信長の室──小倉鍋伝奇

国香

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出会い

八・濃姫(下)

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 右京亮はいったいどんな心境なのだろうか。彼はお鍋に文を届けたのである。

 濃姫が山上城にいると。

 三月、お鍋は於巳でも伝兵衛でもなく、寺倉を供に選んで、山上城に白昼堂々乗り込んで行った。

 寺倉と現れたお鍋に、山上城では驚いたが、お鍋は何食わぬ顔で、時節の挨拶に来たのだと言った。

「そのようなお顔をなさいますな。主は、小倉家の皆様と仲良くやりたいと思っているのですから」

 寺倉はそう言って、実隆からの手土産を差し出した。

「主が姫と皆様との接触を嫌っていると、思っておられるのでしょう?さようなことはございませぬ」

 だから、お鍋を挨拶に遣わしたのだと寺倉は言う。

「何より、主の御実兄の蒲生様は、右近大夫殿とは相婿。蒲生様ご内室様は小倉の皆様との関係改善を願われる毎日なのですから」

「……とりあえず、こちらへ」

 お鍋と寺倉は客殿に通された。

 だが、案内の小姓の去り際、お鍋はこっそり紙切れを手渡した。

 小姓が物陰に来て、それを開くと、これは自分の策であるから心配ないと書いてあった。織田家の室に会わせるようにとも。

 やがて、小姓からその紙切れを見せられた右近大夫が客間に現れると、お鍋はこっそり目配せした。

 何も知らない寺倉は、仲良くなりたい旨、話している。右近大夫もすっかり打ち解けた様子を見せ、趣味の話などで意気投合した。

 すると、右近大夫は、

「姫君。せっかくお近づきになることが叶ったのです。我が妻とも会うてやって頂けませぬか」

と言った。

「勿論です。兄・実隆の兄嫁様の姉上様ですもの。お目にかかれたと知れば、兄も喜びます。奥へ参りましょう」

 お鍋が即答すると、間髪入れずに右近大夫も、

「おお、姫君おん自ら、奥へお渡り頂けるとは。有難きこと」

と、寺倉に口を挟ませる隙を与えない。

(まあ、此度の訪問は、小倉一門と親しくなって、こやつらと浅井との関係を探るためだしな。お鍋が右近大夫の奥方と親しくすれば、こやつら、油断するだろう。奥方は蒲生の殿の義姉上やから、お鍋が親しくなったところで困らない。いや、親しくなった方が奥方を動かせる、かえって好都合やな)

 寺倉もそう思って、お鍋が奥へ渡ることを許した。

 今回の訪問は、小倉庶家と親しくしておけという実隆の命令による。お鍋はそれを、濃姫との対面に利用したのだ。

 お鍋は何食わぬ顔で、奥へと渡って行く。

 しかし、奥殿の廊下で待っていた侍女が案内したのは、右近大夫の妻のもとではなかった。

「こちらへ」

 途中で草履が用意されていた。お鍋はそれを履いて、庭へ下りて行く。そして、侍女に案内されるまま、本丸を後にした。

 二の丸の内の一殿に、濃姫は匿われているらしい。

 濃姫は日々、床に臥して過ごしているそうだが、連絡を受けて、今日は起きて支度を整え、待っているという。

 事情を知らない濃姫にとって、自分のもとに名医を派遣し、信長を無事に通してくれたお鍋は、最大の恩人である。

 床に伏せたまま恩人に対面するのは、失礼だと思ったらしい。

 やがて、お鍋は草履を脱いで、その建物に上がって行く。

 どぎまぎする心臓。そこには懐刀が秘められている。お鍋は着物の上からそれを握って、心臓を落ち着けようとした。

 導かれた一室に入ると、黒髪が見えた。

 女性が一人、両手をついてお鍋を迎えていた。

 その艶やかな美しい黒髪。

(この女が信長の!)

 お鍋は睨みつけるように一瞥をくれると、女の真向かいに座った。平伏している女の白い手が見えた。

 難産でやつれて痩せたのか、髪の艶とは相反して、存外骨の目立つ手だ。

「小倉鍋と申します。どうぞ御手をお上げ下さいませ。美濃一国の主の姫君に、そのようなことをして頂くような身分ではございません」

 お鍋は作り声で、穏やかに、上品にそう言った。

 濃姫がそっと身を起こした。その瞬間、凍り付いた。

 きっと、とても美しいのだ。お鍋なんかが、かなわないくらいに。だが──

 憎い女の顔から同情を覚えてしまうほど──濃姫には死相が出ていた。

 死相に見えた。お鍋には。

 それが表情に出ていたのか、お鍋を見ると、濃姫は辛そうに、申し訳なさそうに眉根を寄せた。

「この度は誠にお世話になりました。夫が無事に戻れましたのも、全てあなた様のお力添えがあったがため。私の命もお助け下さり、お礼のしようもありません。本来はこちらから御礼に伺わねばならぬのに、あなた様の方から来て頂けるなんて。重ね重ね失礼の数々、どうぞお許し下さい」

 再び頭を下げた。濃姫の声には心からのお鍋への感謝が窺えた。

 お鍋は少々面食らった。あの信長の妻だというから、よほど磊落か高慢な女なのだろうと思っていたからだ。

「……ご丁寧な……」

 思わずそう呟くと、ようやく濃姫は頭を上げ、微笑んだ。

 信長の趣味なのだろうか、茜色の小袖に、色鮮やかな大柄の花柄の打ち掛けを羽織っている。しかし、派手な装いからは想像もつかないほど儚げで。お鍋は彼女の装いに対して、嫉妬を忘れてしまった。

 濃姫は嬉しげに、いや、ほっとしたように、

「ああ、でもよかった。直接お目にかかって、お礼が言えて。思い残すことはありません」

 思い残すことはない──まるで遺言めいて、お鍋は落ち着かなくなった。

 か細い笑みの濃姫の声は、弱々しく、哀しみに支配されている。

 濃姫はどうしてこんなふうになったのだろうかと、お鍋は思った。難産だけで、ここまで死の淵を覗けるものだろうか。

 濃姫とは二人きりの対面。

 部屋には香がたゆたっていて、嬰児のいる場所特有のにおいが露ほどもしない。

 濃姫の侍女達は次の間に控えている。そちらからも同じ薫りがしている。

 そういえば彼女達の間にも、こちらと同じ、陰鬱な空気が漂っていた。

(これはただ事じゃないわ!)

 もう遠慮なく横になって下さいという言葉が出かかった時、また濃姫が言った。

「ごめんなさい……」

「え?」

「ごめんなさい。せっかくこんなによくして頂いたのに、命を助けて頂いたのに、ごめんなさいね……」

 濃姫はやや俯いた。だが、なお青白い頬を正面から覗くことができる。

(泣いてる?)

 濃姫の声はかすかに震えていて、まるで泣いているようだ。だが、目にも、その白過ぎる頬にも涙は見えない。

(違う、泣いてるわ!)

 人目もはばからず、濃姫は泣いているのだ。泣いて泣いて、涙がかれて枯渇して、こんな顔に──。

「せっかく助けて頂いた命だというのに、私……ごめんなさい……あの子は……」

「あっ?」

 違和感の理由に今気づいた。この部屋にも、隣の部屋の侍女達の間にも、赤子の姿がなかった。

(乳のにおいは──)

 においもないのは、赤子がいないから──。

 徐に、濃姫は袂の内より、紫の布を引き出した。

 見覚えのある布だった。

「右京亮殿──夫を実際に道案内して下さったというあの方は、あなた様の許嫁でいらっしゃるのですってね?あの方が、私がこちらに参った晩、私にこの布を手渡して下さいました。夫から預かったと。私達親子がこちらに参った時、娘をこの布で包むようにと言い置いて行ったそうですね」

 そう、それは信長が姫を包むためにと京の都で手に入れて、右京亮に委ねて行ったもの。

「悲しいわ……あの子を一度も包んであげることができなかった。ごめんなさい。あなた様にあんなによくして頂いたというのに、あの子は柏原で……」

「嘘!そんな!」

 お鍋は固まった。

「……娘はこちらに移る前に、亡くなってしまいました。柏原で……ああ、これで包んであげられなかった。夫に一目さえ会わせてあげられなかった……」

 布を抱きしめ、嗚咽する濃姫。しかし、涙はやはり見えず。

 隣の部屋からも、侍女達のすすり泣く声がしている。

(ああ!私が呪ったから!私が殺した!)

 お鍋は、自分の情念が姫を呪い殺したのだと思った。

(そうよ!だから、死相が……)

 姫を殺し、それでも足りず、今、濃姫をも殺しかかっている。濃姫の死相はお鍋の怨念だ。

「何てこと!!」

 お鍋は床を叩いて絶叫した。顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。

 濃姫はそんなお鍋に我に返り、

「ああ、私のためにそんなに悲しんで下さるの?」

と、重たい体を引きずり、お鍋にいざり寄ると、その背を優しく撫でた。

「ごめんなさい……ありがとう……」

(私のせい!私のせいだ!)

「ごめんなさいね……」

 繰り返される濃姫の詫びの言葉は、どこか失った我が子に向けられているもののようだった。

 お鍋と濃姫、互いに取り乱していると、比較的年配の侍女が、そっと事情を説明してくれた。

 信長は将軍足利義輝に謁見するために上洛したが、将軍の母や女房衆、また公家や幕臣の女房衆との交際は大事であるので、濃姫も身重ながら付いて来たのだという。ところが、途中で産気づいたので、結局濃姫は上洛せず、成菩提院に残った。そして、難産の末、ようやく姫が生まれた。

 生まれた姫は、濃姫にとっては、初めて生きて誕生してきた子だったのだという。濃姫には無類の喜びであり、それはそれは愛して養っていたのだ。

「ところが、ご誕生から数日後、急に熱を出されまして──」

 圓斎に診てもらおうかと思ったが、日野と柏原は相当な距離があり、女ばかりではどうにもならず。そうしている間に、赤子は急激に容態悪くなり、亡くなってしまったのだという。

「せっかくご無事にお生まれになった姫君様でございましたのに、病でっ……」

 うっとしゃくりあげ、侍女はしばし言葉を絶った。

 嬰児の姫は寺で弔ってもらったが、今度は濃姫の体が蝕まれていった。

「死ぬなら死ね、死んでも構わぬと、自棄になっていたのです……」

 濃姫はそっとお鍋の背から手を離し、弱々しく笑った。まだ自棄になっている、お鍋はそう思った。

 信長という男を好きになっただけのお鍋には、母の心境は到底理解できない。夫より、恋しい男と共にいることより、死んだ子と一緒に死んでしまいたいものなのだろうか。




******************************

 その後、何を話したのか、どう取り繕ったのかわからない。

 どう辞して、どう歩いてきたのかもわからない。

 それでも、ついに「死なないで下さい」と濃姫に言えなかった自分は、何て恐ろしいのだろうと、お鍋は思った。

(人間じゃない!)

 生まれたばかりの何の罪もない赤子を、怨念で殺してしまったのだ。人間なんかじゃない、そう、だから、濃姫にも生きてと言えなかったのだ。

 懐刀が胸に痛い。鞘に納まっている刀が、お鍋の胸を突いているように、痛い。

(私、これであの人を殺そうと思っていたのよ)

 隙あらば、刺殺しようと忍ばせた刀。

 お鍋は立ち止まった。

「いかがなさいました?」

 初めて寺倉が声をかけた。

 山上城からの帰り道、寺倉は一言もしゃべらずに、ずっとお鍋の後ろをついてきていた。

 きっと、彼女の様子がただならぬことに気付いているのだろう。

「何でもない」

 お鍋はぽつりと答えて、ふと我に返った。

(いけない。私は右近大夫殿の奥方と会ったことになってるんだったわ。こんな顔してたら、奥方と何かあったと思われちゃう!)

 蒲生定秀に悟られてしまう。

 右近大夫やその妻は、お鍋が妻と会ったということにしておいてくれている。それなのに、定秀に悟られては水の泡だ。

(私はもう人間じゃないんだから──)

 いかようにも振る舞えるものだ。良心の呵責なんて、鬼女に不要だ。

 お鍋は急に平生の顔に戻ることができた。声も振る舞いも。

「なんか疲れちゃったみたい。寺倉殿、ごめんなさいね。私、もしかして不機嫌だったかしら?」

 笑顔も作れる。

「いいえ、とんでもない。ですが、確かにお疲れになりましたろうなあ。今日は帰ったら、ゆっくりお休み下され」

 寺倉に疑う様子はなかった。お鍋の様子がおかしかったのは、単なる気疲れによるものと、納得したらしい。

 お鍋はほっとして、先に進む。

 もうすぐ佐久良城だという所まで至った時、大きな桜の木の下に、小さな子供と数人の大人がいるのが見えた。

 花の散った桜木などに、何の用があるというのだろう。

 幼児は、だが、しきりに飛び跳ねて、きゃっきゃと歓声をあげていた。

 寺倉はそれを見て、即座に、

「や、蒲生の大殿様がお越しのようです」

と言った。

「蒲生家の若様と町野殿です」

「え、じゃああの子が──」

 実隆の言葉が脳裏に甦る。

(狐の子?)

 だが、無邪気な童子はいたって普通に見える。

 お鍋が実隆の言葉を思い出している間に、寺倉が彼女のことを町野に紹介していた。

「おお、この御方が佐久良の姫様であらせられましたか。若様、佐久良の姫様ですぞ、ちゃんとご挨拶なされませ」

 町野が童子にそう教えている。童子は途端に目を輝かせて、お鍋を見上げた。

「桜の御姫様?」

(ん?何かしら……??)

 童子の無心な眼差しに、お鍋は小首を傾げた。

「ご機嫌よう!」

 童子は人懐っこくお鍋に挨拶してから、

「凄い!人間じゃないんだ!」

と喜んだ。

「えっ!」

 ぎくっとお鍋は童子を見つめる。

 やはり狐なのか、だから、見破ったのか。

 だが、童子はもうお鍋を見てはいず、町野の顔を凝視して、文句を言った。

「鬼も精も魄霊幽霊もいないって言って。町野、嘘つき!」

「え、え?」

 幼児の言うことは半分以上理解できない。町野は困惑しきり、笑顔だけは絶やさず、わけもわからぬまますみませんと謝っていた。

「何してるの?」

 蒲生の子なのである。お鍋は一応、愛想を言った。

 童子はまたお鍋を見上げて、にこっと笑い。

「葉っぱと競争!」

「葉?ぱ……?……葉っぱを取るの?」

「違うもん!取るわけないもん!葉っぱに触るんですっ!」

 何故かもの凄く不服そうに、全力で否定する。

 町野が苦笑して、通訳した。

「葉に手が届くのが目標なのです。跳躍力をつけようと、励んでおられるのです」

「それで、しきりに跳んでいたっていうの?」

 変な子と思ったが、

(人間じゃない、私。そうよ)

 意地悪心がわきおこり、

「葉っぱに触ったら、毛虫に食われるわよ。葉の裏には、よく毛虫が潜んでいるんだから。触られてびっくりした毛虫が、ちくっと刺すのよ」

と言った。

 童子はすぐに青ざめた。

 毛虫に刺された時の痛みを想像したのか、右の手のひらを見つめる。

 先日、桜の枝で負傷したそこはもう治っている。だが、まだ痛みを覚えているのだろう。

 この童子の記憶の中の、毛虫に刺された時の痛みは、先日の枝による負傷の痛みと同種のものだったらしい。

 お鍋は毛虫に怯える童子がおかしくてならなかった。

「あら、でも毛虫は成長すると、蝶になるのよ。蝶の羽は美しいわ。皆、蝶は好きでしょう」

 ぶんっぶんっと童子は首を横に振った。

「真ん中は毛虫のままだもん!」

 男の子は普通、虫が好きで、追いかけて捕らえて集めるものだが、この子はまだ幼さ過ぎるのか、蝶を得体の知れないもののように語った。

(女子でも蝶は好きなのに)

 お鍋はくすくす笑った。

 お鍋などは、幼い頃には、ひらひら舞う蝶を追いかけ、共に舞い遊んだものだ。

 いや、確か、木の枝を使って、器用に毛虫もかき集めていた気がする。桜には毛虫が沢山いたから、お鍋は桜の木の下でよく遊んでいたような。

「若様は昨秋、毛虫に刺されて、腫れて大変でしたものね」

 町野は幼児の記憶になお鮮明に残るほどの痛みを言った。

「そうなの」

 お鍋は笑って、そろそろ城に戻ろうと、別れを切り出した。

「桜の御姫様、また出てくる?」

 出てくるとは、いささかおかしな表現だが、お鍋は幼児だから、言葉が変なのだと思った。

「そうねえ、城の外にはなかなか出られないけど……若君が佐久良城の中に入って来れば、また会えるでしょう?」

「城?ここ?この中にあるのかな?」

 童子は桜のそれはそれは太い幹の巨体を見つめた。そして、そこを手で触ったり、とんとん戸を打つように叩いている。

 お鍋は立ち去ったが、しばらくして振り返ってみると、童子は紫色の紐のようなものに小太刀を巻きつてけていた。

「あのね、鶴、気付いちゃったんだ。紐は投げても高く上がらないで、ひらひら散ってきちゃうの。でも、これを付ければ、重石にもなるし、木に引っ掛かかりやすくなるよね?でも、本当にはやらないよ。枝折れちゃうから」

 よくわからないが、興味の尽きない子だと思って、正面を向き直した時、お鍋は不意に思い出した。

(あの色っ!)

 再び振り返る。

 楽しげに小太刀を結び付ける童子の、手にある紐の紫。

 先程の濃姫の布が鮮明に蘇った。

(あの子!私を人間じゃないと言ったり、あんな色のもので、私にあの布を思い出させたり!)

 やはり狐の子だと思った。
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