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第45話 『江戸参府と洋式調練ならびに秋帆の徳丸原演習』(1841/6/19)

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 天保十二年五月一日(1841/6/19) 玖島くしま城南 久原調練場

 天保十一年度の参勤交代を終え、大村純あきは藩に戻ってきていた。今回の参府には次郎は願い出て同行はしていない。

 もともと大村藩は他藩に比べて長崎警護の任で江戸にいる期間は短いのだ。9月に大村を出発して11月に江戸に着き、翌3月に江戸を発って4月末から5月初旬に戻る。

 オランダ船が去ってから長崎を出発し、翌年のオランダ船の来航に間に合うように戻るのだ。

 前回は後ろ盾の純顕がいないとまずいとの事で、全員で同行した。しかし今回は次郎が家老になっていて、藩内での立場も高まっていたからだ。

 当然信之介や一之進、お里も同行しなかった。

 純顕は残念そうだったが、今は研究と軍事調練が重要だという事を理解しており、幕閣や四賢侯とのつながりを重視してという次郎の言葉に、納得していた。




 玖島城の南に整備された久原調練場は、東西に約1km、南北に500mの広大な敷地である。次郎は当初より軍事演習の重要性を訴えており、藩主の大村純顕のお墨付きで造営されたのだ。

 城下町や武家屋敷は玖島城の東、北東側に築かれており、南側、南東側には手つかずの原野があった。
 
 しかも久原の南側と西側は海に面しており、いずれも玖島城の南である。

 十分な広さがあり、主として海側を狙うことで大砲や鉄砲の調練を行っても、万が一の事故を防ぐ事ができる。

 昨年の四月に精錬方に任命された信之介が、昭三郎と協力して青銅砲を鋳造した。高島秋帆はすでに自力で鋳造に成功していたので、技術的には全く問題がない。

 ペリー来航時には時代遅れになりつつあった青銅砲各種であるが、この時期では日本最新鋭である。

 信之介はその他の研究があるので青銅砲の鋳造に付きっきりで開発することはできなかった。
 
 しかしそれでも現代理工学の知識を駆使したアドバイスは、大村藩単独での鋳造を容易にしたのだ。

「Mortier kanon, Voorbereiding.」
(モルチール砲、用意)※臼砲もしくは迫撃砲の意。

「Bomben, Opnamen en voorbereiding.」
りゅう弾、撃ち方用意)※ボンベン、bomb.

「Doel 900 meter. Richten.」
(目標900m先、狙え)

「Schieten.」
(撃て)

 どおおおおんという爆音が響き、八町先(約872m)の標的を狙って、3発の砲弾が発射された。わかってはいたが、次郎もその大きさに驚き、純顕は驚嘆したのだ。

 次に同じくモルチール砲の操練でブランドゴーゲルと呼ばれる焼夷弾が2発発射された。
 
 モルチール砲はいわゆる臼砲と呼ばれるものだが、形状が臼のようなのでそう名付けられている。

 次に射程の長い(それでもカノン砲より短い)ホーウィッスル砲の操練が、ガラナート(ザクロ)弾とドロイフコーゲル(ブドウ)弾にわけて行われた。

 同じ大砲でも弾種によって射程は異なる。ブドウ弾は約4~500mだ。

 最初こそ驚いて目を背けていた純顕であったが、目をキラキラさせて観閲している。

「次郎よ、さすがである。これだけの装備。わが日本がどれだけ後れをとっていたことか……。この大砲を数多く作り、船を走らせれば、異国に勝てずとも、蹂躙じゅうりんされることはなかろう?」

 純顕の言葉に、次郎は残酷な現実を告げる。

「殿、残念ながら大砲を始め銃や製鉄、造船などの技術は日進月歩にございます。そればかりか、我らが知らないだけで既にエゲレスやメリケンでは、より遠くより速く弾を撃つ砲ができているやもしれませぬ」

「そう、なのか?」

 後装式の大砲であるアームストロング砲は13年後の1854年にイギリスで開発されるのだが、それでも欧米の大砲は青銅(真ちゅう)から鋳鉄製への移行中である。

 ペリーの来航までに鋳鉄製の大砲をつくり、蒸気機関を完成させ、蒸気船を横付けしないといけないのだ。その行為には歴史を大改変する意味がある。

「戦国の世を思い描いてみれば、種子島にポルトガル人が漂着してから数年の後に、日本でも数多の鉄砲が作られるようになったのです。世界は戦にあふれております。エゲレスやメリケンで新たな武器や技術が現れても不思議ではありませぬ」

「左様か。如何いかに、すべきか……」

「殿、僭越せんえつながら申し上げまする。我らは天下に先んじて憂い、天下に遅れて楽しむの志で生きねばならぬと存じます。また、とにかく学び、実践し、そこからまた学ぶ。これを繰り返すことが肝要かと」

「左様か。常に学び常に実践し、天下国家を憂いては、天下が安寧となった後にようやく楽しむという訳だな」

「左様にございます」




 大砲の調練の後は、製造が終わり試射もおわったゲベール銃の調練が行われた。

 200名の銃を携えた歩兵の調練は圧巻であった。
 
 兵の装束は全身黒ずくめで陣笠もかぶらず、頭には黒の軍帽という出で立ちで、閲兵に来ていた人達を驚かせたのだ。

「なんじゃあの、奇妙奇天烈な風体は。さすが下賎げせんの……いや、されどこの調練は、さすが、であるな」

 (反)次郎派であった一門で家老の大村五郎兵衛も、このころになると次郎の実績を認めざるを得なくなっていたが、周囲の大村彦次郎や北条・稲田の家老は(親)次郎派で、満足している様子であった。

 実は日本でも、密かな技術革新が行われていた。史実で、である。

 2年前の天保十年(1839)には高松藩の藩士である久米通賢が独自の硝石製造装置を開発し、それを用いて雷管製造(生火銃)を行っているのだ。

 つまり、この時点で、信之介は抜かれている。

 というより数少ないオランダの書物から雷汞らいこうをつくり、パーカッションロック式の銃を製造するなんて、さすが技術の国の日本である。これは昔からの伝統だったのだ。

 さらに6年後の1848~54年には、松代藩士である片井京介が、ペリー来航の際に日本にもたらされたホール式元込め銃からヒントを得た迅発撃銃などを製作する。




 西洋式軍備の教授に任命され、諸組与力という正式な幕臣としての身分に引き立てられた高島秋帆の徳丸原演習が行われるのは九日後の事であった。

「申し上げます! 精錬方、山中信之介様、火急の用件ありと御家老様(次郎)に謁見をお求めにございます」

「なに?」




 次回 第46話 『雷汞らいこうの生産成功と銃の進化』
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