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 母たちが去った寝室。
 アンリはその場で立ち尽くし、拳を握りしめていた。
 それは他でもない、自分への怒り。
 クラリスを連れ去るとき、シャリエ伯爵に斬られる覚悟はしていた。だが己の母に頬を叩かれ、その覚悟すら愚かだったのだと突きつけられてしまったのだ。


 ──今、彼女にどんな顔をしたらいいのかすらわからないなんてな……。


 ほんの少し前に、クラリスと想いが通じ合ったのだと感じた幸せが、彼にはまやかしだったように思えてくる。


 ──結局、私は自信がないんだ。クラリスに愛される自信が……。


 そう思って唇を噛んだ彼の背中に、愛しい人の声が届いた。


「アンリ様。本当は私からお側に行きたいんですけど、身体が動かなくて……。あの、こちらに来ていただけませんか?」


 驚いて振り返れば、クラリスは両腕を彼へと伸ばし、母たちが訪れる前と少しも変わらない透き通る瞳で彼を見つめている。


「アンリ様、来て?」
「クラリス……。」


 吸い寄せられるようにアンリがベッドの縁に腰掛けると、彼女は叩かれた彼の頬に戸惑いながら触れたあと、頭を抱き寄せ黒髪に手ぐしを通しながら、そっとそこにキスを落とした。


「クラリス?」
「アンリ様。これから私がお話しすることを、最後まで聞いていただけますか?……きっと、ものすごく呆れられてしまうと思うんですけど……ありのまま全部お話ししますね?」
「……わかった。」


 クラリスの腕から離れきちんと向かい合った彼が、彼女の手を優しく包み頷く。
 彼女はふーっと大きく息を吐き、丁寧に話し始めた。


「私、自信がなかったんです。」
「…………。」
「小さい頃は、ただただ純粋に、アンリ様のお嫁さんになれることが嬉しかった……。だけど、私はいつまで経っても平凡で、髪も瞳も色の薄い落ちこぼれで……。アンリ様はなんでも出来る、まさにエリートだから、私じゃアンリ様には相応しくないんじゃないかって……。」
「そんなことっ……。」


 口を挟もうとしたアンリの唇に人差し指を当て、ニッコリ笑うと彼女は話を続ける。

 デビューの日のこと。その後の社交のこと。周りの視線や声に落ち込んでいったこと。
 そして、アンリとゆっくり会えず、寂しくて、自分は望まれていないと思い込んでしまったこと……。


「今思えば、アンリ様はいっぱいお手紙を下さって想いを伝えて下さったのに、私が素直じゃなかったから……それを全部、義務感だと決めつけてたんです。」
「……そう、か……。」
「結婚が延期になった時思ったんです。アンリ様を私から解放してあげられるのは今が最後のチャンスなんじゃないかって……。だから……。」
「だから、魔力熱のふりをして、私から婚約破棄させようとした……。」
「はい。」
「私のためにと、あんなことをしたわけか……。」
「……本当、どうしようもないですね?私……。」


 そう言って苦く笑ったクラリスは、思いきり腕を引き寄せられ、気づけば息が出来ないほどにアンリの胸に顔を埋め、彼に抱きすくめられていた。


「どうしようもないのは、私の方だ……。」
「ア、アンリ様っ、苦しっ。」
「さっき小母上が君に言っていた言葉が、今、身に沁みるよ……。私は本当に、独り善がりだったんだな……。」


 そこまで話し、やっと腕を緩めてくれたアンリをクラリスが見上げると、彼は憑き物が落ちたようにすっきりとした表情だった。


「私も全部話すよ。情けない自分のことを。聞いてくれるかい?」
「……はい。」


 そこからクラリスは、驚きのあまり目を丸くしてばかりだった。
 完璧な紳士であるアンリが、自分に選ばれるために努力を続けてきたなどと、どうしたら想像出来ただろう?
 そして彼女が一番驚いたのは、彼がメガネをかけ始めた理由──。


「えぇっ!?あのメガネ、魔導具だったんですか!?」
「はぁぁ。そうか、クラリスにはそこからだったのか……。」
「ご、ごめんなさいっ。」
「いや、君を社交界から遠ざけた、私の自業自得だろうな……。」
「ん?」
「ははっ、その辺はまたゆっくり説明するよ。………クラリス。今、改めて、きちんと私の気持ちを伝えてもいいかい?」


 指の背で甘く頬を撫でられて、愛らしくそこを染めたクラリスが小さく頷く。


「ありがとう。………愛してる、クラリス。この十八年、私は君のために生きてきた。でもこれからは、君と一緒に生きていきたい。二人で人生を築いていきたい……。」


 アンリが彼女の左手を取り、薬指に口づける。


「クラリス・シャリエ伯爵令嬢。私と、結婚していただけますか?」
「……はい……はいっ!私も愛しています。今までも……これからも、ずっとアンリ様だけ!」


 再び訪れた茜の空。
 二人の甘い口づけは、長い長い影となり、ゆっくりと溶けていった……。





 ◇◇◇





 それからタイミングを見計らったように、ブリスが連れてきたシャリエ家の侍女に支度を整えられたクラリスは、アンリに横抱きにされて母たちが待つ本館のサロンに向かった。


 ──こ、腰が立たないとか……恥ずかしい……。


 今度はしっかりと周りを見ることが出来た彼女は、庭に植えられた花も、調度品や壁紙の色に至るまで自分の好きなもので整えられた館に、耳まで赤くなっていく。


「気に入った?」
「気に入り過ぎて、恥ずかしいです……。」
「そう。可愛いな、クラリスは。」
「っ、そういうこと、言わないで……。」
「ほら、可愛い。」
「もうっ、アンリ様っ。」


 そしてブリスは甘い二人に軽く咳払いをすると、サロンのドアをノックした。


「どうぞ。」


 シュザンヌの声に二人が中へ入ると、母たちだけでなく、ヴィクトルの姿もありクラリスが息を呑む。


「妹を預かる。」


 クラリスが聞いたことのない地を這うような兄の声に、彼女は不安が募りアンリの胸元にしがみついた。


「大丈夫だよ、クラリス。ほら、兄上のところへ。」
「アンリ様……。」
「クラリス、おいで。」
「……はい……お兄様……。」


 アンリから妹を受け取ったヴィクトルは、彼を眼光鋭く睨みつける。


「今、妹を抱いて手が塞がってることに感謝しろよ、アンリ。父を連れてこなかったことにもだ。」
「…………。」


 彼が改めてアリッサとヴィクトルに深く頭を下げると、クラリスもシュザンヌを真っ直ぐに見つめた。


「小母様、どうかお叱りは私にっ。全て私の浅慮が招いたことです。どんな罰でもお受けします。アンリ様を責めないで下さい。」
「そうね。クラリスからの謝罪は受け取るわ。罰は貴女の身体がしっかりとしてから考えましょう。」
「はい。」
「アンリ。」
「はい、母上。」
「彼女との婚約はどうしますか?」
「婚約は継続します。私はクラリス以外を妻に迎えるつもりはありません。」


 張り詰めた空気の中、アリッサが口を開く。


「クラリス。貴女はどうなの?アンリ殿との婚約は貴女の意思?」
「はい、お母様。私はアンリ様をお慕いしています。結婚するならアンリ様以外考えられません。」
「そう。」
「それじゃ、これはもう必要ないわね?」
「母上っ、それは!?」
「お母様!?」


 シュザンヌとアリッサが手にしていたのは、それぞれ両家に保管されていた魔法誓約書。
 彼女たちはそれを真っ二つに破いてしまったのだ。


「母上、一体何を!?」
「この魔法誓約書は、もう効力を失っているの。」
「は?」
「お母様、どういうことっ?」


 ここまで来て、やっと穏やかな表情に戻った母たちは、顔を見合わせると朗らかに笑い出す。


「はぁ、ほんっとうに焦れったかったわね、貴方たち。」
「やっとちゃんとくっついたわ。」
「お、お母様?」
「クラリスちゃん。実はね、この誓約書はお義父様たちが二人共亡くなった時点で、効力を失くすみたいなの。」
「へ?」


 あまりの衝撃に気の抜けた声が出てしまったクラリス。
 アンリは力が抜けフラフラとソファーに座り込み、妹を抱くヴィクトルまでもが目を見開いた。
 クラリスの祖父は、騎士としての任務中に受けた傷が原因で、若くして亡くなっているのだ。


「お祖父様は、そんなこと一言も……。」
「そうね。多分、お義父様自身も知らなかったんじゃないかしら。私たちもお義父様の葬儀の後に確認して、初めて知ったのよ。」


 シュザンヌに明るく言われ、アンリの身体は深くソファーに沈んでいく。



「さて、私たちはそろそろ失礼するわ。早く戻らないと、あの人が乗り込んで来そうだもの。」
「お母様、ごめんなさい。」
「アンリ殿。」
「はい、小母上。」


 アリッサに名前を呼ばれ、アンリは立ち上がって姿勢を正した。


「クラリスはしばらく謹慎させます。貴方にも会わせません。そのつもりで。」
「………わかりました。」
「それと、我が家はお腹の大きい花嫁を出すわけにはいきません。肝に銘じておいて下さい。」
「っ、はい……。」
「それでは失礼致します、侯爵夫人。」
「ええ。」


 毅然とサロンを後にするアリッサは、去り際にアンリに短く耳打ちをしてから出ていった。
 それを聞いた彼は「参った」とでも言いたげに、小さくかぶりを振る。


 ──何からなにまで、敵わないな。母上にも、小母上にも……。



『我慢のし過ぎはよくないわ。もっとやりなさいね。』




 クラリスの謹慎は一ヶ月──。

 アンリはその間、シャリエ伯爵の鬼のようなしごきを受けることで、なんとか許しを得ることが出来た。

 一方のクラリスは、シュザンヌから罰として、侯爵家のお茶会や夜会に出席し、社交を覚えるように言われた。
 そのため彼女は、謹慎中、貴族年鑑を記憶したり、作法を勉強し直したりと忙しく、一ヶ月はあっという間に過ぎていったのだった……。










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