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第2話 追放令嬢、涙とともに国を出る
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薄い光がまぶたの隙間から差し込んで、レティシアはゆっくりと目を開けた。
鼻をくすぐるのは乾いた薪の香りと、温められた牛乳のようなやさしい匂い。
視界がぼやけながらも、すぐに木の天井と、暖かな毛布に包まれた自分の身体がそこにあることに気づく。
「……ここは……」
かすれた声でそうつぶやくと、すぐに誰かの気配がした。
厚手の扉が静かに開き、銀灰色の髪をした青年が入ってくる。
背が高く引き締まった体つきで、深緑の瞳が印象的だった。
彼の服装は貴族的ではなく、むしろ質素で実用的。だが、その立ち居振る舞いからは品位と教養がにじみ出ていた。
「気がついたか。熱は引いたようだな」
その声は低く少し掠れていて、けれど不思議なほど優しく響いた。
レティシアはもう一度身体を起こそうとしたが、まだ体中が重く、少しだけ頭が鈍く痛んだ。
「あなたは……」
「通りがかったとき、雪の中で倒れていた君を見つけた。放っておけば凍えてしまうと思ってね。とりあえずここへ運んだだけだ」
そう言って青年は、木製の机に置いた湯気立つスープを差し出した。
温かい香辛料の匂いが、空腹を刺激する。
レティシアは礼を言おうとして、まだ自分の手が震えていることに気づいた。
「……ありがとうございます。本当に……」
彼は小さく頷きながらスープの器を渡してくれた。
レティシアは両手で受け取り、ゆっくりと口元へ運ぶ。
舌に触れた瞬間、涙が込み上げそうになった。
こんなにも温かい味を口にするのは、いつ以来だっただろう。
「落ち着いたら、名前を聞かせてくれるか?」
青年の問いに、レティシアはしばらく俯いて沈黙した。
自分の素性を隠すべきか、正直に名乗るべきか。
国を追放された身、今や“罪人”とされる女だ。
だが、救ってもらった恩に嘘をつくことはしたくなかった。
「レティシア・グレイスと申します……。その……王都から来たのです」
青年の表情が一瞬だけ動いた。
だが彼は何も言わず、ただ「そうか」と軽く頷いた。
「俺はリアン。辺境の領主をしている。正確には、国境を守る騎士団の指揮に当たっている者だ」
辺境の領主――その言葉に、レティシアはかすかに目を見開いた。
この地は、北の雪山に接する国境地帯。王都から遠く、険しい自然と異民族の領域が交錯する場所。
そこにいる領主が自ら巡回していたことにも驚いたが、その落ち着いた態度や品位に、どこか懐かしい安心を覚えた。
「リアン様……助けていただいて、本当にありがとうございます。ご迷惑をかけてしまって」
「なぜ謝る? 困っている人を助けるのに理由はいらない」
あまりに淡々と返されたその言葉が、胸に染みた。
誰かにそう言われることが、どれほど長い間なかっただろう。
レティシアは毛布の中で握りしめた手を、少しだけ開いた。
震える指先を見つめながら、思い出したのは断罪の夜の光景。
アレクシスの冷たい声、イレーネのあざ笑う瞳、そして群がる貴族たち。
あの場で感じた絶望が、まだ心の奥で疼いている。
「わたくし……国を追放されたのです。殿下に……裏切りの罪で」
その告白に、リアンは少しだけ眉を寄せた。
驚いたというより、彼女の心情を察して慎重に言葉を選ぼうとするようだった。
「濡れ衣、か?」
レティシアは苦しげに微笑んだ。
「……はい。でも、信じてもらえるとは思っていません。皆がそうでしたから」
リアンはしばし黙り、窓の外で舞う雪に視線を投げる。
暖炉の灯が彼の横顔を照らし、鋭さと優しさが同居する不思議な影を作った。
「信じるも信じないも、俺には判断できない。ただ一つ言えるのは、君が今この場で生きている。それだけで十分じゃないか」
レティシアはその言葉に胸を打たれた。
彼の語り口は穏やかでありながら、どこかに深い信念があった。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、初めてです」
「この辺境では、過去にしがみつくより今を生きるほうが大事だからな。君も少し休め。外はまだ吹雪いている。明日になれば空も落ち着く」
レティシアは再び小さく頷き、目を閉じた。
リアンの足音が部屋を出ていくのを聞きながら、疲労に包まれて意識が沈んでいく。
***
翌朝、風の音が静まった頃、レティシアはゆっくりとベッドを降りた。
小さな宿の窓からは、雪原の向こうに朝日が淡く差し込んでいる。
一晩で外の景色は白銀の世界に変わり、まるで新しい人生の始まりを祝福しているかのように見えた。
簡素な木机には、温かいパンとスープ、そして一枚の紙が置かれていた。
「外で話そう」とだけ書かれている。
レティシアが外へ出ると、リアンは馬小屋の前で何頭かの馬に餌を与えていた。
その姿は屈託がなく、国のしがらみから解き放たれた人間の自由さを感じさせた。
「具合はどうだ?」
「はい、もうすっかり元気です。……本当に、ご親切にしていただいて」
「気にするな。それよりも、これからどうする?」
突然投げかけられた問いに、レティシアは一瞬言葉を詰まらせた。
自分はもう、帰る国も家もない。
王太子に断罪され、伯爵家の爵位も奪われ、追放令嬢として行き場を失った存在。
「……決めていません。ただ、生きてみたいとは思いました。このまま終わるのは違う気がして」
リアンはわずかに目を細め、満足げに頷く。
「それでいい。なら、この村にしばらく滞在するといい。ここは国境に近いが、争いもほとんどない。君のような人間にも居場所はある」
「でも……ご迷惑では」
「迷惑とは思わない。人手はいくらでも必要だ。屋敷には手伝いも少なくなってな。もし構わないなら、しばらく滞在しながら働くことを考えてみないか?」
胸のどこかで、何かがあたたかくほどけていくのを感じた。
誰にも必要とされない存在だった自分が、必要とされる――たったそれだけのことで、涙が出そうになる。
「……よろしいのですか?」
「もちろん」
リアンの笑みは穏やかで、けれど力強かった。
レティシアは小さく頭を下げ、顔を上げたときには少しだけ笑っていた。
「はい。どうか、よろしくお願いいたします」
リアンは彼女の言葉に頷き、ひとつの荷馬車を指さした。
「俺はこれから領地へ戻る。その途中でいくつか村を回る。旅の道中は少し寒いが、景色は悪くないぞ」
レティシアは微笑んだ。
凍えた心の奥底に、新しい陽だまりのような感覚が広がっていく。
かつて失ったすべてを思えば、この出会いは奇跡のようだった。
見知らぬ地、見知らぬ人――けれどこの温もりを信じてみたい。
「一歩、踏み出すことから始めましょう」
そう口にした自分の声が、雪の空気に溶けていく。
レティシアの足元には、真っ白な雪が美しく光を反射していた。
新しい旅が、今ここから始まる。
続く
鼻をくすぐるのは乾いた薪の香りと、温められた牛乳のようなやさしい匂い。
視界がぼやけながらも、すぐに木の天井と、暖かな毛布に包まれた自分の身体がそこにあることに気づく。
「……ここは……」
かすれた声でそうつぶやくと、すぐに誰かの気配がした。
厚手の扉が静かに開き、銀灰色の髪をした青年が入ってくる。
背が高く引き締まった体つきで、深緑の瞳が印象的だった。
彼の服装は貴族的ではなく、むしろ質素で実用的。だが、その立ち居振る舞いからは品位と教養がにじみ出ていた。
「気がついたか。熱は引いたようだな」
その声は低く少し掠れていて、けれど不思議なほど優しく響いた。
レティシアはもう一度身体を起こそうとしたが、まだ体中が重く、少しだけ頭が鈍く痛んだ。
「あなたは……」
「通りがかったとき、雪の中で倒れていた君を見つけた。放っておけば凍えてしまうと思ってね。とりあえずここへ運んだだけだ」
そう言って青年は、木製の机に置いた湯気立つスープを差し出した。
温かい香辛料の匂いが、空腹を刺激する。
レティシアは礼を言おうとして、まだ自分の手が震えていることに気づいた。
「……ありがとうございます。本当に……」
彼は小さく頷きながらスープの器を渡してくれた。
レティシアは両手で受け取り、ゆっくりと口元へ運ぶ。
舌に触れた瞬間、涙が込み上げそうになった。
こんなにも温かい味を口にするのは、いつ以来だっただろう。
「落ち着いたら、名前を聞かせてくれるか?」
青年の問いに、レティシアはしばらく俯いて沈黙した。
自分の素性を隠すべきか、正直に名乗るべきか。
国を追放された身、今や“罪人”とされる女だ。
だが、救ってもらった恩に嘘をつくことはしたくなかった。
「レティシア・グレイスと申します……。その……王都から来たのです」
青年の表情が一瞬だけ動いた。
だが彼は何も言わず、ただ「そうか」と軽く頷いた。
「俺はリアン。辺境の領主をしている。正確には、国境を守る騎士団の指揮に当たっている者だ」
辺境の領主――その言葉に、レティシアはかすかに目を見開いた。
この地は、北の雪山に接する国境地帯。王都から遠く、険しい自然と異民族の領域が交錯する場所。
そこにいる領主が自ら巡回していたことにも驚いたが、その落ち着いた態度や品位に、どこか懐かしい安心を覚えた。
「リアン様……助けていただいて、本当にありがとうございます。ご迷惑をかけてしまって」
「なぜ謝る? 困っている人を助けるのに理由はいらない」
あまりに淡々と返されたその言葉が、胸に染みた。
誰かにそう言われることが、どれほど長い間なかっただろう。
レティシアは毛布の中で握りしめた手を、少しだけ開いた。
震える指先を見つめながら、思い出したのは断罪の夜の光景。
アレクシスの冷たい声、イレーネのあざ笑う瞳、そして群がる貴族たち。
あの場で感じた絶望が、まだ心の奥で疼いている。
「わたくし……国を追放されたのです。殿下に……裏切りの罪で」
その告白に、リアンは少しだけ眉を寄せた。
驚いたというより、彼女の心情を察して慎重に言葉を選ぼうとするようだった。
「濡れ衣、か?」
レティシアは苦しげに微笑んだ。
「……はい。でも、信じてもらえるとは思っていません。皆がそうでしたから」
リアンはしばし黙り、窓の外で舞う雪に視線を投げる。
暖炉の灯が彼の横顔を照らし、鋭さと優しさが同居する不思議な影を作った。
「信じるも信じないも、俺には判断できない。ただ一つ言えるのは、君が今この場で生きている。それだけで十分じゃないか」
レティシアはその言葉に胸を打たれた。
彼の語り口は穏やかでありながら、どこかに深い信念があった。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、初めてです」
「この辺境では、過去にしがみつくより今を生きるほうが大事だからな。君も少し休め。外はまだ吹雪いている。明日になれば空も落ち着く」
レティシアは再び小さく頷き、目を閉じた。
リアンの足音が部屋を出ていくのを聞きながら、疲労に包まれて意識が沈んでいく。
***
翌朝、風の音が静まった頃、レティシアはゆっくりとベッドを降りた。
小さな宿の窓からは、雪原の向こうに朝日が淡く差し込んでいる。
一晩で外の景色は白銀の世界に変わり、まるで新しい人生の始まりを祝福しているかのように見えた。
簡素な木机には、温かいパンとスープ、そして一枚の紙が置かれていた。
「外で話そう」とだけ書かれている。
レティシアが外へ出ると、リアンは馬小屋の前で何頭かの馬に餌を与えていた。
その姿は屈託がなく、国のしがらみから解き放たれた人間の自由さを感じさせた。
「具合はどうだ?」
「はい、もうすっかり元気です。……本当に、ご親切にしていただいて」
「気にするな。それよりも、これからどうする?」
突然投げかけられた問いに、レティシアは一瞬言葉を詰まらせた。
自分はもう、帰る国も家もない。
王太子に断罪され、伯爵家の爵位も奪われ、追放令嬢として行き場を失った存在。
「……決めていません。ただ、生きてみたいとは思いました。このまま終わるのは違う気がして」
リアンはわずかに目を細め、満足げに頷く。
「それでいい。なら、この村にしばらく滞在するといい。ここは国境に近いが、争いもほとんどない。君のような人間にも居場所はある」
「でも……ご迷惑では」
「迷惑とは思わない。人手はいくらでも必要だ。屋敷には手伝いも少なくなってな。もし構わないなら、しばらく滞在しながら働くことを考えてみないか?」
胸のどこかで、何かがあたたかくほどけていくのを感じた。
誰にも必要とされない存在だった自分が、必要とされる――たったそれだけのことで、涙が出そうになる。
「……よろしいのですか?」
「もちろん」
リアンの笑みは穏やかで、けれど力強かった。
レティシアは小さく頭を下げ、顔を上げたときには少しだけ笑っていた。
「はい。どうか、よろしくお願いいたします」
リアンは彼女の言葉に頷き、ひとつの荷馬車を指さした。
「俺はこれから領地へ戻る。その途中でいくつか村を回る。旅の道中は少し寒いが、景色は悪くないぞ」
レティシアは微笑んだ。
凍えた心の奥底に、新しい陽だまりのような感覚が広がっていく。
かつて失ったすべてを思えば、この出会いは奇跡のようだった。
見知らぬ地、見知らぬ人――けれどこの温もりを信じてみたい。
「一歩、踏み出すことから始めましょう」
そう口にした自分の声が、雪の空気に溶けていく。
レティシアの足元には、真っ白な雪が美しく光を反射していた。
新しい旅が、今ここから始まる。
続く
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