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「……終わった。全てが終わったぞ、ミール」
朝霧が立ち込める早朝の厨房で、オズワルド王子が静かに呟いた。
彼の手には、磨き抜かれた最後の大鍋が握られている。
その表面には、朝日を反射してキラキラと輝く王子の、どこか憑き物が落ちたような清々しい顔が映っていた。
「お疲れ様です、殿下。随分と熱心でしたね。……あら、今日は一段と輝きが違いますわ」
私は新しい眼鏡のブリッジを指で押し上げ、その仕上がりを確認した。
眼鏡越しに見る鍋の表面には、指紋一つ、油膜一筋すら残っていない。
「当然だ。私は気づいたのだよ。……国を治めるのも、皿を洗うのも、本質は同じであるとな」
「はあ。……といいますと?」
「こびりついた汚れを無理に削ぎ落とそうとすれば、皿(くに)を傷つける。だが、適切な洗剤(ほうりつ)と、粘り強い摩擦(たいわ)があれば、どんな頑固な油汚れ(ふはい)も落とすことができる……」
オズワルドは、まるで悟りを開いた聖者のように遠くを見つめた。
「私は今まで、力でねじ伏せることばかり考えていた。だが、このスポンジ一つに教えられたのだ。……謙虚に、泥臭く立ち向かうことの尊さをな」
「……ジークさん、殿下がなんだかポエムを読み始めましたわよ」
私が隣でカブを剥いていたジークに耳打ちすると、彼は苦笑しながら肩をすくめた。
「いいんじゃないか。あんなにプライドの塊だった男が、自ら進んで汚れ仕事をするようになったんだ。……相当な衝撃だったんだろう。お前の料理と、そのスパルタ接客がな」
「私はただ、効率よく働いていただけなんですが」
私は首を傾げた。
そこに、旅支度を整えたリリアがやってきた。
彼女は王宮の侍女に用意させた、少し動きやすいドレスに身を包んでいる。
「ミール様。……私、殿下と共に王都へ戻りますわ」
「あら、移住するんじゃなかったんですか?」
「ええ、本当はそうしたかったですわ。でも……この『皿洗い王子』を一人で放り出すのは、国家の危機ですもの。私が隣で、しっかり監視(しつけ)をして差し上げないと」
リリアはそう言って、クスクスと笑った。
彼女の瞳には、以前のような怯えはなく、一国の王家を背負って立つ覚悟のようなものが宿っていた。
「……わかった、リリア。共に行こう。私は決めたのだ。……まずは王宮の厨房から、この国の洗浄を始めると!」
「極端ですわね、殿下。でも、お供しますわ」
二人のやり取りを見ていると、なんだかんだでお似合いのカップルに見えてくるから不思議だ。
「それではミール、世話になったな。……貴様との婚約破棄、今となっては私の人生最大の転換点であったと言わざるを得ない」
オズワルドが私の前に立ち、深々と頭を下げた。
王位継承者が、追放したはずの元婚約者に頭を下げる。
それは王国の歴史上、類を見ない光景だった。
「……あ、殿下。頭を上げる前に」
「む? なんだ、最後のお別れの言葉か?」
「いえ、請求書です」
私は懐から、これまでの宿泊費、食費、そして『皿洗い指導料』を細かく書き出した紙を突きつけた。
「金貨、合計で五十枚になります。端数はサービスしておきました」
「……貴様、最後まで金か!!」
「当然です。私は実業家ですから。……あ、それと、これ。道中で食べてください」
私は、新聞紙に包んだ揚げたての唐揚げと、おにぎりを差し出した。
オズワルドは呆れたように笑い、それを受け取った。
「……ふん。毒が入っていないか、確認しながら食べるとしよう。……さらばだ、辺境の魔女ミール!」
「ごきげんよう、皿洗い殿下!」
討伐軍という名の大移動団は、朝日を背に受けて、王都の方角へと去っていった。
馬車の中から身を乗り出して手を振るリリアと、それに応える騎士たちの姿が見えなくなるまで、私は見送った。
「……静かになりましたね」
「ああ。嵐が去ったようだな」
ジークが私の隣に立ち、大きく伸びをした。
「さて、姉御。……客がいなくなったところで、俺たちの朝飯にしないか?」
「いいですね。今日は奮発して、ボア肉のステーキを焼きましょう。……あ、ジークさん」
「なんだ?」
「殿下がいなくなったので、今日から皿洗いはジークさんの担当に戻りますよ。……溜めないでくださいね」
「……へいへい。了解したよ、店主殿」
ジークは苦笑しながら、私の肩を抱いた。
嵐の後の、静かな辺境。
私の新しい眼鏡には、これから始まる穏やかな――いや、きっとまた騒がしくなるであろう、自由な未来がはっきりと映っていた。
(……さて、まずは溜まった領収書の整理からね!)
私は眼鏡をクイッと押し上げ、満足げに微笑んだ。
朝霧が立ち込める早朝の厨房で、オズワルド王子が静かに呟いた。
彼の手には、磨き抜かれた最後の大鍋が握られている。
その表面には、朝日を反射してキラキラと輝く王子の、どこか憑き物が落ちたような清々しい顔が映っていた。
「お疲れ様です、殿下。随分と熱心でしたね。……あら、今日は一段と輝きが違いますわ」
私は新しい眼鏡のブリッジを指で押し上げ、その仕上がりを確認した。
眼鏡越しに見る鍋の表面には、指紋一つ、油膜一筋すら残っていない。
「当然だ。私は気づいたのだよ。……国を治めるのも、皿を洗うのも、本質は同じであるとな」
「はあ。……といいますと?」
「こびりついた汚れを無理に削ぎ落とそうとすれば、皿(くに)を傷つける。だが、適切な洗剤(ほうりつ)と、粘り強い摩擦(たいわ)があれば、どんな頑固な油汚れ(ふはい)も落とすことができる……」
オズワルドは、まるで悟りを開いた聖者のように遠くを見つめた。
「私は今まで、力でねじ伏せることばかり考えていた。だが、このスポンジ一つに教えられたのだ。……謙虚に、泥臭く立ち向かうことの尊さをな」
「……ジークさん、殿下がなんだかポエムを読み始めましたわよ」
私が隣でカブを剥いていたジークに耳打ちすると、彼は苦笑しながら肩をすくめた。
「いいんじゃないか。あんなにプライドの塊だった男が、自ら進んで汚れ仕事をするようになったんだ。……相当な衝撃だったんだろう。お前の料理と、そのスパルタ接客がな」
「私はただ、効率よく働いていただけなんですが」
私は首を傾げた。
そこに、旅支度を整えたリリアがやってきた。
彼女は王宮の侍女に用意させた、少し動きやすいドレスに身を包んでいる。
「ミール様。……私、殿下と共に王都へ戻りますわ」
「あら、移住するんじゃなかったんですか?」
「ええ、本当はそうしたかったですわ。でも……この『皿洗い王子』を一人で放り出すのは、国家の危機ですもの。私が隣で、しっかり監視(しつけ)をして差し上げないと」
リリアはそう言って、クスクスと笑った。
彼女の瞳には、以前のような怯えはなく、一国の王家を背負って立つ覚悟のようなものが宿っていた。
「……わかった、リリア。共に行こう。私は決めたのだ。……まずは王宮の厨房から、この国の洗浄を始めると!」
「極端ですわね、殿下。でも、お供しますわ」
二人のやり取りを見ていると、なんだかんだでお似合いのカップルに見えてくるから不思議だ。
「それではミール、世話になったな。……貴様との婚約破棄、今となっては私の人生最大の転換点であったと言わざるを得ない」
オズワルドが私の前に立ち、深々と頭を下げた。
王位継承者が、追放したはずの元婚約者に頭を下げる。
それは王国の歴史上、類を見ない光景だった。
「……あ、殿下。頭を上げる前に」
「む? なんだ、最後のお別れの言葉か?」
「いえ、請求書です」
私は懐から、これまでの宿泊費、食費、そして『皿洗い指導料』を細かく書き出した紙を突きつけた。
「金貨、合計で五十枚になります。端数はサービスしておきました」
「……貴様、最後まで金か!!」
「当然です。私は実業家ですから。……あ、それと、これ。道中で食べてください」
私は、新聞紙に包んだ揚げたての唐揚げと、おにぎりを差し出した。
オズワルドは呆れたように笑い、それを受け取った。
「……ふん。毒が入っていないか、確認しながら食べるとしよう。……さらばだ、辺境の魔女ミール!」
「ごきげんよう、皿洗い殿下!」
討伐軍という名の大移動団は、朝日を背に受けて、王都の方角へと去っていった。
馬車の中から身を乗り出して手を振るリリアと、それに応える騎士たちの姿が見えなくなるまで、私は見送った。
「……静かになりましたね」
「ああ。嵐が去ったようだな」
ジークが私の隣に立ち、大きく伸びをした。
「さて、姉御。……客がいなくなったところで、俺たちの朝飯にしないか?」
「いいですね。今日は奮発して、ボア肉のステーキを焼きましょう。……あ、ジークさん」
「なんだ?」
「殿下がいなくなったので、今日から皿洗いはジークさんの担当に戻りますよ。……溜めないでくださいね」
「……へいへい。了解したよ、店主殿」
ジークは苦笑しながら、私の肩を抱いた。
嵐の後の、静かな辺境。
私の新しい眼鏡には、これから始まる穏やかな――いや、きっとまた騒がしくなるであろう、自由な未来がはっきりと映っていた。
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私は眼鏡をクイッと押し上げ、満足げに微笑んだ。
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