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月次御礼
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「つまり…、明日、岩本内膳殿を田安館へと差し向けても、番頭の二人には…、常見と中田の両名には気づかれずに済むというわけだの?」
鈴木治左衛門が久田縫殿助にズバリそう尋ねたので、縫殿助もその通りだと言わんばかりに頷いてみせた。
すると守山八十郎も負けじと、
「されば同邸の用人の高井多宮らに対して、田沼山城めを討ち果たす件につき、いずれ…、明日にでも相談に訪れるであろう竹本九八郎のその背中を押してやって欲しいと…、岩本内膳殿が頼まれてもやはり、常見や中田に気づかれずに済むわけだの?」
縫殿助にそう尋ねたので、縫殿助はやはりまたしても頷いてみせた。
するとそこで、長柄奉行の猪飼茂左衛門正義が、「あっいや、暫く」と割って入った。
「岩本内膳殿も普請奉行なれば、明日、15日の月次御礼には当然、登城に及ばれましょうぞ…」
岩本正利にしても普請奉行である以上、明日の月次御礼には将軍・家治に拝謁すべく、今日のような平日と同じく勿論、江戸城に登城することになるので、
「田安館へと足を運ぶ暇はないのではあるまいか…」
それこそが猪飼茂左衛門の言わんとするところであり、そしてそれは正しくその通りであった。
だがそれに対しても久田縫殿助は表情一つ変えることはなかった。それどころかまるで猪飼茂左衛門のその「異議」を予期していたかのようですらあり、そしてそれはそのまま一橋治済にも当て嵌まることであった。
「されば岩本殿には月次御礼が終わりし後…、無事、上様への拝謁を済まされし後、田安館へと足を運んで頂ければ…」
確かに月次御礼が終わった後なれば、それも…、岩本正利が田安館へと足を運び、そして高井多宮ら用人を焚きつけることも可能であろう。
「なれどそれでは…」
同じく月次御礼を終えた、つまりは将軍・家治への拝謁を済ませた番頭の常見文左衛門と中田左兵衛の二人にしても同様に田安館へと、いや、そればかりか家老の戸川逵和にしても同じく田安館へと帰るに違いなく、そうなれば最悪、岩本正利が高井多宮ら用人を焚きつけているその現場に出くわす可能性すらあり得、猪飼茂左衛門は正にその点を案じていたのだ。
それに対して久田縫殿助はと言うと、やはりその怜悧さをもってして、猪飼茂左衛門のその懸念にも直ぐにそうと察することが出来、のみならず、その懸念さえもどうやら予期していたらしく、縫殿助のその微笑みが崩れることはなかった。
「されば岩本内膳殿は普請奉行なれば、腰物奉行よりも先に、それも遥か先に上様に拝謁される…」
縫殿助のその言葉に治済もその通りだと言わんばかりに頷いてみせた。
事実、縫殿助の言う通りであり、岩本正利が勤める普請奉行は作事奉行や小普請奉行らと共に、つまりは、
「下三奉行…」
そう称される彼らは羽目之間にて将軍に拝謁することになるわけだが、その順番…、将軍への拝謁の順番たるや、腰物奉行よりも遥かに先、つまりは番頭よりも遥かに先であり、そうであれば普請奉行の岩本正利は番頭である常見文左衛門や中田左兵衛よりも早くに将軍・家治への拝謁を済ませることが出来るわけで、つまりは岩本正利は常見文左衛門や中田左兵衛よりも早くに下城できるというわけだ。
尤も、下城後、そのままの姿にて…、つまりは肩衣姿にて田安の館へと足を運ぶわけにもゆくまいから、いったん己の屋敷へと帰ることになるであろうが、しかし、岩本正利の屋敷は虎ノ御門内は潮見坂という正に一等地にあり、そこから田安館までは目と鼻の先とまでは言わないにしても比較的近距離にあり、それゆえその虎ノ御門内の潮見坂にある屋敷へといったん立ち戻り、そこで衣服を肩衣から羽織にでも着替えた後に田安館へと足を運ぶことになる。肩衣姿という、謂わば、
「制服姿…」
そのまま他家へと赴くことは許されないからだ。
ともあれそうして田安館にて岩本正利が高井多宮ら用人を焚きつけたとしてもまだ十分に時間的余裕があった。
即ち、番頭の将軍への拝謁の順番は回ってこないというわけだ。
いや、何となれば、岩本正利にはここ、一橋館にて肩衣から羽織へと着替えさせてやっても良い。そうすれば一橋館から正しく、
「目と鼻の先…」
その表現が当て嵌まる程に近距離にある田安館へと足を運べるわけで、虎ノ御門内は潮見坂にある屋敷へと立ち戻るよりも時間の節約が出来るというものであり、つまりはそれだけゆっくりと高井多宮ら用人を焚きつけることが出来るというわけだ。
久田縫殿助は斯かる事情を説明するや、猪飼茂左衛門の目を丸くさせると同時に、何度も頷かせたものである。
するとそこで治済が割って入った。
「されば余としても、直ぐには下城せぬゆえに…」
治済が言わんとしていることはこういうことである。
月次御礼においては将軍はまず初めに中奥は御座之間にて御三卿と対面を果たした後に御成廊下を通って表向へと出御…、足を運ぶ。
そうして表向へと足を運んだ将軍は囲炉裏之間を通ってそのお隣の黒書院は上段にて腰を落ち着けると、そこで松之大廊下の上之部屋を殿中席とする御三家や同下之部屋を殿中席とする加賀前田家、それに溜之間を殿中席とする諸侯らと対面を果たす。具体的には御三家らは黒書院は下段へと足を運び、上段にて鎮座する将軍と対面を果たすのであった。
そうして御三家ら諸侯との対面を終えた将軍は次に上段から下段へと移り、そして左を向く。将軍が鎮座する上段から見て、下段の直ぐ左隣は西湖之間であり、しかし、その西湖之間には誰もおらず、その代わりに西湖之間よりも更にその先の縁頬、所謂、
「西湖之間東縁頬…」
そこに雁之間詰の諸侯、所謂、雁之間詰衆らが皆控えており、将軍は立礼にて、つまりは立ったままの状態にて、彼ら雁之間詰衆との対面を果たすのであった。いや、対面を果たすと言うよりは姿を見せると言った方が正しいであろうか。
ちなみにこの時…、将軍が黒書院の上段より下段へと移り、そして左隣を向いた時、下段と西湖之間とを仕切っていた襖を開けるのは老中の仕事であり、今では首座の松平康福と次席の田沼意次がそれを担っており、康福と意次は将軍・家治が下段の左隣を向く前に、頃合を見計らって下段と西湖之間とを仕切る襖の左右に控え、そして将軍・家治が下段の左隣を向くと同時に康福と意次は同時に襖を左右から開け、西湖之間を置いたその先、東縁頬にて控える雁之間詰衆にその姿を見せるのであった。
そうして雁之間詰衆との対面を終えた将軍は更に下段より、下段に面した縁頬へと移り、やはり左隣を向く。
やはり黒書院の上段から見て、下段に面した縁頬の左隣は即ち、西湖之間に面した縁頬、それも先ほど雁之間詰衆が詰めていたのが東縁頬ならばさしずめ、
「南縁頬…」
それに当たるであろうか、そこには芙蓉之間を殿中席とする役人が控えていた。
即ち、その筆頭である留守居をはじめとする諸役人が控えていたのだ。
いや、芙蓉之間を殿中席とする役人の筆頭と言えば何と言っても奏者番の筆頭たる寺社奉行をおいて外にいないであろうが、しかし、奏者番とその筆頭たる寺社奉行は月次御礼においては老中や若年寄と共に、
「ホスト役…」
それに回るために、「ゲスト」として参加することは叶わず、それゆえ奏者番の筆頭たる寺社奉行とヒラの奏者番を除いた、芙蓉之間を殿中席とする役人のトップと言えば、留守居が躍り出ることになるのであった。
そうして将軍への拝謁の順番が近づくや、留守居をはじめとする芙蓉之間を殿中席とする諸役人らはそれぞれの拝謁場所へと移動する。
即ち、留守居やそれに御三卿家老、大目付は西湖之間の南側に面した縁頬、所謂、
「南縁頬…」
へと移動する。そこが彼らにとっての将軍への拝謁の場所であるからだ。
ちなみに御三卿家老もまた、芙蓉之間が殿中席ではあるものの、しかし、実際には御三卿家老は今日のような平日においては登城しても表向にある己の殿中席たる芙蓉之間へと足を運ぶことはなく、つまりは表向へと足を運ぶことなく、専ら中奥に設けられた詰所に詰めるのを常としていた。
しかし月次御礼ともなると、珍しく表向へと足を運んでは、芙蓉之間へと足を向け、そこで将軍への拝謁の順番が回ってくるまでの間、同じくその芙蓉之間を殿中席とする留守居や大目付らと共にそこに詰め、将軍への拝謁の順番が近づいたならばやはりその将軍への拝謁場所である西湖之間の南側に面した縁頬、所謂、
「南縁頬」
へと移ることになるわけだ。
そんな中、江戸町奉行や勘定奉行、それに作事奉行や普請奉行は同じく芙蓉之間を殿中席としながらも、しかし彼らは将軍への拝謁の「南縁頬」には移らずに、羽目之間へと移る。芙蓉之間を殿中席とする役人の中でも江戸町奉行と勘定奉行、そして作事奉行と普請奉行は羽目之間こそが将軍への拝謁場所であるからだ。
いや、羽目之間を将軍への拝謁場所とするのは彼らだけに留まらず、中之間を殿中席とする小普請奉行にしても同じく羽目之間が将軍への拝謁場所であり、ゆえに小普請奉行もまた、江戸町奉行や勘定奉行、それに作事奉行や普請奉行らに雑じる格好にて将軍に拝謁することになる。
尤も、その羽目之間は所謂、「南縁頬」の直ぐ隣にあり、つまり「南縁頬」はちょうど黒書院の下段に面した縁頬と羽目之間に挟まれていた。
そして、雁之間詰衆との対面を終え、黒書院の下段からその下段に面した縁頬へと更に移った将軍は今度は西湖之間の南側に面した縁頬、さしずめ、「南縁頬」にて控える留守居や御三卿家老、大目付に対してもやはり立礼にて、つまりは立ったままの状態で対面を果たすことになる。
留守居や御三卿家老、大目付は「南縁頬」にて、将軍が立つ黒書院の下段に面した縁頬の方を向いて控えており、その時、彼ら…、留守居らにとってはちょうど真後ろに当たる羽目之間においては江戸町奉行や勘定奉行、作事奉行や普請奉行の所謂、「芙蓉之間役人」に加えて、中之間を殿中席とする小普請奉行までもが控えており、彼ら…、江戸町奉行らにとってはちょうど真ん前に当たる「南縁頬」にて控える留守居らと共に、つまりは同時に将軍による立礼にての拝謁を賜るのであった。要するに留守居らと江戸町奉行らは同時に立ったままの状態の将軍に会えるというわけだ。
そうして将軍は彼ら…、留守居らや江戸町奉行らと対面を果たした後、大広間を殿中席とする諸侯や帝鑑之間を殿中席とする諸侯らとの対面へと移るのであった。
意外に思われるかも知れないが、月次御礼においては将軍への拝謁の順番たるや、「芙蓉之間役人」や小普請奉行といった旗本の方と大広間や帝鑑之間を殿中席とする諸侯、つまりは大名とでは、旗本の方が早く、つまりは先に将軍に会えるのであった。
それゆえ「芙蓉之間役人」の一人である普請奉行を勤める岩本正利はと言うと、午前中に月次御礼を終えられる、つまりは将軍への対面を果たし終えることができるわけで、将軍への対面を果たし終えたならば、下城は勝手次第、つまりはいつ帰っても良いというわけだ。
さて、そこで焼火之間を殿中席とする二ノ丸留守居や納戸頭、腰物奉行にそして御三卿の館の番頭であるが、二ノ丸留守居と納戸頭はやはり、「南縁頬」にて、そして腰物奉行と番頭は羽目之間にてそれぞれ控え、将軍への拝謁…、対面に臨むわけで、彼ら…、二ノ丸留守居らと腰物奉行らとの位置関係はちょうど、留守居らと江戸町奉行らに相当する。
尤も、違う点もあり、それも最大の違いと言えようか、将軍は彼ら…、二ノ丸留守居らや腰物奉行らとも対面を果たすとは言っても、その実態たるや、
「中奥への帰り道…、その道すがら、顔を見せる程度…」
それに過ぎなかった。
将軍は西湖之間の南側に面した縁頬、所謂、「南縁頬」を通り、そのまま西湖之間の東側に面縁頬、所謂、「東縁頬」を直進、囲炉裏之間の同じく東側に面した縁頬をも通って中奥へと戻ることになるわけで、その道中、将軍は南縁頬と羽目之間の謂わば、
「両サイド…」
にて控える二ノ丸留守居らと腰物奉行らとの間を通り抜けることになるわけで、その際、将軍はちょっと立ち止まるのだが、これこそが彼らに対する、
「拝謁」
であった。留守居らや江戸町奉行らとのそれと…、拝謁と比べると何ともお手軽、要は粗末なものであったが、これこそが所謂、
「ヒエラルキー」
その違いというやつであった。
ともあれ、そういうわけで、番頭が将軍への「拝謁」…、対面を終えるのは午後を回った頃、それも昼の八つ半(午後3時頃)を回ろうかという頃であり、それから直ぐに下城したところで、番頭が各々の御三卿の館に帰り着くのは必然的に昼の八つ半(午後3時頃)過ぎということになり、午前のうちに将軍への拝謁…、対面を終えることになる普請奉行の岩本正利が例えば、虎ノ御門内は潮見坂にある屋敷へは戻らずに、ここ一橋館にて肩衣から羽織にでも着替えさせて、田安館へと向かわせることにすれば、じっくりと、それこそ正しく、
「膝を突き合わせて…」
高井多宮ら用人を焚きつけることができるというものである。それも番頭である常見文左衛門と中田左兵衛に気づかれずに、いや、邪魔されずに、である。
鈴木治左衛門が久田縫殿助にズバリそう尋ねたので、縫殿助もその通りだと言わんばかりに頷いてみせた。
すると守山八十郎も負けじと、
「されば同邸の用人の高井多宮らに対して、田沼山城めを討ち果たす件につき、いずれ…、明日にでも相談に訪れるであろう竹本九八郎のその背中を押してやって欲しいと…、岩本内膳殿が頼まれてもやはり、常見や中田に気づかれずに済むわけだの?」
縫殿助にそう尋ねたので、縫殿助はやはりまたしても頷いてみせた。
するとそこで、長柄奉行の猪飼茂左衛門正義が、「あっいや、暫く」と割って入った。
「岩本内膳殿も普請奉行なれば、明日、15日の月次御礼には当然、登城に及ばれましょうぞ…」
岩本正利にしても普請奉行である以上、明日の月次御礼には将軍・家治に拝謁すべく、今日のような平日と同じく勿論、江戸城に登城することになるので、
「田安館へと足を運ぶ暇はないのではあるまいか…」
それこそが猪飼茂左衛門の言わんとするところであり、そしてそれは正しくその通りであった。
だがそれに対しても久田縫殿助は表情一つ変えることはなかった。それどころかまるで猪飼茂左衛門のその「異議」を予期していたかのようですらあり、そしてそれはそのまま一橋治済にも当て嵌まることであった。
「されば岩本殿には月次御礼が終わりし後…、無事、上様への拝謁を済まされし後、田安館へと足を運んで頂ければ…」
確かに月次御礼が終わった後なれば、それも…、岩本正利が田安館へと足を運び、そして高井多宮ら用人を焚きつけることも可能であろう。
「なれどそれでは…」
同じく月次御礼を終えた、つまりは将軍・家治への拝謁を済ませた番頭の常見文左衛門と中田左兵衛の二人にしても同様に田安館へと、いや、そればかりか家老の戸川逵和にしても同じく田安館へと帰るに違いなく、そうなれば最悪、岩本正利が高井多宮ら用人を焚きつけているその現場に出くわす可能性すらあり得、猪飼茂左衛門は正にその点を案じていたのだ。
それに対して久田縫殿助はと言うと、やはりその怜悧さをもってして、猪飼茂左衛門のその懸念にも直ぐにそうと察することが出来、のみならず、その懸念さえもどうやら予期していたらしく、縫殿助のその微笑みが崩れることはなかった。
「されば岩本内膳殿は普請奉行なれば、腰物奉行よりも先に、それも遥か先に上様に拝謁される…」
縫殿助のその言葉に治済もその通りだと言わんばかりに頷いてみせた。
事実、縫殿助の言う通りであり、岩本正利が勤める普請奉行は作事奉行や小普請奉行らと共に、つまりは、
「下三奉行…」
そう称される彼らは羽目之間にて将軍に拝謁することになるわけだが、その順番…、将軍への拝謁の順番たるや、腰物奉行よりも遥かに先、つまりは番頭よりも遥かに先であり、そうであれば普請奉行の岩本正利は番頭である常見文左衛門や中田左兵衛よりも早くに将軍・家治への拝謁を済ませることが出来るわけで、つまりは岩本正利は常見文左衛門や中田左兵衛よりも早くに下城できるというわけだ。
尤も、下城後、そのままの姿にて…、つまりは肩衣姿にて田安の館へと足を運ぶわけにもゆくまいから、いったん己の屋敷へと帰ることになるであろうが、しかし、岩本正利の屋敷は虎ノ御門内は潮見坂という正に一等地にあり、そこから田安館までは目と鼻の先とまでは言わないにしても比較的近距離にあり、それゆえその虎ノ御門内の潮見坂にある屋敷へといったん立ち戻り、そこで衣服を肩衣から羽織にでも着替えた後に田安館へと足を運ぶことになる。肩衣姿という、謂わば、
「制服姿…」
そのまま他家へと赴くことは許されないからだ。
ともあれそうして田安館にて岩本正利が高井多宮ら用人を焚きつけたとしてもまだ十分に時間的余裕があった。
即ち、番頭の将軍への拝謁の順番は回ってこないというわけだ。
いや、何となれば、岩本正利にはここ、一橋館にて肩衣から羽織へと着替えさせてやっても良い。そうすれば一橋館から正しく、
「目と鼻の先…」
その表現が当て嵌まる程に近距離にある田安館へと足を運べるわけで、虎ノ御門内は潮見坂にある屋敷へと立ち戻るよりも時間の節約が出来るというものであり、つまりはそれだけゆっくりと高井多宮ら用人を焚きつけることが出来るというわけだ。
久田縫殿助は斯かる事情を説明するや、猪飼茂左衛門の目を丸くさせると同時に、何度も頷かせたものである。
するとそこで治済が割って入った。
「されば余としても、直ぐには下城せぬゆえに…」
治済が言わんとしていることはこういうことである。
月次御礼においては将軍はまず初めに中奥は御座之間にて御三卿と対面を果たした後に御成廊下を通って表向へと出御…、足を運ぶ。
そうして表向へと足を運んだ将軍は囲炉裏之間を通ってそのお隣の黒書院は上段にて腰を落ち着けると、そこで松之大廊下の上之部屋を殿中席とする御三家や同下之部屋を殿中席とする加賀前田家、それに溜之間を殿中席とする諸侯らと対面を果たす。具体的には御三家らは黒書院は下段へと足を運び、上段にて鎮座する将軍と対面を果たすのであった。
そうして御三家ら諸侯との対面を終えた将軍は次に上段から下段へと移り、そして左を向く。将軍が鎮座する上段から見て、下段の直ぐ左隣は西湖之間であり、しかし、その西湖之間には誰もおらず、その代わりに西湖之間よりも更にその先の縁頬、所謂、
「西湖之間東縁頬…」
そこに雁之間詰の諸侯、所謂、雁之間詰衆らが皆控えており、将軍は立礼にて、つまりは立ったままの状態にて、彼ら雁之間詰衆との対面を果たすのであった。いや、対面を果たすと言うよりは姿を見せると言った方が正しいであろうか。
ちなみにこの時…、将軍が黒書院の上段より下段へと移り、そして左隣を向いた時、下段と西湖之間とを仕切っていた襖を開けるのは老中の仕事であり、今では首座の松平康福と次席の田沼意次がそれを担っており、康福と意次は将軍・家治が下段の左隣を向く前に、頃合を見計らって下段と西湖之間とを仕切る襖の左右に控え、そして将軍・家治が下段の左隣を向くと同時に康福と意次は同時に襖を左右から開け、西湖之間を置いたその先、東縁頬にて控える雁之間詰衆にその姿を見せるのであった。
そうして雁之間詰衆との対面を終えた将軍は更に下段より、下段に面した縁頬へと移り、やはり左隣を向く。
やはり黒書院の上段から見て、下段に面した縁頬の左隣は即ち、西湖之間に面した縁頬、それも先ほど雁之間詰衆が詰めていたのが東縁頬ならばさしずめ、
「南縁頬…」
それに当たるであろうか、そこには芙蓉之間を殿中席とする役人が控えていた。
即ち、その筆頭である留守居をはじめとする諸役人が控えていたのだ。
いや、芙蓉之間を殿中席とする役人の筆頭と言えば何と言っても奏者番の筆頭たる寺社奉行をおいて外にいないであろうが、しかし、奏者番とその筆頭たる寺社奉行は月次御礼においては老中や若年寄と共に、
「ホスト役…」
それに回るために、「ゲスト」として参加することは叶わず、それゆえ奏者番の筆頭たる寺社奉行とヒラの奏者番を除いた、芙蓉之間を殿中席とする役人のトップと言えば、留守居が躍り出ることになるのであった。
そうして将軍への拝謁の順番が近づくや、留守居をはじめとする芙蓉之間を殿中席とする諸役人らはそれぞれの拝謁場所へと移動する。
即ち、留守居やそれに御三卿家老、大目付は西湖之間の南側に面した縁頬、所謂、
「南縁頬…」
へと移動する。そこが彼らにとっての将軍への拝謁の場所であるからだ。
ちなみに御三卿家老もまた、芙蓉之間が殿中席ではあるものの、しかし、実際には御三卿家老は今日のような平日においては登城しても表向にある己の殿中席たる芙蓉之間へと足を運ぶことはなく、つまりは表向へと足を運ぶことなく、専ら中奥に設けられた詰所に詰めるのを常としていた。
しかし月次御礼ともなると、珍しく表向へと足を運んでは、芙蓉之間へと足を向け、そこで将軍への拝謁の順番が回ってくるまでの間、同じくその芙蓉之間を殿中席とする留守居や大目付らと共にそこに詰め、将軍への拝謁の順番が近づいたならばやはりその将軍への拝謁場所である西湖之間の南側に面した縁頬、所謂、
「南縁頬」
へと移ることになるわけだ。
そんな中、江戸町奉行や勘定奉行、それに作事奉行や普請奉行は同じく芙蓉之間を殿中席としながらも、しかし彼らは将軍への拝謁の「南縁頬」には移らずに、羽目之間へと移る。芙蓉之間を殿中席とする役人の中でも江戸町奉行と勘定奉行、そして作事奉行と普請奉行は羽目之間こそが将軍への拝謁場所であるからだ。
いや、羽目之間を将軍への拝謁場所とするのは彼らだけに留まらず、中之間を殿中席とする小普請奉行にしても同じく羽目之間が将軍への拝謁場所であり、ゆえに小普請奉行もまた、江戸町奉行や勘定奉行、それに作事奉行や普請奉行らに雑じる格好にて将軍に拝謁することになる。
尤も、その羽目之間は所謂、「南縁頬」の直ぐ隣にあり、つまり「南縁頬」はちょうど黒書院の下段に面した縁頬と羽目之間に挟まれていた。
そして、雁之間詰衆との対面を終え、黒書院の下段からその下段に面した縁頬へと更に移った将軍は今度は西湖之間の南側に面した縁頬、さしずめ、「南縁頬」にて控える留守居や御三卿家老、大目付に対してもやはり立礼にて、つまりは立ったままの状態で対面を果たすことになる。
留守居や御三卿家老、大目付は「南縁頬」にて、将軍が立つ黒書院の下段に面した縁頬の方を向いて控えており、その時、彼ら…、留守居らにとってはちょうど真後ろに当たる羽目之間においては江戸町奉行や勘定奉行、作事奉行や普請奉行の所謂、「芙蓉之間役人」に加えて、中之間を殿中席とする小普請奉行までもが控えており、彼ら…、江戸町奉行らにとってはちょうど真ん前に当たる「南縁頬」にて控える留守居らと共に、つまりは同時に将軍による立礼にての拝謁を賜るのであった。要するに留守居らと江戸町奉行らは同時に立ったままの状態の将軍に会えるというわけだ。
そうして将軍は彼ら…、留守居らや江戸町奉行らと対面を果たした後、大広間を殿中席とする諸侯や帝鑑之間を殿中席とする諸侯らとの対面へと移るのであった。
意外に思われるかも知れないが、月次御礼においては将軍への拝謁の順番たるや、「芙蓉之間役人」や小普請奉行といった旗本の方と大広間や帝鑑之間を殿中席とする諸侯、つまりは大名とでは、旗本の方が早く、つまりは先に将軍に会えるのであった。
それゆえ「芙蓉之間役人」の一人である普請奉行を勤める岩本正利はと言うと、午前中に月次御礼を終えられる、つまりは将軍への対面を果たし終えることができるわけで、将軍への対面を果たし終えたならば、下城は勝手次第、つまりはいつ帰っても良いというわけだ。
さて、そこで焼火之間を殿中席とする二ノ丸留守居や納戸頭、腰物奉行にそして御三卿の館の番頭であるが、二ノ丸留守居と納戸頭はやはり、「南縁頬」にて、そして腰物奉行と番頭は羽目之間にてそれぞれ控え、将軍への拝謁…、対面に臨むわけで、彼ら…、二ノ丸留守居らと腰物奉行らとの位置関係はちょうど、留守居らと江戸町奉行らに相当する。
尤も、違う点もあり、それも最大の違いと言えようか、将軍は彼ら…、二ノ丸留守居らや腰物奉行らとも対面を果たすとは言っても、その実態たるや、
「中奥への帰り道…、その道すがら、顔を見せる程度…」
それに過ぎなかった。
将軍は西湖之間の南側に面した縁頬、所謂、「南縁頬」を通り、そのまま西湖之間の東側に面縁頬、所謂、「東縁頬」を直進、囲炉裏之間の同じく東側に面した縁頬をも通って中奥へと戻ることになるわけで、その道中、将軍は南縁頬と羽目之間の謂わば、
「両サイド…」
にて控える二ノ丸留守居らと腰物奉行らとの間を通り抜けることになるわけで、その際、将軍はちょっと立ち止まるのだが、これこそが彼らに対する、
「拝謁」
であった。留守居らや江戸町奉行らとのそれと…、拝謁と比べると何ともお手軽、要は粗末なものであったが、これこそが所謂、
「ヒエラルキー」
その違いというやつであった。
ともあれ、そういうわけで、番頭が将軍への「拝謁」…、対面を終えるのは午後を回った頃、それも昼の八つ半(午後3時頃)を回ろうかという頃であり、それから直ぐに下城したところで、番頭が各々の御三卿の館に帰り着くのは必然的に昼の八つ半(午後3時頃)過ぎということになり、午前のうちに将軍への拝謁…、対面を終えることになる普請奉行の岩本正利が例えば、虎ノ御門内は潮見坂にある屋敷へは戻らずに、ここ一橋館にて肩衣から羽織にでも着替えさせて、田安館へと向かわせることにすれば、じっくりと、それこそ正しく、
「膝を突き合わせて…」
高井多宮ら用人を焚きつけることができるというものである。それも番頭である常見文左衛門と中田左兵衛に気づかれずに、いや、邪魔されずに、である。
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