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仙台藩陪臣の工藤平助の四女である栲子は定姫の姉である種姫の代わりとして田安館の奥女中として採用された。2
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御三卿の館における「大奥」とも言うべき「奥」に仕える奥女中と言えばその殆どが江戸城本丸大奥よりの、
「出向者…」
それで占められており、その「セオリー」に従うならば、定姫の姉…、種姫の代わりとなるべき奥女中を新たに召抱えるとなれば当然、江戸城本丸大奥より適当なる者を招聘することになる。
だがそれでは意味がないと、「賢婦」たる寶蓮院は本能的に悟ったものである。
それと言うのも、江戸城本丸大奥より招聘した奥女中では例え、姉・種姫と同年輩であったとしても、極論、種姫と瓜二つであったとしても、定姫に傅き、それどころか心にもない「おべんちゃら」を口にするのは目に見えていたからだ。
そして定姫が求めているのはそのような者ではないと、寶蓮院には分かっていた。
定姫が心底、欲しているのは、
「気の置けぬ…」
つまりは何でも言い合える、時には喧嘩もするであろう友のような存在であり、定姫にとって姉・種姫が正にそうであった。
そうである以上、江戸城本丸大奥より招聘した奥女中では意味がないのである。江戸城本丸大奥の奥女中では到底、そのような役回りを期待することはできないからだ。
それよりも直に召抱えた方が良い、それも素朴、純朴な者が良いと、そうと考えた寶蓮院はそこで仙台藩主の伊達重村の室・年子を頼ることを思いついた。
寶蓮院が年子を頼ったのは外でもない、それは年子が寶蓮院の姪に当たるからだ。
寶蓮院は太政大臣を勤め上げた後、准三后にまで昇り詰めた近衛家久の娘であり、この家久の嫡男にして寶蓮院の実弟に当たる内前の娘こそが年子であった。
と言っても年子は近衛内前の実の娘ではなく養女であったが、それでも寶蓮院にしてみれば義理とは言え、大事な姪であることに変わりはなく、寶蓮院はこの大事な姪である年子を良く気にかけ、一方、年子もそんな寶蓮院を慕ったものである。
その年子は宝暦10(1760)年2月、15歳の折に仙台藩主・伊達重村に嫁したのだが、その前後も寶蓮院と年子との良好な関係は続いた。
それと言うのも伊達重村は寶蓮院の実の娘、それも宗武がもうけた最初の子にして女児であった誠姫と結ばれる筈であり、実際、重村と誠姫は婚約していた。
だが誠姫が重村と結ばれることはなかった。重村の許へと輿入れする直前の宝暦9(1759)年、誠姫は病に斃れ、18歳にしてその生涯を閉じてしまったのだ。
誠姫の実母である寶蓮院が大いに悲嘆に暮れたのは言うまでもない。
が、寶蓮院がいつまでも嘆き悲しむことはなかった。いや、心中では大いに嘆き悲しんだものだが、それを面に出すことはなく、気丈にも重村のために新たな「嫁探し」に奔走したものである。
この時…、宝暦9(1759)年の時点で寶蓮院には誠姫の外に仲姫と節姫をもうけていたのだが、しかし仲姫はこの時まだ御齢8つ、節姫に至っては御齢3つに過ぎず、これでは仲姫にしろ節姫にしろ、当時は17歳であった重村とは、
「釣り合いが取れない…」
というものであり、そこで寶蓮院はまずは側妾の登耶が宗武との間に最初にもうけた淑姫を誠姫に代わって重村の許へと嫁させてはと考えた。
淑姫はこの時、御齢15であり、御齢17の重村とは釣り合いも取れるというものである。
だが重村は加賀前田家に次ぐ、薩摩島津家と並ぶ外様の雄たる仙台伊達家の当主である、
その重村の許へと如何に御三卿の筆頭たる田安家の始祖である宗武の娘とは言え、正室ではなく側妾に産ませたその娘を果たして嫁させても良いものかと、とうの宗武が疑問の声を上げ、それに対して寶蓮院も言われてみればその通りやも知れぬと思い、何より登耶自身がまだ淑姫を手許においておきたいと、重村の許へと嫁させることを嫌がったために、
「淑姫を誠姫の代わりに…」
重村の許へと嫁させるという寶蓮院のその「プラン」は早々とご破産になった。
次いで寶蓮院が考え出した「プラン」こそが、
「義理の姪である年子を誠姫の代わりに…」
重村の許へと嫁させるというものであった。
年子は寶蓮院の実弟の近衛内前の養女にして、その実父は正二位権大納言まで昇り詰めた広幡長忠であり、養父たる内前はこの時、関白の地位にあった。重村の室としては正に、
「申し分ない…」
華麗なる経歴と言えよう。
また年子はこの時、14であり、年齢の点からも重村の室には申し分ないと言えた。
宗武も寶蓮院のこの次善の「プラン」には大賛成であり、そこで寶蓮院は内前と年子にこの「縁談」を持ち込んだのであった。
それに対して内前は生来、姉である寶蓮院に頭が上がらず、
「年子さえ良ければ…」
そう応じるのが精一杯であり、すると寶蓮院は内前のその答えを言質とし、次いで年子の気持ちを聞いてみた。
寶蓮院としては弟・内前より言質を引き出したとは言っても、年子の気持ちを無視するつもりはなかった。仮に年子が重村との縁談を厭えばその時は寶蓮院も重村と年子を娶あわせることを諦めるつもりでいた。
だが年子は重村との縁談を厭うことなく快諾したものである。
それに対して寶蓮院はホッとしたものの、しかし、もしかして己に対する遠慮から快諾してみせたのではあるまいかと、そのようにも思い、その旨、年子に確かめてみた。
すると年子は確かにそれもなくはない…、大事な伯母である寶蓮院が態々、己のために持ち込んできてくれた縁談を断っては申し訳ないとの気持ちもあるにはあるが、しかし、それ以上に重村と結ばれたいとの気持ちの方が強いと、そう応じたものであり、寶蓮院は年子のその、
「忌憚のない…」
気持ちを聞くことができたので、それで漸くに納得すると、今度は重村の気持ちを聞いてみた。すると重村も年子のその、
「華麗なる…」
経歴に大いに心惹かれたようで、やはり快諾したもので、こうした寶蓮院の奔走の甲斐あって、重村と年子は晴れて目出度く結ばれた次第であり、寶蓮院が定姫のことで年子を頼ることを思いついたのは斯かる経緯があったためであり、仙台という地方の田舎であれば定姫の姉代わりが務まる素朴、純朴な女子を見つけるのも、
「容易かろう…」
との思いから寶蓮院は年子を頼ることにしたのであった。
「出向者…」
それで占められており、その「セオリー」に従うならば、定姫の姉…、種姫の代わりとなるべき奥女中を新たに召抱えるとなれば当然、江戸城本丸大奥より適当なる者を招聘することになる。
だがそれでは意味がないと、「賢婦」たる寶蓮院は本能的に悟ったものである。
それと言うのも、江戸城本丸大奥より招聘した奥女中では例え、姉・種姫と同年輩であったとしても、極論、種姫と瓜二つであったとしても、定姫に傅き、それどころか心にもない「おべんちゃら」を口にするのは目に見えていたからだ。
そして定姫が求めているのはそのような者ではないと、寶蓮院には分かっていた。
定姫が心底、欲しているのは、
「気の置けぬ…」
つまりは何でも言い合える、時には喧嘩もするであろう友のような存在であり、定姫にとって姉・種姫が正にそうであった。
そうである以上、江戸城本丸大奥より招聘した奥女中では意味がないのである。江戸城本丸大奥の奥女中では到底、そのような役回りを期待することはできないからだ。
それよりも直に召抱えた方が良い、それも素朴、純朴な者が良いと、そうと考えた寶蓮院はそこで仙台藩主の伊達重村の室・年子を頼ることを思いついた。
寶蓮院が年子を頼ったのは外でもない、それは年子が寶蓮院の姪に当たるからだ。
寶蓮院は太政大臣を勤め上げた後、准三后にまで昇り詰めた近衛家久の娘であり、この家久の嫡男にして寶蓮院の実弟に当たる内前の娘こそが年子であった。
と言っても年子は近衛内前の実の娘ではなく養女であったが、それでも寶蓮院にしてみれば義理とは言え、大事な姪であることに変わりはなく、寶蓮院はこの大事な姪である年子を良く気にかけ、一方、年子もそんな寶蓮院を慕ったものである。
その年子は宝暦10(1760)年2月、15歳の折に仙台藩主・伊達重村に嫁したのだが、その前後も寶蓮院と年子との良好な関係は続いた。
それと言うのも伊達重村は寶蓮院の実の娘、それも宗武がもうけた最初の子にして女児であった誠姫と結ばれる筈であり、実際、重村と誠姫は婚約していた。
だが誠姫が重村と結ばれることはなかった。重村の許へと輿入れする直前の宝暦9(1759)年、誠姫は病に斃れ、18歳にしてその生涯を閉じてしまったのだ。
誠姫の実母である寶蓮院が大いに悲嘆に暮れたのは言うまでもない。
が、寶蓮院がいつまでも嘆き悲しむことはなかった。いや、心中では大いに嘆き悲しんだものだが、それを面に出すことはなく、気丈にも重村のために新たな「嫁探し」に奔走したものである。
この時…、宝暦9(1759)年の時点で寶蓮院には誠姫の外に仲姫と節姫をもうけていたのだが、しかし仲姫はこの時まだ御齢8つ、節姫に至っては御齢3つに過ぎず、これでは仲姫にしろ節姫にしろ、当時は17歳であった重村とは、
「釣り合いが取れない…」
というものであり、そこで寶蓮院はまずは側妾の登耶が宗武との間に最初にもうけた淑姫を誠姫に代わって重村の許へと嫁させてはと考えた。
淑姫はこの時、御齢15であり、御齢17の重村とは釣り合いも取れるというものである。
だが重村は加賀前田家に次ぐ、薩摩島津家と並ぶ外様の雄たる仙台伊達家の当主である、
その重村の許へと如何に御三卿の筆頭たる田安家の始祖である宗武の娘とは言え、正室ではなく側妾に産ませたその娘を果たして嫁させても良いものかと、とうの宗武が疑問の声を上げ、それに対して寶蓮院も言われてみればその通りやも知れぬと思い、何より登耶自身がまだ淑姫を手許においておきたいと、重村の許へと嫁させることを嫌がったために、
「淑姫を誠姫の代わりに…」
重村の許へと嫁させるという寶蓮院のその「プラン」は早々とご破産になった。
次いで寶蓮院が考え出した「プラン」こそが、
「義理の姪である年子を誠姫の代わりに…」
重村の許へと嫁させるというものであった。
年子は寶蓮院の実弟の近衛内前の養女にして、その実父は正二位権大納言まで昇り詰めた広幡長忠であり、養父たる内前はこの時、関白の地位にあった。重村の室としては正に、
「申し分ない…」
華麗なる経歴と言えよう。
また年子はこの時、14であり、年齢の点からも重村の室には申し分ないと言えた。
宗武も寶蓮院のこの次善の「プラン」には大賛成であり、そこで寶蓮院は内前と年子にこの「縁談」を持ち込んだのであった。
それに対して内前は生来、姉である寶蓮院に頭が上がらず、
「年子さえ良ければ…」
そう応じるのが精一杯であり、すると寶蓮院は内前のその答えを言質とし、次いで年子の気持ちを聞いてみた。
寶蓮院としては弟・内前より言質を引き出したとは言っても、年子の気持ちを無視するつもりはなかった。仮に年子が重村との縁談を厭えばその時は寶蓮院も重村と年子を娶あわせることを諦めるつもりでいた。
だが年子は重村との縁談を厭うことなく快諾したものである。
それに対して寶蓮院はホッとしたものの、しかし、もしかして己に対する遠慮から快諾してみせたのではあるまいかと、そのようにも思い、その旨、年子に確かめてみた。
すると年子は確かにそれもなくはない…、大事な伯母である寶蓮院が態々、己のために持ち込んできてくれた縁談を断っては申し訳ないとの気持ちもあるにはあるが、しかし、それ以上に重村と結ばれたいとの気持ちの方が強いと、そう応じたものであり、寶蓮院は年子のその、
「忌憚のない…」
気持ちを聞くことができたので、それで漸くに納得すると、今度は重村の気持ちを聞いてみた。すると重村も年子のその、
「華麗なる…」
経歴に大いに心惹かれたようで、やはり快諾したもので、こうした寶蓮院の奔走の甲斐あって、重村と年子は晴れて目出度く結ばれた次第であり、寶蓮院が定姫のことで年子を頼ることを思いついたのは斯かる経緯があったためであり、仙台という地方の田舎であれば定姫の姉代わりが務まる素朴、純朴な女子を見つけるのも、
「容易かろう…」
との思いから寶蓮院は年子を頼ることにしたのであった。
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