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「ジークさん、あそこに食材がいます」
私が指差した先。
鬱蒼とした森の茂みが、ガサガサと不穏な音を立てて揺れている。
「食材……? いや、あの揺れ方は……」
ジークが目を凝らす。
次の瞬間、茂みが弾け飛んだ。
「ブモォォォォォォォォッ!!!」
大地を揺るがす咆哮。
現れたのは、先日倒したグレートボアなど比較にならないほどの巨体だった。
体長は優に五メートルを超えている。
全身が鋼のような剛毛に覆われ、口元からは凶悪な牙が二本、天を突くように生えている。
その瞳は赤く燃え上がり、殺意の波動を放っていた。
「なっ……あれは『エンペラー・ボア』!?」
アラン副団長が悲鳴を上げた。
「嘘だろ!? Sランクの魔獣だぞ! 騎士団一個大隊でようやく追い払えるかどうかの化け物だ!」
「全員、散開しろ! まともに食らえば即死だ!」
騎士たちが慌てて武器を構える。
しかし、彼らの手にあるのは薪割り用の斧や、錆びついた剣。
到底、Sランク魔獣に対抗できる装備ではない。
「くっ……俺の剣があれば……!」
ジークが悔しげに歯噛みする。彼の愛剣は折れてしまっている。
絶望的な状況。
誰もが死を覚悟した。
だが、ただ一人。
私、ミール・ヴァン・ダレスだけは違った。
「すごい……」
私は感嘆の声を漏らした。
ジークからもらった眼鏡のフレームを、指先でクイッと上げる。
世界が、あまりにも鮮明に見える。
ボアの筋肉の隆起。
剛毛の生え際。
そして、眉間のあたりにある、わずかな毛並みの乱れ(急所)。
以前の私なら「茶色い山が動いている」くらいにしか認識できなかっただろう。
だが今は違う。
(見える……見えるわ! あそこが一番、脂が乗っている部位ね!)
私の目には、エンペラー・ボアの体が、すでに解体図のように部位ごとにライン引きされて見えていた。
「ロース、バラ、ヒレ……それにあの牙は、高級な飾り細工になりそう」
「ミール! 何をブツブツ言っている! 逃げるぞ!」
ジークが私の手を引こうとする。
私はその手を優しく払った。
「逃げる? 何を言っているんですか、ジークさん」
私はフライパン(愛用の鋳鉄製、重量3キロ)を構えた。
「お客様(騎士たち)にお出しする、今夜のメインディッシュですよ?」
「は……?」
「鮮度が命です。下処理(物理)は私がやります」
私は一歩踏み出した。
「店主殿! 危ない!」
騎士たちの制止を振り切り、私はボアの正面に立つ。
ボアが私を認識した。
「ブモッ?」
小さな人間が一人、フライパンを持って立っている。
ボアにとっては、取るに足らない小石のような存在だろう。
ボアは鼻を鳴らし、巨大な蹄で地面を掻いた。
そして、猛烈な勢いで突進を開始する。
ドゴゴゴゴゴゴゴッ!!
戦車のような突撃。
地面がえぐれ、木々がなぎ倒される。
迫り来る死の塊。
しかし、眼鏡越しの私の視界は、スローモーションのように冷静だった。
(……遅い)
そう感じた。
以前は見えなかったから、勘と気配だけで避けていた。
だが今は、相手の筋肉の動きから、突進の軌道が完全に予測できる。
「右足に重心がかかってる。……そこね」
私はボアが目の前まで迫った瞬間、最小限の動きで半歩横にズレた。
ヒュンッ!
ボアの巨体が、私の鼻先をかすめて通り過ぎる。
その瞬間。
私はすれ違いざまに、フライパンを振り抜いた。
狙うは、ボアの横腹。肋骨の隙間。
「お肉は叩いて柔らかく!」
ガァァァァァァァァァンッ!!!
轟音。
金属製のフライパンが、ボアの強靭な筋肉にめり込む音ではない。
まるで巨大な鐘を撞いたような、重厚な音が森に響き渡った。
「ブギィッ!?」
ボアの巨体が空中でくの字に折れ曲がった。
遠心力と打撃の衝撃が完全に乗り、五メートルの巨体が真横に吹っ飛ぶ。
ズドォォォンッ!!
ボアは回転しながら地面を転がり、大木に激突して止まった。
「……嘘だろ」
「一撃……?」
騎士たちが呆然としている。
だが、エンペラー・ボアはまだ息があった。
さすがはSランク。耐久力が違う。
「ブ、ブモォォ……!」
フラフラと立ち上がり、怒り狂ってこちらを睨んでいる。
「あら、やっぱり硬いわね。筋切りが必要かしら」
私は眼鏡の位置を直した。
「ジークさん、ちょっと手を貸してください」
「え? あ、ああ!」
「あの子、暴れると肉質が悪くなるので、一瞬で締めます」
私は地面に落ちていた手頃な石を拾った。
「私が気を引きます。その隙に、ジークさんは背後から首を狙ってください」
「武器がないぞ!」
「ありますよ。そこに」
私が指差したのは、アラン副団長が持っていた「薪割り用の巨大な斧」だ。
「あれなら首を落とせます」
「……無茶を言う!」
ジークは叫んだが、その顔には笑みが浮かんでいた。
「だが、悪くない作戦だ!」
ジークはアランから斧をひったくった。
「行くぞ、ミール!」
「はい!」
私たちは同時に駆け出した。
私は正面から。ジークは側面から。
ボアは私に狙いを定め、再び突進の構えを見せる。
「こっちですよ、豚さん!」
私は石を投げた。
シュッ!
眼鏡のおかげでコントロールは百発百中だ。
石はボアの眉間(急所)に正確にヒットした。
「ブギッ!?」
ボアが怯む。視界が揺らいだその一瞬の隙。
「今です!」
「うおおおおおッ!!」
ジークが跳んだ。
彼もまた、超人的な身体能力の持ち主だ。
空中で体を捻り、遠心力を乗せた斧を、ボアの首筋へと叩き込む。
「断罪の一撃ィィッ!!」
ザンッ!!
鈍い音と共に、ボアの首が深々と切り裂かれた。
鮮血が舞う。
ボアは声もなく崩れ落ちた。
ズシーン……。
土煙が晴れると、そこには動かなくなった巨大な肉塊と、荒い息を吐くジークの姿があった。
「……やったか」
「お見事です、ジークさん。綺麗な断面ですね」
私は駆け寄り、肉の状態を確認した。
「これなら血抜きも完璧です。最高の状態で仕入れられました」
「仕入れって……命懸けだったんだぞ」
ジークが肩で息をしながら、斧を地面に突き立てる。
「でも、楽しかったでしょう?」
私が尋ねると、ジークは目を見開いた後、ハハッと笑った。
「ああ……そうだな。久しぶりに、血が滾った」
王宮での退屈な政争や、書類仕事では味わえない高揚感。
背中を預けられる相棒(店主)との共闘。
「悪くない。……いや、最高だ」
ジークは清々しい顔をしていた。
その時。
「すげぇ……」
後ろで見ていた騎士たちが、ゾロゾロと集まってきた。
彼らの目は、恐怖ではなく、純粋な畏敬の念に変わっていた。
アラン副団長が震える声で言う。
「Sランク魔獣を……たった二人で……しかも、フライパンと薪割り斧で……」
「ありえねぇ……伝説の英雄譚かよ……」
「店主殿……いや」
一人の騎士が、膝をついた。
「姉御(あねご)……!」
「はい?」
私が聞き返すと、他の騎士たちも次々と片膝をつき、頭を垂れた。
「姉御ォォォッ!! 一生ついていきます!!」
「我らを弟子にしてください! そのフライパン捌き、神域でした!」
「定食屋騎士団の結成だ! 俺たちのボスは、世界最強の悪役令嬢だ!」
騎士たちのテンションがおかしなことになっている。
「えっと、私はただの店主で……」
「姉御! この肉はどうしますか!?」
「運搬班、前へ! 姉御の手を煩わせるな!」
「解体班、準備にかかれ! 骨一本たりとも無駄にするな!」
彼らは勝手に動き出した。
その手際の良さは、正規の騎士団活動よりも遥かに生き生きとしている。
ジークが苦笑しながら私の肩を叩いた。
「諦めろ、姉御。あいつらはもう、完全に『こちらの世界』の住人だ」
「こちらの世界って……私はただ、静かに暮らしたいだけなんですけど」
「無理だな。この騒ぎだ」
ジークが森の奥を指差す。
騒ぎを聞きつけたのか、遠くから冒険者らしき人影や、行商人の馬車がこちらを覗いているのが見えた。
「『Sランク魔獣が出たと思ったら、定食屋の女将がフライパンで瞬殺した』なんて噂、明日には王国中に広まるぞ」
「うわぁ……」
私は頭を抱えた。
「まあいいわ。宣伝費が浮いたと思いましょう」
私は気持ちを切り替えた。
目の前には、極上の食材(エンペラー・ボア)があるのだ。
「皆さん! 今夜は宴会ですよ!」
私が宣言すると、騎士たちが「うおおお!」と歓声を上げる。
「メニューは『特製ボタン鍋』です! 味噌仕立てで、たっぷりの根菜と一緒に煮込みます!」
「ボタン鍋! 最高だ!」
「酒だ! 誰か街まで酒を買いに走れ!」
「俺が行きます! 倍速で戻ってきます!」
廃屋の庭が、一瞬にしてお祭り会場へと変わった。
◇
その夜。
巨大な鍋(大釜)を囲んで、盛大な宴が開かれた。
グツグツと煮える味噌の香り。
とろけるように柔らかいボアの肉。
甘い脂身が口の中で広がり、騎士たちは涙を流して食べた。
「美味い……美味すぎる……」
「生きててよかった……」
私も、眼鏡をかけて初めての「はっきり見える食事」を楽しんでいた。
湯気の一つ一つ、具材の色艶、そして――。
「美味いか?」
隣で鍋をつつくジークの、穏やかな笑顔。
「はい、とっても」
私は答えた。
眼鏡のおかげで、彼の笑顔がさらに魅力的に見えるのが、ちょっとだけ心臓に悪いけれど。
「なあ、姉御」
アランが酔っ払って絡んできた。
「姉御は、王都には未練はないんですかい? あんな王子より、団長の方が百倍いい男でしょう?」
「ぶふっ!」
ジークが酒を吹き出した。
「アラン、貴様……!」
「事実じゃないですか! なあみんな!」
「そうだそうだ! お似合いだぞ!」
「くっつけー! 結婚しろー!」
騎士たちが囃し立てる。
私は鍋の具材(熱々の大根)をお玉ですくい上げ、ニッコリと笑った。
「アランさん、口が軽すぎると、熱いのが飛んでいきますよ?」
「ひぃぃ! すみません! 大根だけは勘弁を!」
アランが逃げ惑う。
笑い声が夜空に吸い込まれていく。
こうして、私は「悪役令嬢」から「定食屋の姉御」へと、謎のクラスチェンジを果たしたのだった。
だが、この幸せな宴の裏で。
王都では、新たな動きがあったらしい。
私の元婚約者、オズワルド王子が、ついに重い腰を上げたという情報が、風の噂で届くのは翌日のことである。
(……リリアさんの手紙にあった『討伐隊』、本当に来るのかしら?)
鍋の底をさらいながら、私はふと、そんな予感を覚えた。
まあ、来たら来たで、また新しい「お客様」が増えるだけなのだけど。
私が指差した先。
鬱蒼とした森の茂みが、ガサガサと不穏な音を立てて揺れている。
「食材……? いや、あの揺れ方は……」
ジークが目を凝らす。
次の瞬間、茂みが弾け飛んだ。
「ブモォォォォォォォォッ!!!」
大地を揺るがす咆哮。
現れたのは、先日倒したグレートボアなど比較にならないほどの巨体だった。
体長は優に五メートルを超えている。
全身が鋼のような剛毛に覆われ、口元からは凶悪な牙が二本、天を突くように生えている。
その瞳は赤く燃え上がり、殺意の波動を放っていた。
「なっ……あれは『エンペラー・ボア』!?」
アラン副団長が悲鳴を上げた。
「嘘だろ!? Sランクの魔獣だぞ! 騎士団一個大隊でようやく追い払えるかどうかの化け物だ!」
「全員、散開しろ! まともに食らえば即死だ!」
騎士たちが慌てて武器を構える。
しかし、彼らの手にあるのは薪割り用の斧や、錆びついた剣。
到底、Sランク魔獣に対抗できる装備ではない。
「くっ……俺の剣があれば……!」
ジークが悔しげに歯噛みする。彼の愛剣は折れてしまっている。
絶望的な状況。
誰もが死を覚悟した。
だが、ただ一人。
私、ミール・ヴァン・ダレスだけは違った。
「すごい……」
私は感嘆の声を漏らした。
ジークからもらった眼鏡のフレームを、指先でクイッと上げる。
世界が、あまりにも鮮明に見える。
ボアの筋肉の隆起。
剛毛の生え際。
そして、眉間のあたりにある、わずかな毛並みの乱れ(急所)。
以前の私なら「茶色い山が動いている」くらいにしか認識できなかっただろう。
だが今は違う。
(見える……見えるわ! あそこが一番、脂が乗っている部位ね!)
私の目には、エンペラー・ボアの体が、すでに解体図のように部位ごとにライン引きされて見えていた。
「ロース、バラ、ヒレ……それにあの牙は、高級な飾り細工になりそう」
「ミール! 何をブツブツ言っている! 逃げるぞ!」
ジークが私の手を引こうとする。
私はその手を優しく払った。
「逃げる? 何を言っているんですか、ジークさん」
私はフライパン(愛用の鋳鉄製、重量3キロ)を構えた。
「お客様(騎士たち)にお出しする、今夜のメインディッシュですよ?」
「は……?」
「鮮度が命です。下処理(物理)は私がやります」
私は一歩踏み出した。
「店主殿! 危ない!」
騎士たちの制止を振り切り、私はボアの正面に立つ。
ボアが私を認識した。
「ブモッ?」
小さな人間が一人、フライパンを持って立っている。
ボアにとっては、取るに足らない小石のような存在だろう。
ボアは鼻を鳴らし、巨大な蹄で地面を掻いた。
そして、猛烈な勢いで突進を開始する。
ドゴゴゴゴゴゴゴッ!!
戦車のような突撃。
地面がえぐれ、木々がなぎ倒される。
迫り来る死の塊。
しかし、眼鏡越しの私の視界は、スローモーションのように冷静だった。
(……遅い)
そう感じた。
以前は見えなかったから、勘と気配だけで避けていた。
だが今は、相手の筋肉の動きから、突進の軌道が完全に予測できる。
「右足に重心がかかってる。……そこね」
私はボアが目の前まで迫った瞬間、最小限の動きで半歩横にズレた。
ヒュンッ!
ボアの巨体が、私の鼻先をかすめて通り過ぎる。
その瞬間。
私はすれ違いざまに、フライパンを振り抜いた。
狙うは、ボアの横腹。肋骨の隙間。
「お肉は叩いて柔らかく!」
ガァァァァァァァァァンッ!!!
轟音。
金属製のフライパンが、ボアの強靭な筋肉にめり込む音ではない。
まるで巨大な鐘を撞いたような、重厚な音が森に響き渡った。
「ブギィッ!?」
ボアの巨体が空中でくの字に折れ曲がった。
遠心力と打撃の衝撃が完全に乗り、五メートルの巨体が真横に吹っ飛ぶ。
ズドォォォンッ!!
ボアは回転しながら地面を転がり、大木に激突して止まった。
「……嘘だろ」
「一撃……?」
騎士たちが呆然としている。
だが、エンペラー・ボアはまだ息があった。
さすがはSランク。耐久力が違う。
「ブ、ブモォォ……!」
フラフラと立ち上がり、怒り狂ってこちらを睨んでいる。
「あら、やっぱり硬いわね。筋切りが必要かしら」
私は眼鏡の位置を直した。
「ジークさん、ちょっと手を貸してください」
「え? あ、ああ!」
「あの子、暴れると肉質が悪くなるので、一瞬で締めます」
私は地面に落ちていた手頃な石を拾った。
「私が気を引きます。その隙に、ジークさんは背後から首を狙ってください」
「武器がないぞ!」
「ありますよ。そこに」
私が指差したのは、アラン副団長が持っていた「薪割り用の巨大な斧」だ。
「あれなら首を落とせます」
「……無茶を言う!」
ジークは叫んだが、その顔には笑みが浮かんでいた。
「だが、悪くない作戦だ!」
ジークはアランから斧をひったくった。
「行くぞ、ミール!」
「はい!」
私たちは同時に駆け出した。
私は正面から。ジークは側面から。
ボアは私に狙いを定め、再び突進の構えを見せる。
「こっちですよ、豚さん!」
私は石を投げた。
シュッ!
眼鏡のおかげでコントロールは百発百中だ。
石はボアの眉間(急所)に正確にヒットした。
「ブギッ!?」
ボアが怯む。視界が揺らいだその一瞬の隙。
「今です!」
「うおおおおおッ!!」
ジークが跳んだ。
彼もまた、超人的な身体能力の持ち主だ。
空中で体を捻り、遠心力を乗せた斧を、ボアの首筋へと叩き込む。
「断罪の一撃ィィッ!!」
ザンッ!!
鈍い音と共に、ボアの首が深々と切り裂かれた。
鮮血が舞う。
ボアは声もなく崩れ落ちた。
ズシーン……。
土煙が晴れると、そこには動かなくなった巨大な肉塊と、荒い息を吐くジークの姿があった。
「……やったか」
「お見事です、ジークさん。綺麗な断面ですね」
私は駆け寄り、肉の状態を確認した。
「これなら血抜きも完璧です。最高の状態で仕入れられました」
「仕入れって……命懸けだったんだぞ」
ジークが肩で息をしながら、斧を地面に突き立てる。
「でも、楽しかったでしょう?」
私が尋ねると、ジークは目を見開いた後、ハハッと笑った。
「ああ……そうだな。久しぶりに、血が滾った」
王宮での退屈な政争や、書類仕事では味わえない高揚感。
背中を預けられる相棒(店主)との共闘。
「悪くない。……いや、最高だ」
ジークは清々しい顔をしていた。
その時。
「すげぇ……」
後ろで見ていた騎士たちが、ゾロゾロと集まってきた。
彼らの目は、恐怖ではなく、純粋な畏敬の念に変わっていた。
アラン副団長が震える声で言う。
「Sランク魔獣を……たった二人で……しかも、フライパンと薪割り斧で……」
「ありえねぇ……伝説の英雄譚かよ……」
「店主殿……いや」
一人の騎士が、膝をついた。
「姉御(あねご)……!」
「はい?」
私が聞き返すと、他の騎士たちも次々と片膝をつき、頭を垂れた。
「姉御ォォォッ!! 一生ついていきます!!」
「我らを弟子にしてください! そのフライパン捌き、神域でした!」
「定食屋騎士団の結成だ! 俺たちのボスは、世界最強の悪役令嬢だ!」
騎士たちのテンションがおかしなことになっている。
「えっと、私はただの店主で……」
「姉御! この肉はどうしますか!?」
「運搬班、前へ! 姉御の手を煩わせるな!」
「解体班、準備にかかれ! 骨一本たりとも無駄にするな!」
彼らは勝手に動き出した。
その手際の良さは、正規の騎士団活動よりも遥かに生き生きとしている。
ジークが苦笑しながら私の肩を叩いた。
「諦めろ、姉御。あいつらはもう、完全に『こちらの世界』の住人だ」
「こちらの世界って……私はただ、静かに暮らしたいだけなんですけど」
「無理だな。この騒ぎだ」
ジークが森の奥を指差す。
騒ぎを聞きつけたのか、遠くから冒険者らしき人影や、行商人の馬車がこちらを覗いているのが見えた。
「『Sランク魔獣が出たと思ったら、定食屋の女将がフライパンで瞬殺した』なんて噂、明日には王国中に広まるぞ」
「うわぁ……」
私は頭を抱えた。
「まあいいわ。宣伝費が浮いたと思いましょう」
私は気持ちを切り替えた。
目の前には、極上の食材(エンペラー・ボア)があるのだ。
「皆さん! 今夜は宴会ですよ!」
私が宣言すると、騎士たちが「うおおお!」と歓声を上げる。
「メニューは『特製ボタン鍋』です! 味噌仕立てで、たっぷりの根菜と一緒に煮込みます!」
「ボタン鍋! 最高だ!」
「酒だ! 誰か街まで酒を買いに走れ!」
「俺が行きます! 倍速で戻ってきます!」
廃屋の庭が、一瞬にしてお祭り会場へと変わった。
◇
その夜。
巨大な鍋(大釜)を囲んで、盛大な宴が開かれた。
グツグツと煮える味噌の香り。
とろけるように柔らかいボアの肉。
甘い脂身が口の中で広がり、騎士たちは涙を流して食べた。
「美味い……美味すぎる……」
「生きててよかった……」
私も、眼鏡をかけて初めての「はっきり見える食事」を楽しんでいた。
湯気の一つ一つ、具材の色艶、そして――。
「美味いか?」
隣で鍋をつつくジークの、穏やかな笑顔。
「はい、とっても」
私は答えた。
眼鏡のおかげで、彼の笑顔がさらに魅力的に見えるのが、ちょっとだけ心臓に悪いけれど。
「なあ、姉御」
アランが酔っ払って絡んできた。
「姉御は、王都には未練はないんですかい? あんな王子より、団長の方が百倍いい男でしょう?」
「ぶふっ!」
ジークが酒を吹き出した。
「アラン、貴様……!」
「事実じゃないですか! なあみんな!」
「そうだそうだ! お似合いだぞ!」
「くっつけー! 結婚しろー!」
騎士たちが囃し立てる。
私は鍋の具材(熱々の大根)をお玉ですくい上げ、ニッコリと笑った。
「アランさん、口が軽すぎると、熱いのが飛んでいきますよ?」
「ひぃぃ! すみません! 大根だけは勘弁を!」
アランが逃げ惑う。
笑い声が夜空に吸い込まれていく。
こうして、私は「悪役令嬢」から「定食屋の姉御」へと、謎のクラスチェンジを果たしたのだった。
だが、この幸せな宴の裏で。
王都では、新たな動きがあったらしい。
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(……リリアさんの手紙にあった『討伐隊』、本当に来るのかしら?)
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まあ、来たら来たで、また新しい「お客様」が増えるだけなのだけど。
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クアリフィカは荒れ狂う感情をしっかりと覆い隠し、この場で最後の公務に臨む。
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目にした惨状にバタバタと倒れるパーティー参加者達。
淑女の鑑とまで言われたクアリフィカの最期の姿は、良くも悪くも多くの者の記憶に刻まれることになる。
そうして――王太子とルシクラージュの、後悔と懺悔の日々が始まった。
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