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一日目 2030年2月某日

二、

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 寒くて目が覚めるのは、最悪だ。まぶたは眼球に張り付いていたいのに、暖を取る方法を探さなくてはならない。うすぼんやりとした視界の中に、阿貴は手を伸ばす。温かくてなめらかな感触を察知して飛びついたが、何かに引き剥がされて眠気が去っていく。

「離れろ」

 かすれ気味の落ち着いた声は生来のものだろうか。発された言葉も剣呑なのに、その声が好もしいことに少し安堵した。一緒に過ごす相手のことは、ささいなことでも好ましく思いたいものだから。
 離れはしなかったが、阿貴は寝ぼけて伸ばした手をひっこめた。男は上半身裸だ。どうやら阿貴が抱きしめたものは彼の胴体だか腕だかだったらしく、一畳ほどの小さな土間で、男のほうが阿貴を警戒するように身を引いた。明らかに男のほうが強そうなのにも関わらず、だ。
 横になりながら男の姿を見上げて、状況を確認する。体調最悪で空腹に解熱剤を飲んだというのに、阿貴の熱は下がっている。目の前の男も、しゃんと立ち上がっている様子を見ると目覚める前よりはよほど調子がよさそうだった。寒さは感じるが嫌な寒気はない。人間、案外死なないものだな、と我が身の頑丈さに思いをはせていたが、ふと彼が足元に落ちている服に手を伸ばしたのを見て、とっさにその腕をつかんだ。
「待って、どっか行くの」
 男は怪訝そうな顔をした。
「ここにいる理由もない」
「その中に食糧があるだろう」
 阿貴は隅に転がっているザックを顎で指した。

「手当てしたんだから、食べ物を頂戴」 

 少しは抗議されるかと思ったのだが、男は渋い顔こそしたものの、あっさりとその場に座りなおしてバッグを阿貴のほうへと放った。おまけに、バッグの中は阿貴が久しく見ていないご馳走が入っていた。
「ごはんと、味噌と、サラダチキン……え、肉が食べられるの?」
「冷凍庫からとってきたから大丈夫なはず」
 パックごはんに味の濃い調味料だけでも儲けものなのに、肉なんてずいぶんと食べていない。今が何時かわからないか、半日の自然解凍ならそう痛んでいないだろう。何より空腹と、肉類という貴重な食事に多少腹を壊そうと構わない、という気持ちだった。
「さすがに俺が食べちゃっていいのか?」
 阿貴が尋ねると、男は目を開く。男は半裸だが、阿貴も上は伸びきったタンクトップ一枚だ。鳥肌を立てながら食欲を優先している人間たちは、さぞ滑稽だろう。
「……いいよ、何個かあるし、今更」
「ありがとう!」
 ほとんど男の言葉にかぶせるように阿貴は叫んだ。男の了承がもらえればもう遠慮はなしだ。確かにサラダチキンは四つか五つほどありそうで、その中の二つを取り出す。そしてごはんパックも二つ、ご丁寧にプラスチックスプーンとフォークが入っていたので、それも取り出して床に敷いた濡れた服の上に置いた。
「フォークとスプーン、どっちがいい?」
「え?」
「どっちでも良ければ、俺がスプーンね」
 食糧については男の了承がとれるまでは我慢していたが、もう阿貴の気持ちは逸りに逸っていた。男の分の食糧を押しやって、味噌の蓋も開けてしまう。発酵食品ありがたや。まだ包装に入ったままのスプーンを指で挟んで、これまでにないぐらい深く合掌する。
「いただきます」
 まずはごはんパックの蓋を半分開ける。本来であれば温めたほうがおいしいが、今は冷めても炊飯済みのものはご馳走だ。スプーンですくった味噌をごはんにつけてから、今度はごはんといっしょにすくう。がっつき過ぎないように呼吸を整えてから、一口を含む。意図的にゆっくりと米の触感をかみしめ、味噌の懐かしい味を堪能する。幸せだ。かなり硬めだけど。
 そして、今日の阿貴の食事はこれだけじゃないのだ。まだ凍っている部分もあるが、サラダチキンを握りしめて包装を剥ぐ。匂いも大丈夫、変なねばつきもない。小さく一かじりしても味はただただ優秀なサラダチキンの味で、迷わず大きくかじりついた。おいしい。一人暮らしや共働きの世帯が増えたことなどの社会のニーズに合わせて作られた、保存しやすくおいしい食べ物、というのが、今、この戦火で生き延びようとしている人々をも救っている。
「おいしい!」
 ちょっと涙が出そうだった。目頭が熱い。空っぽだった身体に肉と米が染みて、満たされていく。舌で感じる味覚が、頭の暗いところを晴れやかにしていく。
 早食いしてしまいそうなのをこらえて、阿貴は一口一口丁寧に食べた。充足感がより増すように、何度も噛む。米粒が甘くて、チキンの風味が香しい。
 阿貴がこの世で初めての食事だとも言わんばかりにあり合わせのものを食べているのを、男はじっと見つめていた。そして、やがて自分もサラダチキンをとって、食べ始めた。
 雨の音に混じって、包装のプラスチックが擦れ合う音が響く。阿貴と男は向き合って、黙って、食事をしていた。
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