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王都、薔薇の王宮。
かつてミールが婚約破棄を突きつけられたあの日から、数週間が経過していた。
しかし、第一王子オズワルドの執務室には、およそ王族には似つかわしくない、湿り気のある絶望が漂っていた。
「……まただ。また聞こえる。ミールの……あの女のフライパンを叩く音がッ!」
ガタガタと震えながら、オズワルドは耳を塞いでいた。
目の前には、虚無の表情で紅茶を啜る男爵令嬢リリアがいる。
「殿下。それはただの、厨房で料理人が鍋を置いた音ですわ」
「嘘だ! あの日、彼女が去り際に見せた、あの漆黒の瞳……! あれは間違いなく、私を呪い殺す儀式だったのだ!」
「……(ただのド近眼だったって、手紙に書いてあったんだけどな)」
リリアは心の声を飲み込んだ。
ミールからの返信にあった『みぞおちを一発』というアドバイスを実行したくて右手が疼くが、今はまだ耐える時だ。
そこに、一人の伝令兵が血相を変えて飛び込んできた。
「報告します! 隣町の商人バルドより、辺境の調査報告が届きました!」
「バルドか! あやつ、あの女の正体を暴いたか!?」
オズワルドが身を乗り出す。
伝令兵は、震える手で報告書を読み上げた。
「はっ……! 報告によりますと、ミール様が陣取った廃屋は、今や『血塗られた魔窟』と化しているとのこと!」
「魔窟だと!?」
「はい! そこでは、失踪したはずのジークフリート元騎士団長が、洗脳されて無給で働かされているそうです! さらに、多くの騎士たちが彼女の『魔法の肉』に依存し、軍を脱走して彼女の配下へ下っているとの情報も!」
「な、なんだと……!? ジークフリートを奴隷にし、軍を乗っ取ったというのか!」
オズワルドの顔が青を通り越して白くなる。
リリアはそっと報告書を覗き見した。
(……『洗脳』じゃなくて『餌付け』だし、『奴隷』じゃなくて『従業員』よね。脱走っていうか、みんな勝手についていっただけでしょ)
しかし、オズワルドの脳内フィルターは、全ての情報を最悪の方向に変換していた。
「恐ろしい……! 彼女は辺境で、魔王軍を組織しているのだ! そしていつか、この私を、あのフライパンで叩き潰しに来るに違いない!」
「殿下、考えすぎですわ」
「黙れリリア! これは国家の危機だ! すぐに父上――国王陛下に奏上する! ミール・ヴァン・ダレス討伐隊の結成をッ!」
オズワルドは狂ったように笑い出し、執務室を飛び出していった。
残されたリリアは、深く、長いため息をついた。
「……あーあ。本当に送っちゃうのね、討伐隊」
彼女は懐から、ミールが書いた(代筆させた)スタミナ丼のレシピを取り出した。
「ミール様、ごめんなさい。止められませんでしたわ。……あ、でもこれ、美味しそう。今夜作ってみようかしら」
◇
一方、その頃。辺境の『定食屋 悪役令嬢』。
「……はっくしゅんッ!!」
私は豪快にくしゃみをした。
「おっと、風邪か? 姉御」
ジークが心配そうに覗き込んでくる。
「いえ、誰かが私の噂でもしてるのかしら。……それよりジークさん、あそこの看板の文字、もっと赤く塗ってくれません?」
「これ以上赤くしたら、本当に血文字に見えるぞ」
「いいんです。魔物除けにもなりますから」
私は眼鏡をクイッと上げ、満足げに微笑んだ。
「さて、今日の仕込みは完璧。……あら、ジークさん、そんなところでボーッとしてどうしたんです?」
「……いや。お前、眼鏡をかけてから、なんか雰囲気変わったなと思ってな」
ジークが少し照れくさそうに視線を逸らす。
「そうですか? 視界がクリアになったので、あなたの鼻毛が出てないかまでチェックできますよ」
「出てねぇよ! ……ったく、お前って奴は」
ジークは呆れたように笑い、薪割りに戻っていった。
平和な午後。
王都で「討伐隊」という名の、新たな「カモ」が組織されていることなど、今の私は露ほども知らなかった。
「……ん? なんか、お金の匂いがするわね」
「姉御、空耳だろ」
「いいえ、商売人の勘よ。大口の団体客が来る予感がするわ!」
私は鼻を鳴らし、中華鍋をピカピカに磨き上げた。
かつてミールが婚約破棄を突きつけられたあの日から、数週間が経過していた。
しかし、第一王子オズワルドの執務室には、およそ王族には似つかわしくない、湿り気のある絶望が漂っていた。
「……まただ。また聞こえる。ミールの……あの女のフライパンを叩く音がッ!」
ガタガタと震えながら、オズワルドは耳を塞いでいた。
目の前には、虚無の表情で紅茶を啜る男爵令嬢リリアがいる。
「殿下。それはただの、厨房で料理人が鍋を置いた音ですわ」
「嘘だ! あの日、彼女が去り際に見せた、あの漆黒の瞳……! あれは間違いなく、私を呪い殺す儀式だったのだ!」
「……(ただのド近眼だったって、手紙に書いてあったんだけどな)」
リリアは心の声を飲み込んだ。
ミールからの返信にあった『みぞおちを一発』というアドバイスを実行したくて右手が疼くが、今はまだ耐える時だ。
そこに、一人の伝令兵が血相を変えて飛び込んできた。
「報告します! 隣町の商人バルドより、辺境の調査報告が届きました!」
「バルドか! あやつ、あの女の正体を暴いたか!?」
オズワルドが身を乗り出す。
伝令兵は、震える手で報告書を読み上げた。
「はっ……! 報告によりますと、ミール様が陣取った廃屋は、今や『血塗られた魔窟』と化しているとのこと!」
「魔窟だと!?」
「はい! そこでは、失踪したはずのジークフリート元騎士団長が、洗脳されて無給で働かされているそうです! さらに、多くの騎士たちが彼女の『魔法の肉』に依存し、軍を脱走して彼女の配下へ下っているとの情報も!」
「な、なんだと……!? ジークフリートを奴隷にし、軍を乗っ取ったというのか!」
オズワルドの顔が青を通り越して白くなる。
リリアはそっと報告書を覗き見した。
(……『洗脳』じゃなくて『餌付け』だし、『奴隷』じゃなくて『従業員』よね。脱走っていうか、みんな勝手についていっただけでしょ)
しかし、オズワルドの脳内フィルターは、全ての情報を最悪の方向に変換していた。
「恐ろしい……! 彼女は辺境で、魔王軍を組織しているのだ! そしていつか、この私を、あのフライパンで叩き潰しに来るに違いない!」
「殿下、考えすぎですわ」
「黙れリリア! これは国家の危機だ! すぐに父上――国王陛下に奏上する! ミール・ヴァン・ダレス討伐隊の結成をッ!」
オズワルドは狂ったように笑い出し、執務室を飛び出していった。
残されたリリアは、深く、長いため息をついた。
「……あーあ。本当に送っちゃうのね、討伐隊」
彼女は懐から、ミールが書いた(代筆させた)スタミナ丼のレシピを取り出した。
「ミール様、ごめんなさい。止められませんでしたわ。……あ、でもこれ、美味しそう。今夜作ってみようかしら」
◇
一方、その頃。辺境の『定食屋 悪役令嬢』。
「……はっくしゅんッ!!」
私は豪快にくしゃみをした。
「おっと、風邪か? 姉御」
ジークが心配そうに覗き込んでくる。
「いえ、誰かが私の噂でもしてるのかしら。……それよりジークさん、あそこの看板の文字、もっと赤く塗ってくれません?」
「これ以上赤くしたら、本当に血文字に見えるぞ」
「いいんです。魔物除けにもなりますから」
私は眼鏡をクイッと上げ、満足げに微笑んだ。
「さて、今日の仕込みは完璧。……あら、ジークさん、そんなところでボーッとしてどうしたんです?」
「……いや。お前、眼鏡をかけてから、なんか雰囲気変わったなと思ってな」
ジークが少し照れくさそうに視線を逸らす。
「そうですか? 視界がクリアになったので、あなたの鼻毛が出てないかまでチェックできますよ」
「出てねぇよ! ……ったく、お前って奴は」
ジークは呆れたように笑い、薪割りに戻っていった。
平和な午後。
王都で「討伐隊」という名の、新たな「カモ」が組織されていることなど、今の私は露ほども知らなかった。
「……ん? なんか、お金の匂いがするわね」
「姉御、空耳だろ」
「いいえ、商売人の勘よ。大口の団体客が来る予感がするわ!」
私は鼻を鳴らし、中華鍋をピカピカに磨き上げた。
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