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 ついていないなと思うことは、案外と重なりがちなもので、ユーリが帰れるかもしれないという噂話をハルが耳に挟んでしまった日は、ちょうどゾーイーの屋敷へ顔を出す予定が入っていた日でもあった。

 豪奢なゾーイーの屋敷を見上げてため息をつきつつ、ハルは門扉をくぐる。中年の使用人に出迎えられるも、すぐにゾーイーが吹き抜けの二階から顔を出した。

 ゾーイーは七〇を超えても相変わらず健康そのもので、足腰もしっかりしている。お陰様と言うべきか、ハルは未だかつて彼女が弱っているところを見たことがない。それは、僥倖なことだろう。

 かと言って、それが永遠に続くなどという幻想をハルは抱いていない。特にゾーイーはいくら元気に見えても、年々体は弱って行くばかりだろう。歳のせいにしろ、突発的な事象のせいにしろ、ある日突然……なんて可能性も、あるにはあるのだ。

 ハルは滅多に孝行など考えたりはしないが、ゾーイーが相手ならばそういうことをしてもいいかもしれない、と珍しく思った。

 しかし――

「そろそろ『解禁日』だったね? アンタに限って日和ってることはないと思うけど……しっかり一発、いや、二三発決める覚悟は出来てるんだろうね?」

 開口一番にそんな言葉をぶつけられて、神妙な気持ちはまたたく間に霧散した。

「うるせえよババア。セクハラはやめろ」
「なんだいクソガキ。アンタいつからそんな繊細になったのさ」
「なってねーよ」
「そんな調子でしっかり孕ませられるのかい? 『解禁日』を迎えたら、これからは戦いだよ。ユーリにはアンタ以外にも夫はいるんだからねえ」
「……ババアが心配することじゃねえ」

 内心で「クソが」と毒づきつつ、ハルは舌打ちをした。

 ゾーイーとユーリは仲がいい。ポジションとしてはゾーイーはユーリの姑みたいなものだが、ゾーイーのほうがかなりユーリのことを気に入っているところがある。ユーリも、豪放磊落なゾーイーを信頼している様子だ。

 そうして仲が良好なので当然、ゾーイーはユーリの誕生日を……「子作り解禁日」を把握している。

「なんだい。じゃあアンタが一番槍に決まったのかい?」
「……まだ、決まってない」
「おや? ユーリからそういう話は出ていないのかい? ……まあ、あの子はこの世界とは違う常識で生きてきた子だからねえ……恥ずかしがってるのかね」

 夫たちのあいだでは何度かそういう話にはなったことがあるが、本格的にだれが何番目に相手をするか、という取り決めは今のところなされてはいない。

 一方のユーリはまったくそんな話をしていなかったし、したそうな様子すら見せていなかった。まさか、自分の二〇歳の誕生日を――「子作り解禁日」を忘れているということはないだろうが、ハルは少しだけ不安に駆られる。あの噂話を耳にしたこともある。

 ユーリは、今の家を買ったときに庭が広いことを喜んでいたのだ。家を買うこと自体もわりと最初から好意的だった。そんなユーリが、ハルたちを置いて、元の世界へ帰ってしまうとは思えない。……いや、そう思いたくなかった。

 しかしもし、ユーリが元の世界へ帰る方法が見つかったとすれば、今は絶好のタイミングに思えた。結婚してはいるが、まだ子供はいないのだ。もし子供がいれば、ユーリは――。

 ハルはそこまで考えて、ユーリとの子供を、彼女をこの世界へ繋ぎ止めるためのただの道具へとおとしめようとしていることに気づき、無理やり思考を打ち切った。

「媚薬でもやろうか?」
「いらねーよババア!」
「……なりふり構っていられる状況なのかい?」
「あ?」
「『あの噂話』はとっくにアタシの耳にも入っているよ。ユーリが元の世界へ帰りたいだなんて言い出したら、アンタ、どうする?」
「……相変わらずの地獄耳だな、ババア」

 さすがは偉大なる魔女、と言うべきなのだろうか。今日、ユーリとハルの耳に入った噂話を、ゾーイーはそれより前に聞きつけていた様子だ。ゾーイーはざっくばらんな物言いのわりに、珍しくハルたち一家を心配している様子だった。

「『あいつが帰りたいなら帰してやる』だなんて生っちょろいこと言うつもりだったら、アタシはアンタを引っぱたくよ」
「……うるせえよ」

 今まさに、言うべきかどうか悩んで呑み込んだ言葉を言い当てられ、ハルは動揺した心を押し隠して悪態をつく。

「つーかそれ、アンジュにも言うつもりか?」

 アンジュは、ハルと似たような境遇だった。アンジュの親は両方ともまだ存命のようだが、ハルが母親に捨てられたのと同様に路頭で迷っていたところをゾーイーに保護されたという経緯がある。ものの見方によっては、ハルとアンジュはゾーイーを親とみなせば義兄弟のようなものだった。

 ゾーイーはため息をひとつつく。ハルが話をそらしたのをわかっているのだろう。

「あの子はアンタと違ってもっと繊細だからねえ。いきなりこんなショッキングな話はできないよ」
「オレはいいのかよ」
「アンタはむしろ、しといたほうがいいだろ? まったく、あきらめ癖がついてるところは一緒なんだから……」
「あきらめてねえよ。……まだ」
「それが本心だといいんだけどねえ」

 ゾーイーはまたため息を吐いた。

「『解禁日』もあの子は積極的じゃないんだろう?」
「まーな。『順番は譲ります』って言われたぜ」
「まったく……もっと強欲になってほしいもんだよ。――アンタもね」
「あん?」
「やっぱり媚薬を何本か持って行くかい?」
「だから、いらねーよ!」
「それじゃあしっかり甲斐性見せてやんなよ。でないと本当に帰っちまうかもしれないからねえ」

 ゾーイーは、ユーリが元の世界へ帰る方法が見つかったら、素直に帰ってしまうと思っているのだろうか。ユーリを気に入っている彼女のことだから、あらゆる方法を駆使して翻意させるような気もするし、ユーリの意思を尊重して帰してしまうというようなパターンも、両方あり得る気がした。

 ハルは――もしそうなったときに、自分がどうするのか、白い霧の中に閉じ込められているような気持ちになった。
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