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忠休は羽目之間から芙蓉之間にて指導する奏者番の意知を覗き見ていたのを意知にバレてしまい、羞恥の余り、思わず俯く。

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 まったくもって忌々いまいましい…、こともあろうに、上首じょうしゅともあろう者までが意知おきとものような、どこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊とうぞく同然どうぜん下賤げせんなるがり者めを…、その子倅こせがれたよりにするとは…、忠休ただよし羽目之間はめのまから芙蓉之間ふようのまにてひろげられている意知おきとも指導しどうを見ながら…、そして意知おきとも指導しどうを実にたのもしげな様子ようすながめている寺社奉行上首じょうしゅたる阿部あべ正倫まさとものその姿をたりにして、そう思わずにはいられなかった。

 たよりは井上いのうえ河内かわちだけか…、忠休ただよしはそのようにも思った。

 寺社奉行の中でもはっきりと、「反・田沼」の旗幟きし鮮明せんめいにしているのは井上いのうえ河内かわちこと、河内守かわちのかみ正定まささだただ一人と言っても過言かごんではなく、そのような正定まささだ存在そんざい忠休ただよしにはまことにもって心強いものがあった。

 実際、今も正定まささだ忠休ただよし同様どうよう意知おきとも指導しどうを実に忌々いまいましげな様子ようすながめており、そのさま忠休ただよしにはわば、

一服いっぷく清涼せいりょうざい…」

 その役目やくめたしていた。

 しむらくはその正定まささだが他の寺社奉行からは相手あいてにされていなかったということだ。

 いや、寺社奉行のみならず、ヒラの奏者番そうじゃばんでさえ、その筆頭ひっとうたる寺社奉行に当たる正定まささだをまともに相手あいてにする者は誰一人いないという有様ありさま、いや、惨状さんじょうであった。

 意知おきともきらう者は多いであろう。相役あいやく…、同僚どうりょう奏者番そうじゃばんの中にも、あるいは意知おきともの上司に当たる、その筆頭ひっとうたる寺社奉行の中にも…。

 いや、正確せいかくには嫌うと言うよりは軽蔑けいべつすると言うべきであろうか。その家柄いえがら門地もんちひくさを軽蔑けいべつする者は多いであろう。

 意知おきともたのもしく思っている様子ようす正倫まさともにしても内心ないしんでは、それも深層しんそう心理しんりにおいては意知おきとも軽蔑けいべつしてもいるに違いない。

 だが、かなしいかな正定まささだきらわれぶりたるや、それ以上であった。

 ことに、安藤あんどう對馬守つしまのかみ信明のぶあきら正定まささだへの嫌悪けんお感ぶりたるや、まさに、

ぐんく…」

 であり、また心底しんそこ軽蔑けいべつもしていた。

 それは信明のぶあきら正定まささだと同じく、天明元(1781)年閏5月11日に寺社奉行ににんじられたことに起因きいんする。

 すなわち、正定まささだ信明のぶあきらとは「同期どうきの桜」というわけで、ちょうど牧野まきの惟成これしげ阿部あべ正倫まさともがそうであったように、たがいにたすけ合わなければならぬところ、正定まささだ信明のぶあきらの場合はそれとは正反対にたがいに反目はんもくし合った。

 いや、信明のぶあきらとしては正定まささだと共に寺社奉行ににんじられるや、そのつもりでいたのだが、それを正定まささだね付けたのであった。

 今日よりは寺社奉行として共に手をたずさえてにんに当たりましょうぞ…、信明のぶあきらの方から態々わざわざ正定まささだへと、それも11も年下の正定まささだへとそう声をかけたのであった。

 年こそ確かに信明のぶあきらの方が正定まささだよりも11も上ではあるものの、寺社奉行の任官にんかん同時どうじなら、その前に奏者番そうじゃばんに取り立てられたのも安永3(1774)年の12月22日と同じく、それゆえ信明のぶあきらはそのような親しさから正定まささだに声をかけたのであった。

 これで常識ある人間ならば、年上からそのように声をかけられたとあっては恐縮きょうしゅくし、そしてその気遣きづかい、心遣こころづかいに感謝かんしゃしつつ、はい、と素直すなおに答えるべき場面ばめんであっただろう。

 だが生憎あいにく正定まささだは常識とは無縁むえんの男であり、そのように態々わざわざ、声をかけてきてくれた信明のぶあきらに対して、フンと鼻を鳴らしたかと思うと、

「何ゆえにうぬのような者と手をたずさえねばならぬのだ」

 そう言いかえしたのであった。これにはさしもの信明のぶあきらも我が耳を疑ったほどであり、そして心底しんそこ唖然あぜんとさせられたものである。

 それもこれも岳父がくふ土岐とき定経さだつねが次期京都きょうと所司代しょしだい、次期老中とも言うべき大坂おおざか城代じょうだいへと進んだことによる。

 岳父がくふが次期京都きょうと所司代しょしだい、次期老中というその権門けんもん正定まささだをして、ここまで強気つよきにさせていたわけであるが、爾来じらい信明のぶあきらは誰よりもこの正定まささだ嫌悪けんおし、そしてやがてそれに軽蔑けいべつくわわった。

 すなわち、その「どころ」たる岳父がくふ土岐とき定経さだつねに死なれてからというもの、「どころ」もとい権門けんもんうしなった正定まささだがすっかり大人おとなしくなったことであり、

正定まささだ強気つよき所詮しょせん権門けんもんだのみであったか…」

 信明のぶあきらはそのように正定まささだ軽蔑けいべつしたもので、そしてその軽蔑けいべつたるや、信明のぶあきら一人のものではなく、正定まささだのぞく、つ、意知おきともふくめたすべての奏者番そうじゃばんに共通するものでもあった。

 さらくわえるなら、その正定まささだけられる軽蔑けいべつたるや、意知おきともに向けられる…、意知おきとものその家柄いえがら門地もんちひくさといったものに向けられるそれよりも大きいものであった。

 そのことが忠休ただよしには実に歯痒はがゆかった。

井上いのうえ河内かわちにいま少し、人望じんぼうがあれば…」

 忠休ただよし意知おきとも指導しどうを己と同じく実に忌々いまいましげな様子ようすながめる正定まささだを見ながらそう思わずにはいられなかったが、しかし、正定まささだにそのような「人望じんぼう」を求めるなど、八百屋やおやで魚をくれと言うに等しいことであった。

 さて、土屋つちや健次郎けんじろう土井どい鐵蔵てつぞう指導しどうする意知おきともにやはり寺社奉行の、それも一番若手わかて堀田ほった相模守さがみのかみ正順まさなりまでがやはりそんな意知おきともを実にたのもしそうな様子ようすながめつつ、あまつさえ、笑顔えがお意知おきともに声をかける様子ようすまでが忠休ただよしの目にんできたものだから、忠休ただよしはいよいよもって歯噛はがみしたものである。

 堀田ほった正順まさなりは今年、天明3(1783)年7月28日に寺社奉行ににんじられたばかりのわば、

「ルーキー」

 であった。これはそれより5日前の7月23日に寺社奉行の上首じょうしゅであった牧野まきの惟成これしげ病没びょうぼつしたためであり、惟成これしげ病没びょうぼつにより阿部あべ正倫まさとも上首じょうしゅの「おはち」が回ってきたと同時に、至急しきゅう、寺社奉行を補充ほじゅうする必要にせまられ、そこで奏者番そうじゃばんであった堀田ほった正順まさなりが寺社奉行ににんじられたというわけで、それが7月28日のことであった。

 それまで…、惟成これしげの前の寺社奉行の上首じょうしゅであった戸田とだ忠寛ただとお土岐とき定経さだつね後任こうにんとして大坂おおざか城代じょうだいへと昇進しょうしん転出てんしゅつしたことで、寺社奉行は5人から4人に減り、しかし、この時は寺社奉行の補充ほじゅうは行われなかった。寺社奉行の定員ていいん大抵たいてい、5人というのが仕来しきたりであったが、しかしあくまで仕来しきたりに過ぎず、厳格げんかくな規則というわけでもなかったので、4人でも特に問題はなかった。

 だがそこに加えて、牧野まきの惟成これしげまでが病没びょうぼつしたことにより寺社奉行が3人に減ってしまったとあっては、

如何いかにも手薄てうす…」

 というわけで、それゆえ至急しきゅう、寺社奉行をあらたに一人、補充ほじゅうする必要にせまられ、奏者番そうじゃばん堀田ほった正順まさなりが選ばれたというわけだ。

 その正順まさなりにしてもやはり正倫まさとも同様どうよう意知おきともを、

「実にたよりになる弟…」

 そのように見ていた。正順まさなり正倫まさともよりも1つ上の39ということで、35の意知おきともとはやはり、兄弟のようであった。

 いや、正順まさなり正倫まさとも、そして意知おきともの3人をしょうして、

「三兄弟…」

 そんな呼び声もあるほどであった。寺社奉行の中でもとりわけ上首じょうしゅたる正倫まさともと「ルーキー」の正順まさなり意知おきともたよりにしていることに由来ゆらいする。

 忠休ただよしもそのことなら耳にしており、それがまた忠休ただよし意知おきともに対する、

忌々いまいましさ…」

 その感情に拍車はくしゃをかけていた。

 やがて意知おきともは己に向けられる視線…、忠休ただよしのそのすような視線に気づいたのか、不意ふいに視線の元へと、すなわち、忠休ただよしへと顔を向けたのであった。

 これには忠休ただよし心底しんそこおどろいた。と同時に、意知おきともと目が合ってしまった忠休ただよしは思わずうつむいてしまった。

 忠休ただよしが思わずうつむいたのは他でもない、意知おきとものぞき見ていたことが意知おきとも自身にバレてしまったことで思わず、所謂いわゆる

条件じょうけん反射はんしゃ的に…」

 ということもあるが、それ以上に、

羞恥しゅうち…」

 その感情かんじょうからであった。

 すなわち、己が軽蔑けいべつしてまない相手あいてであるにもかかわらず、気になるからと、それだけでのぞき見るというはしたない真似まねをした己自身に対する羞恥しゅうちから、そしてそのことが軽蔑けいべつしている相手あいて、もとい意知おきともにバレてしまったことに対する羞恥しゅうちとも相俟あいまって忠休ただよしを思わずうつむかせたのであった。
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