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しおりを挟むノリの良過ぎた天知のお陰で茫然自失したのか、動かなくなった永。俺達はその横を急いで走り抜けて、会社迄全力疾走し、奇跡的に事なきを得た。
汗だくで帰ってきて上着を椅子の背もたれに掛け、シャツを肌に張り付かせてぜえはあ言ってたら課長に物言いたげに見られたけど、すいません。今それどころじゃなくきっつい。何年ぶりかの全力疾走、きっつい。
しかしその日は週末な事もあり、出来れば定時で上がりたかった俺は、その後何時も以上に頑張った。
だって、今夜は…。
一人暮らしの単身者用のマンションの部屋に帰って、小さなキッチンで麻婆豆腐を作っていたらインターホンが間を開けながら2回鳴った。でも出ないでいると、その内ガチャッと玄関の開錠音がして、彼が入って来た。
「ただいま。」
「おかえりなさい、央志さん。」
長身に趣味の良いオーダースーツ。撫で付けた黒髪、縁なしの眼鏡、その奥の切れ長の目が少し冷たそうな印象を与えるこの秀麗なイケメン男性こそ、現在の俺の彼氏、神崎 央志さんである。実はウチの課長でもある彼とは、会社では秘密のお付き合いだ。もう1年になる。
永の裏切りで何だか恋愛が億劫になり、見合いでもして結婚するかなと思っていた俺。央志さんはそんな風に心の疲れていた俺を、静かにゆっくり見守り、1年かけて口説き落としてくれた忍耐の人だ。
正直、女性でもなく、見た目も人並みで、取り柄といえば少々真面目な事くらいしかないような俺なので、何故彼のような人が恋愛感情を持ってくれたのかは未だにわからない。
それは遡ると、永にも言える事なんだけどな。
央志さんと付き合うようになって、俺は自分が結構傷ついていた事に気がついた。よりによって誕生日に公衆の面前で恋人を略奪されて、ショックを受けない筈がない。あんまりな茶番を見せられたからバカらしくなってダメージは軽減してたけど、一応ちゃんと永を好きだったから傷ついてたらしい。
じゃなきゃ、恋愛や人を信じる事を忌避したりしないよな、と今ならわかる。でもあの頃の俺は、凛にされた事なんかで傷ついた自分を認めたくなかったんだろうと思う。
何やかや、俺も深層心理では凛を下に見てしまっていたんだろうな。凛はそんな俺の侮蔑を感じ取って、俺を憎んでいたのかもしれない。だから、そんな凛の心の鬱積を晴らすのに、俺から永を奪う事が必要だったとしたら…それはもう、仕方ないなあ、なんて思った。
正確には、央志さんに包み込まれて癒されていく度に、そう思えるようになった。
毎週金曜日の晩に、俺の狭い部屋には央志さんが帰ってくる。最初は央志さんのマンションにお呼ばれしてたんだけど、綺麗で広過ぎて生活感が無いから落ち着かなくて緊張して寝られなかった。そんな事が何度か続いて、ある時央志さんは『湊の部屋に行ってみたい。』と言ったんだ。
だから、翌週は俺の部屋に呼んで一緒に鍋をした。
玄関から直ぐに廊下沿いにキッチンがあり、ベッドと少々の家電を入れたらいっぱいいっぱいの狭いワンルーム。ソファなんて洒落た物を置いたらそれこそ足の踏み場もなくなるような。
でも、央志さんはそれがとてもお気に召したらしい。
古くて、微かに隣の住人の咳払いも聞こえるくらい壁が薄い。だからセックスする時だって息をつめてすごく気を使わなきゃならないのに、それがまた良いとか言って。
自分じゃなくて俺が声を殺してるのを見るのが堪らないらしい。見た目と裏腹にドスケベなんだよね。
でも、そんな所も好きだ。
だから俺は、毎週金曜日だけは定時で上がって、少し残業してからウチに来る央志さんの為に料理を作る。
ゆっくり間の開いたインターホン2回は、合鍵を持っている央志さんが帰って来た事を知らせる合図なのだ。
料理が出来上がって、小さな丸テーブルに並べた。恋人の好物を2人で囲む、週末の食卓。
「何故言わなかったんだ?」
昼休み後に何故あんなに急いでいたのかと聞かれて、隠す事もないかと永が来た事を話した。昨夜の電話の件と合わせたが、勿論天知とのキスの事は言ってない。あれは不意打ちの事故みたいなもんだから、良いだろう。
「だって、央志さん忙しそうだったし。それにはっきり断ってカタがついたと思ってたから。」
「あー…ここ数日連絡出来なかった事は謝る。」
「別に責めてるんじゃないよ?央志さんが忙しいのは当たり前だし、会社では顔も見れてるしさ。」
数日、寝る前の連絡が途切れても週末の約束だけは今の所守られているんだし、俺には全然不満は無い。
だけど央志さんは難しい顔。
「やっぱり一緒に住むべきかもな。…美味い。」
辛さ控えめの麻婆豆腐を品良く口に運びながら、央志さんは目を伏せた。味わってる時の顔だな。
うーん、とても辛いのが苦手だなんて思えないクールビューティーだ。もの食む姿が美しい人って良いよね。育ちの良さがわかる。
「大丈夫ですって。
それにこの部屋じゃ、泊まりに来るのはともかく一緒には住めないですよ。」
「単身者専用だもんな。じゃあ、やっぱりウチに住まないか?…いや、今の部屋が気に入らないなら他を一緒に探しても良い。そうだな、ウチよりもう少し狭めの…。」
「…うーん、そうですねえ…。」
「やっぱりまだその気にはなれないか?」
「…。」
央志さんは何度か俺に同棲の打診をして来た事がある。
彼の人間性は信頼しているし、仕事の上でも尊敬してる。永とは比較にならないくらい、地に足が付いてる人だ。信じられる人だ。
でも、だからこそ俺が足を引っ張る訳にはいかないよなあと思ってしまう。
一緒に住めば、会社に住所も届出する事になるし、今は隠せていても何れ関係が何処からともなく知られてしまうと思う。
俺は良いんだ、別に知られても。
でも、央志さんは…。
若くして出世コースに乗ってる彼の経歴に傷をつけてしまう事にならないか、俺はそれが怖いのだ。
上手く揚がった春巻きをパリッと噛み切りながら、俺は央志さんを喜ばせてあげる返事が出来ない事を申し訳なく思った。
「…それはそうと、湊。」
「なに?」
「今日起こった事の内で、俺に隠している事は無いか?」
「え?」
持っていたご飯茶碗から目線を上げて央志さんを見ると、彼は普段あまり見ないような、とっても素敵な笑顔だった。
あれぇ~、何でガチ切れなのぉ~??
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