赤い薔薇の微笑みを

やなぎ怜

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 ラシードは少女にスーリと名づけた。「赤い薔薇」という意味のよくある名前である。名前をつけてやると不思議と愛おしさが込み上げて来るもので、ラシードがスーリを可愛がる姿は奴隷に対するものというよりは、飼い犬かなにかに対するもののようにも見えた。

 スーリもそれに純真に応えてラシードになつくので、彼はますますこの健気な少女への愛着を深めていった。

 奴隷商の馬車の惨事を共に見たイフサーンがラシードの家に来たとき、スーリを見て「情が移ったか」と笑ったがまったくもってそうであった。

 寒いだろうとなんだと理由をつけてとこに呼べば、スーリは疑うこともなくやって来る。その瞳は一心にラシードを信頼していて、くすぐったいくらいだ。ラシードの横で安心しきって眠る姿は、彼の庇護欲を大いに刺激した。

 スーリの家事能力は案の定とも言うべきか、散々なものであった。料理の元となる食材からして見たことがないのか、市場をまわれば物珍しそうな顔をする。掃除をさせればかろうじて汚しはしないものの、その手つきはおっかなびっくりといった様子であった。無論、ラシードが出かけるときの準備など夢のまた夢……。

 と思っていたが、スーリは案外と要領が良いのか、すぐに様々なことを水を垂らした布のごとく吸い込んでいった。

 食事は当初は近場の飯炊き女を雇い入れ、給金を上乗せしてスーリの面倒も見させた。するとスーリは見る見るうちに料理の腕を上げていったのだが、同時にその美しいほっそりとした指にも刃傷を増やしていったので、ずいぶんとラシードの気を揉ませた。

 料理よりは簡単なのか、掃除と洗濯のほうが覚えるのは早かった。それでも水の入ったバケツを引っくり返したり、洗濯物が生乾きだったりといったことを乗り越えていった結果なのだが。

 一ヶ月もすればスーリは家事に関するほとんどのことを習得し、家事奴隷としてはそれなりのものになった。なにも知らぬ赤子のような令嬢然とした雰囲気は薄れたが、それでもやはりどこかその所作には品の良さが漂う。これはもう身に染みたものなのだろう。

 そうなったことにラシードは複雑な感情を抱く。同情と征服欲。その手からして、本来であればなに不自由なく暮らしているだろうスーリを思うと奴隷として扱っていることに一種罪悪感を覚える。しかしその一方で、そんな少女を従順な小間使いに染めやって使っていることに後ろ暗い喜びを感じてしまうのだ。

 スーリはどこまでも従順だ。高家の出身らしい肉体とは対照的に、その精神に高飛車なところはない。いや、内心で彼女がなにを思っているのかラシードには知るよしもないのだが、少なくとも目に見える分ではスーリはどこまでも純粋無垢であった。

 命じられれば素直に家事を覚え、ラシードが床に呼んでもその下心を疑う様子すらない。後者はただそういった知識に乏しいのかもしれないが、己よりもずっと大きな体躯の男を前にしても、スーリが怯えた様子を見せないのはたしかだった。

 スーリが素直なのは、生きるためだろう。赤子同然の彼女がなんの庇護もなしに生きて行くことは難しい。なればラシードのもとに留まるのが今取れる最善の選択と言える。それがわかっていても、ラシードはスーリの健気さには心打たれずにはおれないのであった。

 スーリは従順ではあったが、しかしひとつの質問に対してだけは明確な返答をしてはくれない。すなわち彼女は攫われて奴隷商の馬車に乗せられたのか、あるいは売り飛ばされたのか。これはラシードが折に触れて問うても曖昧な返事しかしなかった。

「家に帰りたいのなら俺が探してやるぞ」

 そう言ってもスーリは困ったような顔をするだけだ。攫われたわけではないらしいが、しかし売り飛ばされたと聞かれると、肯定も否定もしない。スーリの表情を観察するに、どう答えれば良いのか迷っているといった風であった。

 売られたのは事実で、しかしそのことを肯定するには辛いのか。ラシードは色々と考えてはみたものの、結局本当の答えはスーリの中にあるわけで、じきに詮ない考えをすることをやめてしまった。彼女にその質問をすることもやめた。

 代わりにラシードはスーリに耳飾りを買い与えた。彼女の耳に飾りをつけるための穴が開いていることに気づき、思いついたことだ。

「スーリ、今日は土産があるぞ」

 スーリはラシードから受け取った外套を抱えながら、不思議そうな顔をする。ラシードが小さな革袋を手のひらの上で引っくり返すと、ころりと赤い輝きを持つ耳飾りが転がり出た。領主館に出入りする馴染みの宝石商をたまたま見つけたので、買いつけたものだ。

 ラシードの手のひらを覗き込んだスーリの瞳に、柘榴石ガーネットの耳飾りが映り込み、きらりと輝いた。そう驚いた顔はしないかと思っていたラシードであったが、予想とは反してスーリは少し興奮しているようであった。きらきらと輝くものは、どうやら彼女も心惹かれるようである。

「スーリにやろう」

 そう言うとスーリはきょとんとした顔をラシードに向ける。

「俺からの贈り物だ。受け取ってくれるか?」

 ラシードの問いに、ようやく言葉が飲み込めたらしいスーリが急いでなんどもうなずいた。その様子が微笑ましくて、ついラシードは口元を緩めてしまう。

「ほら、つけてやる」

 スーリの腕にはラシードの外套がある。それを見て彼は耳飾りを手にスーリに近寄った。革袋ごと机にでも置いておけばいいのに、そうしなかったラシードを疑う素振りをスーリは見せない。ただ大人しくそこに立ったまま、ラシードの無骨な手が耳に触れるのをまんじりともせず受け入れる。

 ラシードはスーリを抱き込むようにして、そのさらさらとした黒髪をかきわけ耳に触れる。くすぐったいのか、スーリの体がわずかに揺れた。ラシードはそれに構わず、小さな柘榴石のはまった耳飾りを彼女の耳に開いた穴へと通す。それをもう片側にもしてやる。

 耳飾りをつけてやるあいだ、ラシードのみぞおちのあたりにスーリの吐息が当たり、彼はなんとも言えない気分になった。ちらちらと見える白いうなじを見下ろす光景も、いかんともしがたい。

 そうした雑念を振り払って、ラシードはどうにか表向きは平静さを装ってことを終わらせた。

「できたぞ」

 スーリから体を離し、ラシードは改めて彼女を見る。スーリは右手で耳を触り、そこに飾りがあることを確認しているようだ。次いで髪を耳にかけてよく見えるように頭を傾ける。「どう?」とでも聞くようなそんな仕草と、うかがうような瞳は愛らしい。

「似合ってる」

 ラシードがそう言えば、スーリは歳相応にはにかむ。いつもよりいくぶんか幼いその表情にラシードは不意を突かれた。正確な歳は知らないが、よくよく考えないまでも彼女はまだ親元を離れるような時分ではないのだ。まだだれかに甘えたいときもあるだろうに、それが許される立場ではない。そう考えるといささか不憫であった。

「……それをつけているあいだは、俺のものだ」

 スーリはまたきょとんとした目をラシードに向ける。

「だから、ここにいるんだぞ」

 ラシードの言葉に、ややあってからスーリはうなずいた。その顔はどこか安堵したような様子で、嬉しそうでもあった。俺はお前を奴隷として買ったんだぞ、とラシードは言いたくなったが、そのような無粋な真似などできはしない。

 スーリは外套を丁寧にしまったあとも、何度か耳に触れてそこに飾りがあることをたしかめているようだった。次は手鏡でも買ってやるかとラシードはそんな様子を見ながら思う。

 ラシードがスーリにやった耳飾りは、慰めであり、所有の証であった。今回のことは単純に女子おなごならば装飾の類が好きだろうという発想と、自分がやったものをスーリが身に着けるという独占欲を満たす光景を望んでのことだ。

 スーリの耳元の赤い輝きを見ると、よく言われる女を自分色に染め上げたいという欲求が理解できた。己が贈ったものを懸想する女が身に着けることの甘美さを、ラシードはこの日初めて知ったのである。

 そうして穏やかな日々を送っているうちに季節は移ろい行く。スーリの手足は若木のようにすらりと伸びて、背も頭の先がラシードの肩ぐらいにはなった。髪を伸ばしたままにさせたのはラシードだ。その美しい艶やかな黒髪を三つ編みにして垂らす姿を見て、ずいぶんと時間が経ったのだなと彼が思ったのは一度や二度ではない。

 同時に、まだ幼いうちからちょっと圧倒されるような美しさを持っていたスーリが、花が綻ぶように順調に成長したことで弊害も出てきた。

「スーリ!」

 日暮れを前に公衆浴場から戻ったラシードは、裏庭のただならぬ様子を悟って飛び込んだ。案の定、裏庭の井戸の前で身を清めていたスーリを羽交い絞めにして、乱暴を働こうとする不逞の輩が目に入り、ラシードは一度に頭に血が上った。残念ながら剣は佩いていなかった。それはラシードにとっても、この不届きな男にとっても幸運なことだったかもしれない。

 ラシードの姿に気づいて男はあわててスーリを離し、逃げようとしたが、それは叶わなかった。すぐさまラシードの太い腕が男の首を捕らえたからだ。男の口からぐえっとつぶれた声が出るが、ラシードは気にも留めない。スーリに乱暴を働こうとした輩など、今すぐにでもくびり殺してやりたかった。

 だが服の裾を引かれる感覚に気づいて目をやれば、双眸に涙をたたえたスーリが、なだめるようにラシードの服を握っている。波が引くように冷静さが戻って来たラシードは、男の首から手を離し、代わりにその腕をひねり上げる。ちょうど隣家の夫人が騒ぎを聞きつけたのか顔を出したので、ラシードは官憲を呼ぶよう頼んだ。

 奴隷が相手とは言っても、スーリはラシードの資産である。それに無断で手を出すということは、ラシードが訴え出れば許されるものではなかった。そうでなくともスーリを可愛がっているラシードからすれば、男の行動は許せるものではなかったし、同じ男としても言語道断の行いであった。

 男を引き渡したころには外はもうすっかり暗くなっていた。家に戻れば不安そうな顔をしたスーリが、大人しく絨毯に座ってラシードの帰りを待っていた。くもりのない褐色の瞳が不安げに揺れているのを見ると、ラシードは知らず心を締めつけられる。

「あの男は捕まったからな。もう大丈夫だ」

 立ち上がろうとするスーリを制し、ラシードは絨毯に膝をついてスーリの顔を見た。そこに安堵の色が垣間見えたものの、与えられた恐怖はそう簡単には消えないようだ。

 女であることを差し引いても、まずスーリは自身が危険な状況に陥っても助けを求める声を上げることができない。その恐怖はいかばかりのものか。

 歳を重ねるごとにすらりと背が伸び、体が女性的に丸みを帯び、スーリのその美貌はもはや隠しようもなくなっていた。蕾がほころんだ花を美しいと思う人間がいるのと同じように、スーリのまわりにはそうして彼女を求める男たちが群がるようになった。そうすると彼女に乱暴を働こうとする不埒な輩も現れる。

 口が利けないということも良くなかった。つまりは不埒な行いをしても彼女が主人に訴えることはできないだろう、と考える輩もいるのである。拒絶の意思を言葉にできないというのも頭を悩ませる。ただでさえ恋に迷った人間は他人の言葉を聞き入れないのに、意思表示が困難な人間が相手では、その態度を自身に都合良く解釈することは恐ろしいほど簡単なことである。

 それでもまともにスーリに求婚する人間もいたし、大金を積んでスーリを譲って欲しいと言う人間も現れたが、ラシードはそのすべてを追い返した。一応スーリに問うてはみたが、彼女は一度として首を縦に振ったことはなかった。自らの主人を前にしてしんからの回答が得られるかと問われればそこには疑問が残る。だがラシードはあえてその可能性を無視した。

 スーリを自由民にするのは簡単だ。だがしかし、ラシードはそうしようと思ったことはなかった。考えてみたことはあるが、行きつく先は彼女が自分から離れて行くという予測ばかりだ。ラシードはスーリを手放したくはなかった。彼女をそばに置いておきたかった。その狭量さに、浅ましさに自己嫌悪したのは一度や二度ではない。それでもラシードはスーリを奴隷の身分から解放してやるという選択肢を選ぶことはなかった。

「……スーリ」

 スーリの褐色の瞳に引き込まれるように、ラシードは彼女を抱きしめていた。かすかに震える華奢な肩に手が触れる。

「大丈夫だ。お前は俺が守ってやるからな」

 それがきっかけになったのか、スーリのまなじりからは堰を切ったように涙があふれ出す。ぽろぽろとこぼれ、頬を伝う涙の粒を、ラシードはそのしなやかとは言いがたい手でぬぐう。しゃくり上げる背をゆっくりと撫で、小さな頭をしっかりと抱き込む。ラシードの胸板にスーリが顔を押しつけるのがわかった。

 ラシードはスーリが泣き止むまで、そうして優しく彼女を抱きしめた。
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