島田宿事件帖

ココナッツ

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 河廣は宿場を越え、東海道を西へと追いかけた。  夕日が落ち始め、まぶしい。
 川原へと出ると、旅人相手の握り飯屋の婆さんが暇そうに空を見上げている。河廣は走り寄って息を切らしたまま訊ねた。
「川を自力で渡ろうとしている旅人を見なかったか」
「川を? そんな酔狂な人がいるんですか」
 婆さんは富士の山を指差した。河廣はいわんとしていることを合点する。
 雲行きが怪しいのだ。雨が近いのかもしれない。この地の年寄りは巫女などよりよっぽど気候が変わるのが分かる。婆さんはあまりよく見えない目で天気を予言した。
「雨が降りそうか……」
 河廣は川上を見、そして川下を振り返る。
 一見、分からないが、水かさは確実に増えているだろう。河廣は舌打ちした。既に川を渡った後ならば、追いかけるのは危険だ。焦り、息が上がり、どちらへ行ったものかと考える。
「川下ではありませんか」
 婆さんがまっとうなことを言う。上流は流れが速く深い。大して川下は浅く緩やかだ。当然、そちらを選ぶだろう。急ぐばかりで頭が回っていないことを河廣は気づいて息を整えた。
「ありがとう。また来るよ」
「次は塩屋のお嬢さんとおいでなさい。よく食うでな」
 河廣は笑って手を振った。
 川原の小道を走っていくと、秋虫たちが煩く鳴いている。河廣がさっと通り過ぎても鳴くのをやめないほどだ。河廣はそんな虫どもにお構いなしに雑草を踏みつけて進んだ。
「本陣の若旦那さんだ」
 ちょうど川原にある川越人足たちの番宿を通った時だ。褌姿でたむろしていた誰かが言った。
「いや、ありゃ、お嬢さんの若旦那さんさ」
 どっと笑い声が上がったが、河廣が三人に苦笑を向けると、皆が気まずそうにする。河廣は立ち止まる気にもなれず、そのまま通り去る。
 すると笑った男たちの真剣な声が追いかけて来た。
「ずいぶん急いでいらっしゃることだぁ」
「おい、岩次の奴ことじゃねぇか」
「そ、それだ! そいつに違いねぇ!」
 川越人足たちはぞろぞろと河廣について来た。とはいえ、足の速い河廣には追いつくことはない。河廣はあっという間に引き離した。
 そして、河廣が川原の小道を走っていると、そのずっと向こうに人影を見つけた。
「いた!」
 振り分け荷物を担ぐ町人だ。仲間なのだろうか、もう二人がいて、三人はなにかを話していた。
「あれは――」
 年配の男は、確か、握り飯屋でとなりに座った品の良さそうな商人だった。
 見かけからはとてもそんな悪事を働くようには見えなかった。が――言われてみれば、伊助が語った人相――丸顔で福耳、目尻が垂れている、によく似ている。
「どうして聞いた時に気づかなかったんだろう!」
 河廣は後悔したが遅い。三人はなにやら対岸を指差し、段取りを決めたように頷き合うと、草鞋を脱ぎ始める。
 ――早く止めなければ!
 河廣は小道から石がごろごろしている川原に飛び降りた。裾をまくり上げて橋って行けば、相手も気づいてこちらを見る。三人は仲間のようだ。河廣が見た時、年長の商人風の男は一人だったから、もしかしたら仲間の到着をここで待っていたのかもしれない。
「なんでぇ、おめえは」
 こちらを見た一人、一番若い男の頬にはくっきりと切られた傷があった。人相は悪く、口が曲がって、細い目には敵意があった。
「私は村松河廣。この島田宿の本陣亭主の孫だ」
「だから、なんでぇ」
 伊助など、この男の前では小物に過ぎないと感じた。この男の顔には人を殺したことがあると書いてあった。それも、一人や二人ではない。河廣はごくりと唾を飲む。
「岩次を殺すように伊助を金で雇っただろう」
 それでも河廣は恐れを隠して言った。
「岩次? 伊助? そんな奴は知らねぇ」
 相手にするなと、もう一人、太った中年の男が肩を叩く。肝心の福耳の男はほんのりと笑みを浮かべてこちらを見ていた。
 河廣はぞっとした。一見、優しげに見えるが、それは殺意を秘めているだけに過ぎないことに気づいたのだ。この中で、一番危険なのは、今にも匕首を抜きそうな若い男ではない。侍に扮していたこの福耳の老人なのだ。
 さっと汗が河廣の背を流れる。
「岩次を殺すように命じたな」
 河廣はまっすぐに目を離さずにらみ付けた。
「日が暮れる。面倒だ。勘二、やっちまえ」
「へぇ、親分」
 若い男が匕首を抜いた。素早く腰の位置から匕首で河廣の腹を狙う。刺し殺すことに躊躇しない慣れた手つきだ。
 河廣はさっと後ろに下がる。
「やるか!」
「かかってこい!」
 河廣は腰を落として匕首が振りかざされるのを待つ。
 同時に勘二と呼ばれた若い男が懐に入ってくる。河廣は慌ててさらに後ろに退き、右に左にとよけ、手首を掴んで押しやると、ようやく呼吸するのを思い出した。
「ふん」
 勘二と呼ばれた男は鼻でそんな河廣を笑った。こちらは真剣だが、あちらはまだ余裕があるらしい。
「や!」
 河廣は自ら一歩踏み込んだ。河廣は、勘二の頭上で肘をとらえ、匕首を止めるも、敵もさるもの、右に避けて、今度はこちらの脇腹を狙ってくる。
 河廣はぎりぎりでそれを弾き飛ばした。
「ぐっ」
 道場に通っているが、使うのは木刀や竹刀だ。素手で匕首を相手にするのは慣れていない。勘二が匕首を振り回す、その時だ。
「河廣!」
 お和歌が先ほどの川越人足たちを引き連れて、裾を気にしながら走ってくる。荒くれものと知られ、相撲の関取と同じほどの羨望と貫禄を持つ人足が三人だ。体つきはよく、石だらけの川原にも慣れている。
「若旦那さん!」
「年寄りの方が岩次の殺しを依頼した奴だ!」
 岩次を殺しを依頼した男は、頭と呼ばれていた。商人の一行とはとても見えないから、おそらく盗賊の類いだろう。人相がそれを物語っている。そんな者たちから危害を加えられたら大変だ。
「お和歌!」
 来るなと、河廣が言おうとした時、彼女の足が止まる。
「若旦那さん!」
 彼女の代わりに人足の一人がお和歌から刀を受け取り河廣に向かって投げた。
「よしっ!」
 河廣は左手で受け取るとすぐに鞘を抜く。
 勘二の舌打ちが聞こえた。
 川から爽やか風が吹いた。
 流れゆく風だ。
 河廣はさっと袈裟懸けに刀を下した。
「うわ!」
 勘二の衣を破り、薄皮を少しだけ斬った。それなのに、勘二は腰を抜かして尻餅をついた。河廣はすぐに首筋に刀の刃を当てた。
「観念することだな」
 ところが――。
 仲間のはずのふたりの男たちは勘二を置いて走って川を渡ろうとしていた。
 河廣は勘二に当て身を食らわせてから追いかけた。 
「待て!」
 川越人足たちも続く。川の中で土地の者に勝てなどしない。後ろから中年の方の首根っこを二人がかりで掴んだと思うと、一気に後ろへと叩き付ける。白い水しぶきが上がり、川に波ができた。
「捕まえやしたよ! 若旦那さん!」
 一人を捕まえ、川越人足の焼けた肌に白い歯が輝いた。
 例の親分のみが逃げ、川をどんどんと渡ろうとした。河廣は刀を石の上に置くと長羽織を脱ぎ捨てて追いかけた。
「待て!」
 これでも生まれも育ちもこの大井川で、名前も「河廣」。子供のころからここで遊び、暮らして来た。浅瀬など恐れるに及ばない。
「くっ」
 親分と呼ばれた男は、初めは走り、やがて足を川藻に取られて転んだ。それでも這うように前に進もうとしたが、河廣の手が背を捕らえた。
「逃がすものか!」
 河廣は背をぐっと押し、足で押す。顔に水が被り、男は両手をばたつかせて助けを求める。河廣はすかさず頭を押して更に水に沈めた。
「助けてくれぇ」
 必死に叫んだ男をようやく河廣は自由にした。既にぐったりとして顔を起こす以外はなにも出来そうもない。川越人足二人がかりで起こして岸に上げる。ようよう息を切らせた河廣も川のたもとに戻り、背を丸めて座り込んだ。
 そこへようやく、代官所の中津が配下を十人ばかり連れて走ってくる。
「こりゃ、ずいぶんお早いご到着で」
 人足の一人が嫌みを代官の中津に言った。苦々しい顔で中津は睨んだが、言い返す言葉はない。無視をして下手人三人を「捕らえろ!」と言ってお縄にした。
「ご苦労でしたなぁ、村松殿」
 鈴木が苦笑しながら首の後ろを掻いた。
「お勝さんのためです。なんてことはありません」
 下手人三人を捕らえた中津はさっさとこの場を去ろうとしたが、石の上に放置された刀を苦々しく見ると、河廣を振り返った。
「町人の分際で刀を振り回すなどけしからん」
「…………」
 突然の言葉に河廣は驚いた。と、同時に悲しみが広がった。中津は河廣が侍の子だと知っているはずだ。それなのに、けしからんなどと否定した。
「刀の扱いも知らぬ馬鹿者め」
 中津はそれだけ言うと去って行った。
「嫌な感じね」
 お和歌がふんと鼻を鳴らす。
 河廣はまだ衝撃から立ち直れていなかったが、気にしていないように装うとした。
「刀を放置したのが悪いんだ」
「だからって、馬鹿者めって。自分の無能を横においてよく言うわ。刀を鞘から抜きもしなかったくせに!」
 お和歌は憤慨し、河廣は苦笑する。
 日はちょうど落ち、金星が燦めく。河廣はようやくほっと息をついた。暗闇に飲まれた大井川の対岸はもう見えないけれど、その濁流が流れだけは、唸るような音を立てて昼以上に聞こえて来た。お和歌は上から下まで河廣の姿を見る。髷は曲がり、着物の半分は濡れている。胸ははだけ、帯がまだあるのが不思議なくらいだ。
「またわたしが縫ってあげた着物をだめにしたわね」
「乾かせば、また着れるさ」
「面倒だけどやってあげる。直さないといけないところもあるみたい」
「ありがとう、お和歌」
 河廣は襟を直しつつ、微笑んだ。先ほどの荒い闘争心はもうどこにもない。穏やかな河廣そのものに戻った。
「腹が減った」
「夕餉にしましょう」

 後日――。
「へぇ! 中津さまが報奨金をすべて自分の懐に⁉」
 驚きの声を上げたのは、熊造だ。河廣は苦笑した。
「仕方ない。中津さまも苦労されている様子だ」
「呆れてものが言えないとはこのことですよ」
 地方代官の内情など商人や豪農と比べるとずいぶん苦しい。中津もご多分に漏れず、少ない禄に四苦八苦しているらしい。立派なのは態度だけで、衣などは古いものを着ていた。
「人がよすぎますよ、若旦那さん」
「そうよ、そうよ。いい着物が一枚買えたほどだったらしいのに」
 熊造とお和歌は不満顔だ。もちろん、川原で手助けをしてくれた人足たちも面白くないだろう。河廣は代わりに礼をしてやらなければならないなと思ったが、話題を変えた。
「聞いたところでは、江戸を騒がせた盗賊の頭とその一味だったというではないか」
「それがね――」
 代官所の女中から聞いた話だと噂好きのお和歌が前置きして言う。
「江戸で火付けをして千両も盗んだらしいの。でも手配が厳しくなって上方に逃げることにしたんですって」
「へぇ」
 河廣は手を袖に入れて相づちを打った。
「一味、全員で旅をするわけにいかないでしょう? 二手に分かれて、親分の方――神田の鬼作っていうらしいのだけど、手形を偽造して侍の恰好で旅をしていたらしいの」
 御用で上方に行く侍となれば、箱根の関所でも調べも少ない。それを狙ってのことだ。
「それがこの大井川で手下と合流し、川越前に捕まったというわけか」
「ええ、岩次さんを殺させたのも、侍に扮していたことを知られないための口封じだったのよ」
 鬼作は、ここで他の二人と落ち合うつもりだったから、朝のうちに川を渡らなかった。岩次の遺体があんなに早く見つかってしまったのも誤算だったはずだ。一日か二日、見つからなければ、川を渡れば逃げるのはたやすかった。
「江戸に連れて行かれて、打ち首獄門らしいわ」
「お天道さまに顔向けできないことをしたんだ。そうなってもしかたないな」
 河廣はお和歌の家の軒から空を見上げた。
 いい陽気だ。河廣はお和歌が入れるよい茶を飲んでゆっくり息を吐く。金などどうでもよかった。お勝が、
「ありがとうございます、若旦那さん。これで岩次も少しは浮かばれます」
と言ってくれただけで報われる。
 岩次もただの遊び人で博打のもめ事で殺されたのではなく、まっとうな人間として生きて死んだと知れたなら本望だろう。宿場をあげて葬式を執り行った。
「しかし、世の中、不思議ですね。侍の恰好さえしていれば、あの箱根の関所さえも素通りでき、この大井川ですらなにも疑われない」
「手形も偽造していたというから、素通りとは言えないが……そうだなぁ」
 お和歌が下手くそな手つきで河廣の衣を繕いながら、口を挟んだ。
「所詮、侍と町人の差なんて見てくれだけよ」
 河廣は頷くことはできなかった。が、侍とはなんであろうかと思った。身なりを変えただけで侍になれるなら簡単だ。聞いた所では御家人株などを買えば、町人でも侍になれるらしいが、河廣のように侍の血を持ちながら、町人として生きている者もいる。
「さて、祭りの準備の様子でも見に行こうか」
 大井明神の祭りの準備に熱心な笛や太鼓の音が響く島田宿。河廣は遠くに見える洋洋たる大井川を前に、お和歌に微笑んだ。
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