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月次御礼

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「つまり…、明日、岩本いわもと内膳ないぜん殿を田安たやすやかたへとけても、番頭ばんがしらの二人には…、常見つねみ中田なかた両名りょうめいには気づかれずにむというわけだの?」

 鈴木すずき治左衛門じざえもん久田ひさだ縫殿助ぬいのすけにズバリそうたずねたので、縫殿助ぬいのすけもその通りだと言わんばかりにうなずいてみせた。

 すると守山もりやま八十郎はちじゅうろうけじと、

「されば同邸どうてい用人ようにん高井たかい多宮たみやらに対して、田沼たぬま山城やましろめをたす件につき、いずれ…、明日みょうにちにでも相談そうだんおとずれるであろう竹本たけもと九八郎くはちろうのその背中せなかを押してやって欲しいと…、岩本いわもと内膳ないぜん殿がたのまれてもやはり、常見つねみ中田なかたに気づかれずにむわけだの?」

 縫殿助ぬいのすけにそうたずねたので、縫殿助ぬいのすけはやはりまたしてもうなずいてみせた。

 するとそこで、長柄ながえ奉行の猪飼いかい茂左衛門もざえもん正義まさよしが、「あっいや、しばらく」とって入った。

岩本いわもと内膳ないぜん殿も普請ふしん奉行なれば、明日、15日の月次つきなみ御礼おんれいには当然とうぜん登城とじょうおよばれましょうぞ…」

 岩本いわもと正利まさとしにしても普請ふしん奉行である以上、明日の月次つきなみ御礼おんれいには将軍・家治に拝謁はいえつすべく、今日のような平日へいじつと同じく勿論もちろん、江戸城に登城とじょうすることになるので、

田安たやすやかたへと足を運ぶいとまはないのではあるまいか…」

 それこそが猪飼いかい茂左衛門もざえもんの言わんとするところであり、そしてそれはまさしくそのとおりであった。

 だがそれに対しても久田ひさだ縫殿助ぬいのすけは表情一つ変えることはなかった。それどころかまるで猪飼いかい茂左衛門もざえもんのその「異議いぎ」を予期よきしていたかのようですらあり、そしてそれはそのまま一橋ひとつばし治済はるさだにもまることであった。

「されば岩本いわもと殿には月次つきなみ御礼おんれいが終わりしのち…、無事ぶじ上様うえさまへの拝謁はいえつまされしのち田安たやすやかたへと足をはこんでいただければ…」

 確かに月次つきなみ御礼おんれいが終わった後なれば、それも…、岩本いわもと正利まさとし田安たやすやかたへと足を運び、そして高井たかい多宮たみや用人ようにんきつけることも可能であろう。

「なれどそれでは…」

 同じく月次つきなみ御礼おんれいを終えた、つまりは将軍・家治への拝謁はいえつませた番頭ばんがしら常見つねみ文左衛門ぶんざえもん中田なかた左兵衛さへえの二人にしても同様どうよう田安たやすやかたへと、いや、そればかりか家老かろう戸川とがわ逵和みちともにしても同じく田安たやすやかたへと帰るに違いなく、そうなれば最悪、岩本いわもと正利まさとし高井たかい多宮たみら用人ようにんきつけているその現場に出くわす可能性すらあり猪飼いかい茂左衛門もざえもんまさにその点をあんじていたのだ。

 それに対して久田ひさだ縫殿助ぬいのすけはと言うと、やはりその怜悧れいりさをもってして、猪飼いかい茂左衛門もざえもんのその懸念けねんにもぐにそうとさっすることが出来でき、のみならず、その懸念けねんさえもどうやら予期よきしていたらしく、縫殿助ぬいのすけのその微笑ほほえみがくずれることはなかった。

「されば岩本いわもと内膳ないぜん殿は普請ふしん奉行なれば、腰物こしもの奉行よりも先に、それもはるさき上様うえさま拝謁はいえつされる…」

 縫殿助ぬいのすけのその言葉に治済はるさだもその通りだと言わんばかりにうなずいてみせた。

 事実、縫殿助ぬいのすけの言う通りであり、岩本いわもと正利まさとしつとめる普請ふしん奉行は作事さくじ奉行や小普請こぶしん奉行らと共に、つまりは、

した三奉行…」

 そうしょうされる彼らは羽目之間はめのまにて将軍に拝謁はいえつすることになるわけだが、その順番…、将軍への拝謁はいえつの順番たるや、腰物こしもの奉行よりもはるかに先、つまりは番頭ばんがしらよりもはるかに先であり、そうであれば普請ふしん奉行の岩本いわもと正利まさとし番頭ばんがしらである常見つねみ文左衛門ぶんざえもん中田なかた左兵衛さへえよりも早くに将軍・家治への拝謁はいえつませることが出来るわけで、つまりは岩本いわもと正利まさとし常見つねみ文左衛門ぶんざえもん中田なかた左兵衛さへえよりも早くに下城げじょうできるというわけだ。

 もっとも、下城げじょう後、そのままの姿にて…、つまりは肩衣かたぎぬ姿にて田安たやすやかたへと足をはこぶわけにもゆくまいから、いったん己の屋敷やしきへと帰ることになるであろうが、しかし、岩本いわもと正利まさとし屋敷やしき虎ノ御門とらのごもん内は潮見坂しおみざかというまさ一等地いっとうちにあり、そこから田安たやすやかたまでは目と鼻の先とまでは言わないにしても比較的ひかくてき近距離きんきょりにあり、それゆえその虎ノ御門とらのごもん内の潮見坂しおみざかにある屋敷やしきへといったん立ちもどり、そこで衣服いふく肩衣かたぎぬから羽織はおりにでも着替きがえた後に田安たやすやかたへと足をはこぶことになる。肩衣かたぎぬ姿という、わば、

制服せいふく姿…」

 そのまま他家たけへとおもむくことは許されないからだ。

 ともあれそうして田安たやすやかたにて岩本いわもと正利まさとし高井たかい多宮たみや用人ようにんきつけたとしてもまだ十分じゅうぶん時間的じかんてき余裕よゆうがあった。

 すなわち、番頭ばんがしらの将軍への拝謁はいえつの順番は回ってこないというわけだ。

 いや、何となれば、岩本いわもと正利まさとしにはここ、一橋ひとつばしやかたにて肩衣かたぎぬから羽織はおりへと着替きがえさせてやっても良い。そうすれば一橋ひとつばしやかたからまさしく、

「目と鼻の先…」

 その表現がまるほど近距離きんきょりにある田安たやすやかたへと足をはこべるわけで、虎ノ御門とらのごもん内は潮見坂しおみざかにある屋敷やしきへと立ちもどるよりも時間の節約せつやく出来できるというものであり、つまりはそれだけゆっくりと高井たかい多宮たみや用人ようにんきつけることが出来できるというわけだ。

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけかる事情を説明するや、猪飼いかい茂左衛門もざえもんの目をまるくさせると同時どうじに、何度もうなずかせたものである。

 するとそこで治済はるさだが割って入った。

「さればとしても、ぐには下城げじょうせぬゆえに…」

 治済はるさだが言わんとしていることはこういうことである。

 月次つきなみ御礼おんれいにおいては将軍はまず初めに中奥なかおく御座之間ござのまにて御三卿ごさんきょう対面たいめんたした後に御成おなり廊下ろうかを通って表向おもてむきへと出御しゅつぎょ…、足を運ぶ。

 そうして表向おもてむきへと足をはこんだ将軍は囲炉裏之間いろりのまを通ってそのおとなり黒書院くろしょいん上段じょうだんにて腰を落ち着けると、そこで松之大廊下まつのおおろうか上之部屋かみのへや殿中でんちゅう席とする御三家や同下之部屋しものへや殿中でんちゅう席とする加賀かが前田まえだ家、それに溜之間たまりのま殿中でんちゅう席とする諸侯しょこうらと対面たいめんたす。具体的には御三家らは黒書院くろしょいん下段げだんへと足をはこび、上段じょうだんにて鎮座ちんざする将軍と対面たいめんたすのであった。

 そうして御三家ら諸侯しょこうとの対面たいめんえた将軍は次に上段じょうだんから下段げだんへと移り、そして左を向く。将軍が鎮座ちんざする上段じょうだんから見て、下段げだん左隣ひだりどなり西湖之間さいこのまであり、しかし、その西湖之間さいこのまには誰もおらず、そのわりに西湖之間さいこのまよりもさらにその先の縁頬えんがわ所謂いわゆる

西湖之間さいこのま東縁頬ひがしえんがわ…」

 そこに雁之間がんのまづめ諸侯しょこう所謂いわゆる雁之間がんのま詰衆つめしゅうらがみなひかえており、将軍は立礼りつれいにて、つまりは立ったままの状態じょうたいにて、彼ら雁之間がんのま詰衆つめしゅうとの対面たいめんたすのであった。いや、対面たいめんたすと言うよりは姿を見せると言った方が正しいであろうか。

 ちなみにこの時…、将軍が黒書院くろしょいん上段じょうだんより下段げだんへと移り、そして左隣ひだりどなりを向いた時、下段げだん西湖之間さいこのまとを仕切しきっていたふすまを開けるのは老中の仕事であり、今では首座しゅざ松平まつだいら康福やすよし次席じせき田沼たぬま意次おきつぐがそれをになっており、康福やすよし意次おきつぐは将軍・家治が下段げだん左隣ひだりどなりを向く前に、頃合ころあい見計みはからって下段げだん西湖之間さいこのまとを仕切しきふすまの左右にひかえ、そして将軍・家治が下段げだん左隣ひだりどなりを向くと同時どうじ康福やすよし意次おきつぐ同時どうじふすま左右さゆうからけ、西湖之間さいこのまを置いたその先、東縁頬ひがしえんがわにてひかえる雁之間がんのま詰衆つめしゅうにその姿を見せるのであった。

 そうして雁之間がんのま詰衆つめしゅうとの対面たいめんえた将軍はさら下段げだんより、下段げだんめんした縁頬えんがわへと移り、やはり左隣ひだりどなりを向く。

 やはり黒書院くろしょいん上段じょうだんから見て、下段げだんめんした縁頬えんがわ左隣ひだりどなりすなわち、西湖之間さいこのまめんした縁頬えんがわ、それも先ほど雁之間がんのま詰衆つめしゅうめていたのが東縁頬ひがしえんがわならばさしずめ、

南縁頬みなみえんがわ…」

 それにたるであろうか、そこには芙蓉之間ふようのま殿中でんちゅう席とする役人がひかえていた。

 すなわち、その筆頭ひっとうである留守居るすいをはじめとする諸役人がひかえていたのだ。

 いや、芙蓉之間ふようのま殿中でんちゅう席とする役人の筆頭ひっとうと言えば何と言っても奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうたる寺社奉行をおいてほかにいないであろうが、しかし、奏者番そうじゃばんとその筆頭ひっとうたる寺社奉行は月次つきなみ御礼おんれいにおいては老中や若年寄と共に、

「ホスト役…」

 それに回るために、「ゲスト」として参加することはかなわず、それゆえ奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうたる寺社奉行とヒラの奏者番そうじゃばんのぞいた、芙蓉之間ふようのま殿中でんちゅう席とする役人のトップと言えば、留守居るすいおどり出ることになるのであった。

 そうして将軍への拝謁はいえつ順番じゅんばんが近づくや、留守居るすいをはじめとする芙蓉之間ふようのま殿中でんちゅう席とする諸役人らはそれぞれの拝謁はいえつ場所へと移動する。

 すなわち、留守居るすいやそれに御三卿ごさんきょう家老かろう大目付おおめつけ西湖之間さいこのまの南側にめんした縁頬えんがわ所謂いわゆる

南縁頬みなみえんがわ…」

 へと移動する。そこが彼らにとっての将軍への拝謁はいえつの場所であるからだ。

 ちなみに御三卿ごさんきょう家老かろうもまた、芙蓉之間ふようのま殿中でんちゅう席ではあるものの、しかし、実際には御三卿ごさんきょう家老かろうは今日のような平日へいじつにおいては登城とじょうしても表向おもてむきにある己の殿中でんちゅう席たる芙蓉之間ふようのまへと足をはこぶことはなく、つまりは表向おもてむきへと足をはこぶことなく、もっぱ中奥なかおくに設けられた詰所つめしょめるのをつねとしていた。

 しかし月次つきなみ御礼おんれいともなると、めずらしく表向おもてむきへと足をはこんでは、芙蓉之間ふようのまへと足を向け、そこで将軍への拝謁はいえつの順番が回ってくるまでの間、同じくその芙蓉之間ふようのま殿中でんちゅう席とする留守居るすい大目付おおめつけらと共にそこにめ、将軍への拝謁はいえつの順番が近づいたならばやはりその将軍への拝謁はいえつ場所である西湖之間さいこのまの南側にめんした縁頬えんがわ所謂いわゆる

南縁頬みなみえんがわ

 へと移ることになるわけだ。

 そんな中、江戸町奉行や勘定かんじょう奉行、それに作事さくじ奉行や普請ふしん奉行は同じく芙蓉之間ふようのま殿中でんちゅう席としながらも、しかし彼らは将軍への拝謁はいえつの「南縁頬みなみえんがわ」には移らずに、羽目之間はめのまへと移る。芙蓉之間ふようのま殿中でんちゅう席とする役人の中でも江戸町奉行と勘定かんじょう奉行、そして作事さくじ奉行と普請ふしん奉行は羽目之間はめのまこそが将軍への拝謁はいえつ場所であるからだ。

 いや、羽目之間はめのまを将軍への拝謁はいえつ場所とするのは彼らだけにとどまらず、中之間なかのま殿中でんちゅう席とする小普請こぶしん奉行にしても同じく羽目之間はめのまが将軍への拝謁はいえつ場所であり、ゆえに小普請こぶしん奉行もまた、江戸町奉行や勘定かんじょう奉行、それに作事さくじ奉行や普請ふしん奉行らにじる格好かっこうにて将軍に拝謁はいえつすることになる。

 もっとも、その羽目之間はめのま所謂いわゆる、「南縁頬みなみえんがわ」のとなりにあり、つまり「南縁頬みなみえんがわ」はちょうど黒書院くろしょいん下段げだんめんした縁頬えんがわ羽目之間はめのまはさまれていた。

 そして、雁之間がんのま詰衆つめしゅうとの対面たいめんえ、黒書院くろしょいん下段げだんからその下段げだんめんした縁頬みなみえんがわへとさらに移った将軍は今度は西湖之間さいこのまの南側にめんした縁頬えんがわ、さしずめ、「南縁頬みなみえんがわ」にてひかえる留守居るすい御三卿ごさんきょう家老かろう大目付おおめつけに対してもやはり立礼りつれいにて、つまりは立ったままの状態で対面たいめんたすことになる。

 留守居るすい御三卿ごさんきょう家老かろう大目付おおめつけは「南縁頬みなみえんがわ」にて、将軍が立つ黒書院くろしょいん下段げだんめんした縁頬えんがわの方を向いてひかえており、その時、彼ら…、留守居るすいらにとってはちょうど真後まうしろに当たる羽目之間はめのまにおいては江戸町奉行や勘定かんじょう奉行、作事さくじ奉行や普請ふしん奉行の所謂いわゆる、「芙蓉之間ふようのま役人」に加えて、中之間なかのま殿中でんちゅう席とする小普請こぶしん奉行までもがひかえており、彼ら…、江戸町奉行らにとってはちょうどまえに当たる「南縁頬みなみえんがわ」にてひかえる留守居るすいらとともに、つまりは同時どうじに将軍による立礼りつれいにての拝謁はいえつたまわるのであった。ようするに留守居るすいらと江戸町奉行らは同時に立ったままの状態の将軍に会えるというわけだ。

 そうして将軍は彼ら…、留守居るすいらや江戸町奉行らと対面たいめんたした後、大広間おおひろま殿中でんちゅう席とする諸侯しょこう帝鑑之間ていかんのま殿中でんちゅう席とする諸侯しょこうらとの対面たいめんへと移るのであった。

 意外いがいに思われるかも知れないが、月次つきなみ御礼おんれいにおいては将軍への拝謁はいえつ順番じゅんばんたるや、「芙蓉之間ふようのま役人」や小普請こぶしん奉行といった旗本の方と大広間おおひろま帝鑑之間ていかんのま殿中でんちゅう席とする諸侯しょこう、つまりは大名とでは、旗本の方が早く、つまりは先に将軍に会えるのであった。

 それゆえ「芙蓉之間ふようのま役人」の一人である普請ふしん奉行をつとめる岩本いわもと正利まさとしはと言うと、午前中に月次つきなみ御礼おんれいえられる、つまりは将軍への対面たいめんたしえることができるわけで、将軍への対面たいめんたしえたならば、下城げじょう勝手かって次第しだい、つまりはいつ帰っても良いというわけだ。

 さて、そこで焼火之間たきびのま殿中でんちゅう席とする二ノ丸にのまる留守居るすい納戸頭なんどがしら腰物こしもの奉行にそして御三卿ごさんきょうやかた番頭ばんがしらであるが、二ノ丸にのまる留守居るすい納戸頭なんどがしらはやはり、「南縁頬みなみえんがわ」にて、そして腰物こしもの奉行と番頭ばんがしら羽目之間はめのまにてそれぞれひかえ、将軍への拝謁はいえつ…、対面たいめんのぞむわけで、彼ら…、二ノ丸にのまる留守居るすいらと腰物こしもの奉行らとの位置いち関係はちょうど、留守居るすいらと江戸町奉行らに相当そうとうする。

 もっとも、ちがう点もあり、それも最大さいだいちがいと言えようか、将軍は彼ら…、二ノ丸にのまる留守居るすいらや腰物こしもの奉行らとも対面たいめんたすとは言っても、その実態じったいたるや、

中奥なかおくへの帰り道…、その道すがら、顔を見せる程度ていど…」

 それにぎなかった。

 将軍は西湖之間さいこのまの南側にめんした縁頬えんがわ所謂いわゆる、「南縁頬みなみえんがわ」を通り、そのまま西湖之間さいこのまの東側にめんした縁頬えんがわ所謂いわゆる、「東縁頬ひがしえんがわ」を直進ちょくしん囲炉裏之間いろりのまの同じく東側にめんした縁頬えんがわをも通って中奥なかおくへともどることになるわけで、その道中どうちゅう、将軍は南縁頬みなみえんがわ羽目之間はめのまわば、

りょうサイド…」

 にてひかえる二ノ丸にのまる留守居るすいらと腰物こしもの奉行らとの間をとおけることになるわけで、その際、将軍はちょっと立ち止まるのだが、これこそが彼らに対する、

拝謁はいえつ

 であった。留守居るすいらや江戸町奉行らとのそれと…、拝謁はいえつくらべると何ともお手軽てがるよう粗末そまつなものであったが、これこそが所謂いわゆる

「ヒエラルキー」

 そのちがいというやつであった。

 ともあれ、そういうわけで、番頭ばんがしらが将軍への「拝謁はいえつ」…、対面たいめんえるのは午後を回った頃、それも昼の八つ半(午後3時頃)を回ろうかという頃であり、それからぐに下城げじょうしたところで、番頭ばんがしら各々おのおの御三卿ごさんきょうやかたかえくのは必然ひつぜん的に昼の八つ半(午後3時頃)過ぎということになり、午前のうちに将軍への拝謁はいえつ…、対面たいめんえることになる普請ふしん奉行の岩本いわもと正利まさとしが例えば、虎ノ御門とらのごもん内は潮見坂しおみざかにある屋敷やしきへはもどらずに、ここ一橋ひとつばしやかたにて肩衣かたぎぬから羽織はおりにでも着替きがえさせて、田安たやすやかたへとかわせることにすれば、じっくりと、それこそまさしく、

ひざわせて…」

 高井たかい多宮たみや用人ようにんきつけることができるというものである。それも番頭ばんがしらである常見つねみ文左衛門ぶんざえもん中田なかた左兵衛さへえに気づかれずに、いや、邪魔じゃまされずに、である。
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