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第50話
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僕と佐賀美さんが現場事務所に着いたのは、作業開始時刻の十五分前だった。
いつもは必ず一時間前に到着するけれど、今朝は特別。
僕の体には佐賀美さんに今朝つけられた愛の痕が星空のように散らばっていた。
しかしこんな状況でも、頭の隅では不安が渦を巻いている。
僕を「今」は愛してくれているこの人が、もしかしたら会社を辞めて大学に再入学し、音楽の世界へ戻ってしまうのではないかと。 なぜなら、戻るとも戻らないとも、佐賀美さんは断言していないのだ。
僕から質問してもいいのだが、演奏会で見た、あの輝くような笑顔を思い出すと、どうしても聞く事ができなかった。
「では、乾杯!」
手に持ったワイングラスが、一斉にテーブルの上で舞う。
金曜の十九時。都心のイタリア料理店。
女性五人、男性六人。つまり、合コン。
本来なら、夜遅くまで残業し、それから会社の倉庫でピアノのレッスンを受けた後、佐賀美さんの部屋でいちゃついている。
それがどういう訳か、僕はおしゃれして、ワインなんぞを飲んでいる。
「藤沢。遠慮せずにバンバン食えよ」
女性に囲まれ、鼻の下を伸ばしている棚部が僕に声をかける――
両手首に内出血の痕をつけて現場事務所へ行った月曜の朝、案の定というか、予想通りというか、棚部が飛び上がらんばかりに驚いた。
「おい、その手首、どうしたんだ!」
「いやその、彼女の部屋でちょっと……」
佐賀美さんの手前、変な事も言えない。
「ちょっとでそんな縛られたような痕がつくのかよ! お前の彼女、SM趣味なのか?」
「違うよ。少し強く握られただけだよ」
「力の加減も分らん怪力なのか。しかも、またアレをこれ見よがしに、くっきりと」
僕の首筋のキスマークをじろじろと見る。
「まあ、これは愛情表現だから」
だってそうじゃないと、佐賀美さんが安心しないんだもの。
「あー、もうだめだ。絶対にだめだ。さっさと別れろ! そんな変な女」
斜め向かいでは、佐賀美さんがムッとしている。この状況、前にもあったような。
「本人も謝ったし、僕も気にしてないから」
「悠長な事を言ってる場合かよ。今度は骨を折られるぞ」
「大丈夫だよ。いいところもあるから」
「しっかりしろよ。それがデートDVなんだぞ。暴力を振るった後に優しくなるんだ。普通、男女逆だが、典型的じゃないか」
まずい。佐賀美さんの口がへの字になっている。ひどく気にしている証拠ようだ。
それにあれは、決して暴力ではない。反対に、僕が泣かせたようなものだから。
「これはゆゆしき問題だ。藤沢の危機だ。友として、助けなければいかん」
「大丈夫だってば」
「全然大丈夫じゃない! そうだ、おい、今週の金曜の夜、空いてるか」
「いや。その日は予定があるんだけど」
「もしかして、彼女とデートか」
「え? まあ……うん」
佐賀美さんに、きらきら星ケーキを作ってもらう約束だから。
「そんなもんすっぽかして合コンに来い。こっちの方が、ずっと生産的だ」
その言葉に佐賀美さんの右の眉が上がり、僕の背中に冷や汗が流れる。
「まともな女と一度、食事をした方がいい。俺の友達がセッティングした合コンなんだ」
「いや、せっかくだけど遠慮しとくよ。そういう所は、彼女が欲しい人が行くべきだし」
「無理をして新しい彼女を作れとは言わん。視野を広げるためだ。だから来い」
「でも」
心配して言ってくれているのだから、むげにも断れない。熱い友情にはありがたいが、今の状況では暑苦しい。さて、どうやって波風立てずに断ればいいものか。
「……行って来たらいいじゃないか」
妙に落ち着いた声で、佐賀美さんが口を挿んだ。
眉も知らぬ間に、平行になっている。
「気晴らしに、たまには美味しい物でも食べて来るのもいいもんだ。まともな女性達と、ゆっくりとな」
まともな女性達、という言葉を特に強調して言う。
「佐賀美さんも、ご一緒にいかがですか」
僕達の事情を知らない棚部が誘う。
「いや。俺はいい。では今週の金曜日だな? 二人とも定時に帰っていいから、楽しんで来なさい。健闘を祈るよ」
見事な演技。さすが小さい頃から舞台に立っているだけある。
しかし、その腹の内は計り知れない。これは絶対に裏がある。
「ありがとうございます。良かったな、藤沢。女は怪力よりも、優しい方がいいぞ」
「う、うん。では金曜日、行ってきます」
佐賀美さんの顔色をうかがいながら、僕は礼を言う。
「うむ」
物わかりの良い上司の表情で、佐賀美さんは大きくゆったりと頷いた――
そんな経緯で今、ここにいる。
男性陣は棚部の友達だけあって気分のいい人達。女性達も皆、可愛くて品もいい。
また、自分がゲイという自身の気質を受け入れた後なので、のびのびとくつろぎながら会話できるのが、とても気楽で清々しい。
合コンの出発前、佐賀美さんへメールで、〈一次会で抜けて部屋に行きます〉と送ったら、【俺に気を使わず、最後までいなさい】と返事も来たし。
けれど、がっちりと釘は刺された。【帰る時は電話すること。車で迎えに行く】と。
つまり、女性のお持ち帰りは絶対に許さん、という事だ。
そんなつもりはさらさらないが、酒も飲まずに僕の連絡を待っていると思うと、別の意味で落ち着かない。
いつもは必ず一時間前に到着するけれど、今朝は特別。
僕の体には佐賀美さんに今朝つけられた愛の痕が星空のように散らばっていた。
しかしこんな状況でも、頭の隅では不安が渦を巻いている。
僕を「今」は愛してくれているこの人が、もしかしたら会社を辞めて大学に再入学し、音楽の世界へ戻ってしまうのではないかと。 なぜなら、戻るとも戻らないとも、佐賀美さんは断言していないのだ。
僕から質問してもいいのだが、演奏会で見た、あの輝くような笑顔を思い出すと、どうしても聞く事ができなかった。
「では、乾杯!」
手に持ったワイングラスが、一斉にテーブルの上で舞う。
金曜の十九時。都心のイタリア料理店。
女性五人、男性六人。つまり、合コン。
本来なら、夜遅くまで残業し、それから会社の倉庫でピアノのレッスンを受けた後、佐賀美さんの部屋でいちゃついている。
それがどういう訳か、僕はおしゃれして、ワインなんぞを飲んでいる。
「藤沢。遠慮せずにバンバン食えよ」
女性に囲まれ、鼻の下を伸ばしている棚部が僕に声をかける――
両手首に内出血の痕をつけて現場事務所へ行った月曜の朝、案の定というか、予想通りというか、棚部が飛び上がらんばかりに驚いた。
「おい、その手首、どうしたんだ!」
「いやその、彼女の部屋でちょっと……」
佐賀美さんの手前、変な事も言えない。
「ちょっとでそんな縛られたような痕がつくのかよ! お前の彼女、SM趣味なのか?」
「違うよ。少し強く握られただけだよ」
「力の加減も分らん怪力なのか。しかも、またアレをこれ見よがしに、くっきりと」
僕の首筋のキスマークをじろじろと見る。
「まあ、これは愛情表現だから」
だってそうじゃないと、佐賀美さんが安心しないんだもの。
「あー、もうだめだ。絶対にだめだ。さっさと別れろ! そんな変な女」
斜め向かいでは、佐賀美さんがムッとしている。この状況、前にもあったような。
「本人も謝ったし、僕も気にしてないから」
「悠長な事を言ってる場合かよ。今度は骨を折られるぞ」
「大丈夫だよ。いいところもあるから」
「しっかりしろよ。それがデートDVなんだぞ。暴力を振るった後に優しくなるんだ。普通、男女逆だが、典型的じゃないか」
まずい。佐賀美さんの口がへの字になっている。ひどく気にしている証拠ようだ。
それにあれは、決して暴力ではない。反対に、僕が泣かせたようなものだから。
「これはゆゆしき問題だ。藤沢の危機だ。友として、助けなければいかん」
「大丈夫だってば」
「全然大丈夫じゃない! そうだ、おい、今週の金曜の夜、空いてるか」
「いや。その日は予定があるんだけど」
「もしかして、彼女とデートか」
「え? まあ……うん」
佐賀美さんに、きらきら星ケーキを作ってもらう約束だから。
「そんなもんすっぽかして合コンに来い。こっちの方が、ずっと生産的だ」
その言葉に佐賀美さんの右の眉が上がり、僕の背中に冷や汗が流れる。
「まともな女と一度、食事をした方がいい。俺の友達がセッティングした合コンなんだ」
「いや、せっかくだけど遠慮しとくよ。そういう所は、彼女が欲しい人が行くべきだし」
「無理をして新しい彼女を作れとは言わん。視野を広げるためだ。だから来い」
「でも」
心配して言ってくれているのだから、むげにも断れない。熱い友情にはありがたいが、今の状況では暑苦しい。さて、どうやって波風立てずに断ればいいものか。
「……行って来たらいいじゃないか」
妙に落ち着いた声で、佐賀美さんが口を挿んだ。
眉も知らぬ間に、平行になっている。
「気晴らしに、たまには美味しい物でも食べて来るのもいいもんだ。まともな女性達と、ゆっくりとな」
まともな女性達、という言葉を特に強調して言う。
「佐賀美さんも、ご一緒にいかがですか」
僕達の事情を知らない棚部が誘う。
「いや。俺はいい。では今週の金曜日だな? 二人とも定時に帰っていいから、楽しんで来なさい。健闘を祈るよ」
見事な演技。さすが小さい頃から舞台に立っているだけある。
しかし、その腹の内は計り知れない。これは絶対に裏がある。
「ありがとうございます。良かったな、藤沢。女は怪力よりも、優しい方がいいぞ」
「う、うん。では金曜日、行ってきます」
佐賀美さんの顔色をうかがいながら、僕は礼を言う。
「うむ」
物わかりの良い上司の表情で、佐賀美さんは大きくゆったりと頷いた――
そんな経緯で今、ここにいる。
男性陣は棚部の友達だけあって気分のいい人達。女性達も皆、可愛くて品もいい。
また、自分がゲイという自身の気質を受け入れた後なので、のびのびとくつろぎながら会話できるのが、とても気楽で清々しい。
合コンの出発前、佐賀美さんへメールで、〈一次会で抜けて部屋に行きます〉と送ったら、【俺に気を使わず、最後までいなさい】と返事も来たし。
けれど、がっちりと釘は刺された。【帰る時は電話すること。車で迎えに行く】と。
つまり、女性のお持ち帰りは絶対に許さん、という事だ。
そんなつもりはさらさらないが、酒も飲まずに僕の連絡を待っていると思うと、別の意味で落ち着かない。
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