!――」
仙翁は、またも吐血した。
唇の端から血が流れ、髭を赤く染めて顎を伝い、刀身の峰に滴った。
だが、その血が地へと落ちていかない。
ふつうなら、峰から刀身を伝い落ちていくはずだが、そうならなかった。
それどころか、峰に滴ったはずの血が消失していた。
唇から流れた血が、また太刀に滴る。
と、血が、やはり消失していく。
いや、消失していくというよりは、刀身に吸いこまれていると言ったほうが正しい。
胸を見てみれば、刀身が貫かれている個所の、布地の血の滲みがほんのわずかでしかない。
もう相当量の血を流しているはずだった。
その程度ですむはずがない。
太刀が血を吸っていると考えて、間違いはなかった。
血を吸う太刀。
その刀身は、闇の色をしていた。
黒い妖刀――。
胸から突き出てくるその妖刀を、仙翁は錫杖を握っている別の手で掴んだ。
そうしながら、うしろへと首をねじった。
仙翁の背に、人影があった。
「おぬし……、何者だ……」
その人影に、仙翁は苦痛をこらえた声で問うた。
それに、
「仙翁と申していましたね。そなたこそ何者なのです?」
人影が、そう問い返した。
「なぜに、わたしの邪魔をするのでしょう」
その声は、男とも女ともつかぬ透き通るような静かな声だった。
「決まっておろう……。これ以上、おぬしの好き勝手にはさせられぬのよ……」
そう言うと、仙翁は、ひとつ小さな呼気を吐いた。
と――
仙翁の姿が、その場から消えていた。
そこには、妖刀を突き出した状態のままの、人影の姿があるだけだった。
人影の正体は男だった。
長い黒髪を背へと流している。
鼻梁が通り、瞳は闇のように黒く、唇だけが紅く色づいている。
容貌には、男とは思えぬほどの美しさがあった。
それは、妖麗な美しさだった。
華奢(きゃしゃ)と言うよりは、しなやかな体躯(たいく)をしている。
その身には、黒衣を着ていた。
だがその黒衣は、この世界には存在しない。
光沢のある素材で作られた特異なものだった。
両肩に、防具のようなものが嵌められていて、身体を包みこめるほどの黒いマントを羽織っている。
すべてが、黒で統一されていた。
仙翁とは対照的な出で立ちであった。
その妖麗な男の前方に、仙翁が立っていた。
男とのあいだに、十分な間合いを取っている。
と、雷鳴が鳴った。
空は、またも黒雲に蔽われてしまっていた。
雷光が瞬くたびに、ふたりの姿が薄闇に浮かびあがった。
「どんな術を、使ったのですか?」
男が、ふいに言った。
その唇の端には、あるかなしかの微笑が浮いている。
仙翁はそれに答えず、
「おぬし、異界の者であろう。何処(いずこ)から参った……」
そう訊いた。
「聞いてどうするのです? その傷では、それを聞いたところで、無駄と――」
男は途中で言葉を切った。
眼を細めて仙翁の胸元を見る。
仙翁の胸元を見ると、妖刀で貫かれたはずの傷がなかった。
一滴の血の滲みさえもない。
しかし、男の表情に動揺の色はない。
ふと、男の視線が、自分の足許へと下がった。
「――――」
足許には、人の形に形代された紙片が落ちていた。
その形代(かたしろ)の胸の部分に、斬りこみを入れたような痕(あと)がある。
男は唇に微笑を浮かべたまま、それを見つめていた。
「知らぬか。それは、擬人式神(ぎじんしきがみ)と言うものだ」
仙翁が言った。
男の妖刀によって背から刺し貫かれた仙翁は、形代された紙片に念を込めて使役した、擬人式神だった。
ク、
ク、
ク、
男が口許で嗤(わら)った。
「なるほど。面白い」
視線を仙翁へともどした。
「もう一度訊く。異界の者よ。おぬしは何処から参ったのだ」
仙翁は、さらに訊いた。
「この世界に、これほどの術を使う人間がいようとは……。となれば、その者の問いに答えるのが礼儀というものですね」
そう言うと男は、妖刀を腰の鞘に収めた。
「そなた、わたしが異界の何処から来たのかを知りたいのですね」
「さよう」
「では、お答えしましょう。わたしがやってきたのは、冥界宮(めいかいぐう)ですよ」
「なんと!……」
よほど驚いたのか、仙翁は瞼を見開いた。
「冥界宮からは、この地界宮(ちかいぐう)に通ずる門は開けられぬはず」
「確かに。他の者であれば無理でしょう。このわたしだからこそ、それができるというもの」
「……まさか、おぬし――羅絶(らぜつ)か」
「ほう、これは驚きました。父上を知っていようとは」
男はそう言ったが、その表情にも声にも驚いているふうはなかった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
38
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる