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第1話 パパはなんにも分かってない
分かってない その6
しおりを挟む玄関のドアが音を鳴らしたのは、十一時を過ぎた頃だった。集中できなかったマンガはとっくに本棚に返して、もう寝ててもいい時間だったけど今度は見るともなしにお笑い番組を見てた。
「おかえりー」
「ただいま、まだ起きてたのか」
「テレビ見てた」
リビングに入って来た背広姿に内心きゅんとしてるのは秘密で。
私は普通を意識して声を出す。
「これ、土産」
そう言うパパの手には、何やら袋。受け取って中を覗けば白い箱ーーーーケーキだ。
「タルト、明日までいけるらしいから」
「やったー」
美味しそう、と思って、お土産がうれしくて心が弾んだ。
でも。
「何か、最近人気のとこなんだと」
続いた言葉に、一転心は萎む。
誰かの気配を感じさせる発言だった。
人気のケーキ店なんて、パパの引き出しにはないはず。その情報は、誰からもらったの。
雨木はるか、という名前がまた頭を過って、胸を滅茶苦茶に掻き回す。
会ってたかどうかなんて分からない。証拠なんてない。ただの私の妄想だ。
でもこういう時、残念ながら女の勘は残酷なくらい当たる。
ふと脱がれた背広から漂ってきた匂いに、心がまた反応した。
「……甘い匂いがする」
「タルトが?」
「違う」
背広から、ふわりと香る匂い。そんなにキツくはない。でも明らかに女物と分かる甘く柔らかい匂い。
「香凛?」
匂いなんてどこでもつく。電車で隣になった人の香水がキツかったとかでも、背広に移るだろう。
「そういえばお前、もうすぐ誕生日だろ。そろそろ欲しいもの考えとけよ」
一瞬不思議そうな顔をしながらも、パパは話題を変えた。
あと半月しない内に、そう、私の誕生日が来る。
二十一の、誕生日。
「…………もう二十歳超えたよ。子どもじゃないからいいよ」
言ったら、パパは軽く笑って返してきた。
「何言ってんだ。十九も二十も二十一も大差ない。それに家族だろーが」
痛い。
パパにとっては十九も二十も関係ない。そもそもいくつになろうが関係ない。私はずっとこのポジションから抜け出せない。
例え首筋から甘い香りを漂わすようになったって、私は子どもだ。そういう対象にはならない。
痛くて、悔しい。好きって気持ちを持っちゃった自分が恨めしい。
「何でもいいはやめてくれよ。今時の女の子が欲しがるものなんててんで分からん」
女の子。
私は"女性"にはなれない。レディにはなれない。
いつもは抑え込める気持ちが、今夜に限っては吹き零れてしまいそうだった。
「香凛はあんま物欲しがんないだろ、二言目にはなくても大丈夫っつーだろ」
「そんなことないよ」
私には欲しいものがある。もうずっとずっと欲しくて欲しくて堪らないものが。
口に出さないだけだ。お腹の内は欲望でどろどろしてる。
パパはそれを知らないだけ。
「あるよ、精々アイス買うならハーベンにして~とかその程度しか言わん」
優しい笑顔が辛い。保護者の顔しか見せないパパが憎い。ほのぼのした空気しか流れない現実が、とても大事なものなはずなのに、壊してしまいたくて仕方がない。
「誕生日」
「うん」
「欲しいのある」
やめておけ、と頭の中で警鐘は鳴り響いていた。
そうだ、やめておくべきだ。
いつかは、ここを出て行くまでには言ってしまうつもりだったけど、でもそれが今じゃないってことははっきり分かってる。
でも。頭っていうのは、心をきちん躾られない。鎖に繋いで厳重に管理することなんてできない。
私の唇から、遂にその言葉は滑り落ちてしまった。
「パパが欲しい」
「ーーーーーーーー香凛?」
訝しむ声、寄せられる眉。でも、落とした言葉は戻らない。
「パパを私にちょうだい」
何言ってるんだ。
そう思った。滅茶苦茶だって。
でも、苦しいの。本心を一つも口にできないのは、分かってもらえないのは苦しい。
言った後にそれを上回る苦しみが待ってるって分かってたって、我慢がきかないくらいには苦しい。
「…………あぁ、あれか、一日オレを独占したいって? 良いよ、有休取ってどっか連れてってやろうか」
一瞬だけ考え込むような表情を見せたパパは、でもすぐにそう切り返してきた。
逃げ道を与えられてるのかもしれない。はぐらかされてるのかもしれない。
それは、もしかすると有難いことなのかもしれない。
でも。
「違う」
そうじゃない。一日じゃなくて、一日だけじゃなくて。
「半永久的に欲しいって言ってるの」
ずっとずっとずっと。私かパパが死ぬまでずっと。その隣にいられる、特別な席をちょうだいよ。
「香凛……」
パパの顔があからさまに強張った。
「何が、不安なんだ」
パパは言う。私のとんでもない要求に、まだ無理矢理解釈を当て嵌める。子どもの不安なんだと。
「香凛がここを巣立っても、香凛が望む限りここは帰って来て良い場所だし、オレだって保護者の立場は捨てない」
「嘘」
否定の言葉は間髪入れずに飛び出した。
「嘘じゃない」
パパに嘘のつもりがなくても、そんなの。
「嘘じゃなくても、無理だよ」
だって、私は何にも持ってないから。
この保護期間が終わってしまったら、胸を張って一緒にいられる手形を、何にも持ってない。
「私がここを出て行って肩の荷が降りたら、きっとパパは自分のこれからの人生を見直す。その先で誰かと結婚するかもしれない。結婚して、子どもが生まれてーーーーそれが、パパの手にするべき本物で正当性のある家族だよ」
私は、どこまでいっても非公式な存在だから。
「…………香凛、血の繋がりがないからって、何もかもを否定するのはよせ。本物とか、正当性とか、そういう言葉で自分を追い詰めるな。香凛は他人じゃない」
そんなことない、と叫ぶように言っていた。
私は、他人だ。どうしようもなく、他人なのだ。気持ちの問題だけでは、乗り切れない。世間的には、社会的には他人なのだ。
パパは分かってない。なんにも分かってない。
私の、どうしようもない不安を。
そして、私の本気の想いを。
「私、何の権利もない赤の他人だよ。邪魔者だよ。限りなく不自然な相手だよ」
パパが新しく家族を作ったら、とてもじゃないけど私はそんなところに割り入っていけない。それはあまりに無神経な行為だと、そう思う。
「それに、私が言ってるのはそういうことじゃないの。不安だからこんなこと言い出してるんじゃない」
ときめいたり、痛んだり、その両方できゅうっとなるこの胸は、家族の"好き"の枠をとっくにはみ出してる。
笑った顔が好き、優しい手が好き、私のワガママにしょうがないなって付き合ってくれるところが好き、寝起きのちょっと抜けた表情が好き。
忙しい毎日を支えたい、楽しいことを沢山共有したい。
頭を撫でられるんじゃなくその手で触れられたい。抱き締められたい。唇を合わせたい。全部全部、私をもらってほしい。
私の"好き"はそういう"好き"。
どろどろの要求がいっぱい詰まった、でも間違いなく"恋"という色に染められた気持ち。
本当はこんな八つ当たりみたいな感じで言いたくなかった。上手くいく可能性が皆無でも、大切に大切に伝えたかった。少しでも綺麗な思い出にしたかった。だけどもう、今更だ。
「私に、パパの隣にいる権利を保証してくれるなら、私をパパの特別にしてよ。パパのーーーー」
言ったら、終わっちゃう。
全部が滅茶苦茶になっちゃう。
私は後悔する。ものすごく後悔する。
知ってる。分かってる。だけどでもそれでもーーーー
「パパの恋人にしてよ」
言葉は、転がり落ちてしまった。
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