【R18】Life Like a Ring

深山瀬怜

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最終話 ガムテープ

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「ごめんね、しばらく連絡できなくて」
『いえ、それは全然良かったんですけど……』
「最近どうしてるの? 絵美に何も言わずに、あの部屋引き払ったことを
謝らなきゃなとは思ってたんだけど」
 兄が一人暮らしをしていた部屋は、年が明けてすぐに引き払った。絵美には何も言わずにやったので、もし絵美が部屋に行こうと思っていたなら、迷惑を掛けてしまっていただろう。
『ニュース、見たので……あれからは、そもそも行ってないです』
「そっか。見ないようにしてたから、どんな感じで報道されてるのかもわからないんだよね。新聞も見てないし」
『それは……あんまり見ない方がいいと思います。でもそれほど目立った報道はされていませんでしたけど』
「相手が家族だし、両方成人してるし、そんなものだよね」
 子供が起こした事件だったり、見ず知らずの他人を殺した事件であれば長い間報道されることもある。けれど殺した人間が自ら出頭して、しかも殺した相手が家族である今回のような事件では、地方ニュースで一度取り上げられればいい方だろう。
『あの……ニュースで言ってた動機って』
「本当のことは言ってないよ。でも……私が言わない限りは、あのままで裁判まで終わるんだろうね」
 母は本当の動機を言っていない。それは本当は許されることではないのだ。でも、母はどうしても、兄が妹に手を出すような人間だったということにはしたくなかったらしい。事実は確かにそこにあるのに、母にとっては世間の人にどう見られるかの方が重要なのだ。
『詩乃さんは……これからどうするんですか?』
「これから、東京に行くんだ」
『東京ですか?』
「東京に親戚がいて……でも、一人暮らしなんだけどね。頼れる人がそれなりに近いところにはいた方がいいとは思って。大学は休学扱いにしてもらって、編入試験に合格すれば、三年生からやり直しかな」
 この家も引き払う予定だ。誰も住まない家があっても意味はない。自分が生きるために必要なものだけを段ボールに詰め込んで、あとは処分するつもりだ。
『詩乃さん……思ってたより、落ち着いているんですね』
「……落ち着いてるかな。でもさ、人が死んだときってやることいっぱいあって……ゆっくり考えてる暇もないんだよ」
 今も、絵美と電話をしながら段ボールに蓋をしなければ、引っ越し業者が来る時間に間に合わないという状態になっている。ガムテープを十字に貼ろうとして、不意に兄が一人暮らしを始めたときのことを思い出した。
「絵美は、どこまで知ってるんだっけ」
『どこまでって……?』
「私と……お兄ちゃんがどんな関係だったか」
『えっと……何となく、肉体関係を持ってたのかな、とは思ってたんですけど』
「そう見えた?」
『……遼さんとそういうことをしたときに、一瞬「詩乃」って呼んだんです。無意識だったと思うんですけど。だから』
「違う女の名前呼ぶの、普通に最低だね」
 私がそう言うと、絵美はどこか困惑しながらも笑っていた。絵美は「自分が誘ったのだ」と言っていたけれど、それに応じておいて他の女の名前を呼ぶのは駄目だと思う。
「お兄ちゃんは……本当に、どうしようもない人だったよ」
 誰かに殺してほしいと思っていた。そのために、妹に手を出してしまうような人間だった。優しく見えても、どこかが壊れている人だった。でも壊れていても、目的のために非情になりきることができない人だった。中途半端で、だからこそ苦しかったのかもしれない。そんなどうしようもない、どこにも行けない人だった。
『私にとっては……優しい人でした』
「そうだね。……でも、お兄ちゃんがやったことは、正しいことではないよ。それに……保険を用意しておくとか、人のことを何だと思ってるんだって話だよ」
 殺意を抱いている人間も、意思のないナイフや拳銃のような凶器ではないのだ。絵美は巻き込まれてしまっただけだ。でも、彼女にとってそれがいい方向に働いてしまっている現状は確かにある。
「ねぇ、絵美。私はもう……こっちに戻ってくることはないと思うんだけど」
『……はい』
「だから無責任かもしれないんだけど……これだけは言っておきたいことがあるの」
 絵美は私の言葉を待っていた。けれど、上手く伝える方法が浮かばなかった。言葉を探しながら、私はノートと服が詰まった段ボールに蓋をする。
「家がしんどいと思ったら……ちゃんと逃げてね」
『詩乃さん……』
「うちみたいには、ならないでほしいから。多分……お兄ちゃんは、気付いてなかったのかもしれないけど」
 外から見ればおかしいとわかるものなのに、内側にいるとわからないものだ。兄と母の関係は歪んでいた。母は優等生の兄を愛していたのだろう。頭が良くて、真面目で、優しくて、家族思いで――だからこそ、私に手を出すという、自分が思っていた姿から著しく外れた彼のことを受け入れられなかった。きっと兄がずっと殺されたいと思っていたということを教えても、母は受け入れられないだろう。それが私は気持ち悪かった。理想だけを愛した母の目の奥にあった暗闇を、時々夢に見てしまう。
「大学の先生の知り合いのカウンセラーには話を通しておいたから、あとでその人の連絡先送るから。お試しだと思って一度会ってみてほしいんだ」
『ありがとうございます。そんなことまで……』
「私たちが、あなたを巻き込んでしまったから。一応、私も大人だしさ……大人には大人の責任があるんだよ。あとは純粋に……これ以上、先に進んで欲しくないから」
 ノートの中にいるのは、取り返しのつかないところまで進んでしまった人たちだ。絵美も動物を殺してしまってはいるけれど、人を殺してしまう前に、彼女を止めたいと思った。私が人を殺した彼らに憧れのような気持ちを抱いているのは事実だけれど、同時に彼らを止める手立てはなかったのかと考えていた。
 人を殺したいと思っていた。けれど人を殺すことが怖くもあった。恐怖が私を繋ぎ止めていた。でも人を殺したいのに殺していないという中途半端な状態は苦しくもあった。先に進むことはできず、かといって戻ることもできず、どうしようもない自分を持て余していた。だからこそ、何か答えが欲しくて少年事件の記事ばかりを集めていたのだ。
『詩乃さんはこれから……あの、東京行くってのはさっき聞いたんですけど、そうじゃなくて……』
「とりあえず、大学卒業するまでのお金はあるから……少年事件のことをもっとちゃんと勉強するつもり」
 兄は「世の中にはそれを研究している人もいる」と言っていた。その言葉は私を懐柔するためのものでしかなかったかもしれないが、嘘ではなかった。嘘ではなかったから、進む方向がわからなくなった私の道標になった。
「そこから先のことは……後で考えようと思って」
 自分勝手な理由で優しくするのなら、いっそ全部嘘を言ってくれればよかったのに。そうすれば最低な人だったと言ってしまえるのに。
 自分の荷物には封をし終わった。残ったのは一つの段ボールに押し込められた兄の遺品だけだ。
「そうだ。お兄ちゃんの家にあった絵美の荷物だけど……返すのはしばらく後になっちゃうけどいいかな?」
『大丈夫です。そもそも家にあるのが見つかると困るので……ちゃんと置ける場所が見つかるまでは』
「じゃあ私が持ってるね。欲しくなったら連絡して」
『はい』
 兄の遺品をまとめた段ボールの中にも、大したものは入っていない。一人暮らしの家にあった家電などは、そのまま私が使わせてもらうことにしたけれど、その他のものはあまり多くは残さないことにした。本やCDもほとんど売ってしまった。でも――兄を示すものがなくなったとしても、私は彼を忘れることはできないだろう。
『詩乃さん?』
「……ああ、ごめん。少しぼーっとしてた」
 あの日から、いや、母が兄を刺したあのときから、ずっと同じことを考えている。私は箱の一番上のケースを開けた。中には兄が使っていたアクセサリースタンドと、いつもつけていた指輪などが入っている。
(いや、いつもではないか)
 私の体に触れるとき、兄はいつもそれを外していた。兄が死ぬ前の日以外は。あのときは指輪を外す余裕すらなかったのだろうか。試しにその指輪を人差し指に嵌めてみるが、私の指にはそれは大きすぎた。
「こんな終わり方になるんなら……殺してあげるべきだったのかな」
 殺されたいと思っていたとしても、あんな終わり方を望んでいたわけではないだろう。むしろ自分の死に方についてはこだわりがあったのだと思う。人殺しが殺し方にこだわることもあるのだから。死に方にこだわる死にたがりがいても何も不思議ではない。
『でも、詩乃さんは……殺したくなかったんじゃないんですか?』
「殺すならお兄ちゃんだと思ってたよ。でも、私はそうしなかった」
『どうしてですか?』
「先に進むのが怖かったのもあるし、多分……実際に殺してみたら、虚しくなるんだろうなって」
 絵美ならわかるだろうか。彼女は既に猫を殺している。そのときに、彼女は何を思っているのか。
『……言い方はあまり良くないかもしれないですけど、終わってしまうとつまらないんですよね。殺したいと思っているときと、殺しているときはいいんだけど、まるで死体が私の熱を奪って行くみたいに感じたことはあります』
 もしかしたら宙ぶらりんの状態の方が、苦しいけれど幸福だったりするのかもしれない。一線を踏み越えた先には何もないのかもしれない。実際に踏み越えたことがないから正解はわからないけれど。
「それなら……殺さなくて良かったって、言えるのかな」
 私の殺意は、殺したい相手を失った。感情は宙に浮いている。この感情は永遠に満たされることはなくなったのだ。自分の手で殺せなかったこと、そして兄の望む形にはならなかったことは私に苦い後味を残した。――それでも、私の日々は続いていく。
「……多分さ、誰かを殺したいって気持ちが消えてなくなることはもうないと思ってるんだ」
 その感情は、強く私の中に焼き付いてしまっている。おそらくは絵美も同じだ。消えてなくなれば楽になれるのかもしれない。けれど対象を失ってなお、それが消えていないことに私は気付いていた。いつかは消えるものなのかもしれない。けれどそれがいつかはわからない。
「消えないのなら、これを抱えたままで生きていかなきゃいけないのかなって」
 自分が人を殺すかもしれないなんて、一度も思ったことがないような人たちの中に紛れて、自分が人と違うものなのではないかと思いながら、自分と同じような人たちに向けられる言葉に傷ついて、自分の居場所なんてどこにもないのではないかと思いながら。
 中途半端な状態は苦しいけれど、何かに引き止められて踏み出せないままで、私は。
『……そうかもしれないですね』
 絵美が静かに言う。私達は人殺しどころか、何者にもなれないままで、それでも否応なしに訪れる次の日の朝に溜息を吐く。未来に何かが見えるわけでもない。そこにあるのは不安定で苦い日常だ。
「どうしようもない、ね」
 かつて兄に投げた言葉が、自分自身に返ってくる。
 兄はどうしようもない人だった。自分の願望を殺すことはできず、かと言ってそれを実現するための計画だって穴だらけだった。憎しみを抱かせるなら全部を嘘にすればよかったのに、それはできなかった。妹に手を出しているくせに優しかった。けれど、どうしようもないのは私も同じだ。ブカブカの指輪を外して親指に嵌める。銀色が蛍光灯の明かりを反射して鈍く光った。
 沈黙を破るように、インターホンの音が鳴る。もう引越し業者が来てしまったらしい。私は引越し業者を家の中に通しながら、絵美に言った。
「ごめん、もう引っ越し業者が来ちゃったから切るね。落ち着いたらまた連絡するから」
『はい。どうか……お元気で』
 電話を切って、引っ越し業者に運び出すものの指示をする。家の中のものが次々とトラックに積まれていき、私がこれまでの人生を過ごした場所から物が消えていった。
「すみません、ここの箱も積みますよね?」
「あ、はい。ごめんなさい、ひとつだけまだ閉めてなくて」
 最後のひとつの段ボールにガムテープで封をする。これは多分、東京に持っていってもしばらく開けることはないだろう。少し皺になってしまったガムテープを直すふりをして、私はその表面を指でなぞった。
「これもお願いします。ちょっと重いですけど」
 若い男性が二人でそれを運んでいく。下ろしていた私の右手が、失われた温度を思い出したように微かに動いた。
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