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蒼き櫻の満開の下

3・美しく鮮烈な光3

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「……っ!」
 星音のバイクのエンジン音が聞こえなくなった瞬間、由真は待合室の床に崩れ落ちた。歩月が慌ててその肩を支える。
「ゆーちゃん、今どんな状態? 話せる?」
 由真は力なく首を横に振る。声を発してしまえば意識も何もかも飲み込まれてしまいそうだった。アズールに触れたときに見える幻覚。それが今、はっきりとした形を持って由真を襲っていた。悪夢と現実の境界が曖昧になって、正常な視界が蝕まれていく。
あげなさい。助けられるのは君だけなんだよ――』
 忘れたい声が頭の中で響く。由真は激しく首を横に振った。
『あの子はとても苦しんでいる。君ならあの子を楽にできる』
 それが何を意味するか、最初の一回で理解していたのに。それでも命じられるがままに、何度もそれを繰り返した。これが救いなんて欺瞞だ。楽になれるなんて都合のいい嘘だ。わかっていたのに、何度も、何度も。
「う……っ、やだ……いや……っ、もう……!」
 咲いた人間を殺すその瞬間の、嫌な感触を体がずっと覚えている。それがアズールによって増幅され、視界を支配する悪夢と結びついてしまう。
「ゆーちゃん!」
 歩月の声に、由真は一瞬我に返った。由真は縋るように歩月の手を握る。
「ゆーちゃん、動けそう?」
「無理……」
「じゃあ今からちょっと動けるようになるくらいまで力を使うから。かなり痛いと思うけど……」
 由真は頷き、歩月に体を預けた。歩月は由真の服の下から手を入れ、その背中に直接触れる。
「は、やく……歩月……」
 歩月は由真の背中に触れた手に力を込める。由真は悲鳴を押し殺すように歩月の服を強く噛んだ。針を使う方法よりも効率的に力を伝えられない分、力を使われている人の痛みは倍増する。修羅場をくぐり抜けてきた特殊部隊の人間でも叫び声をあげるほどの痛みを、十八歳になったばかりの少女が堪えているのだ。歩月は一瞬眉を寄せてから、ゆっくりと手を離した。
「っ……はぁ……」
「ゆーちゃん……動けそう? 車椅子持って来ようか?」
「やだ……離れないで、歩月……」
「じゃあ肩借りたら立てそう? 今のじゃ解毒しきれてないから……」
「ん……それなら、できる」
 由真は歩月に支えられながらゆっくりと診察室に向かい、診察台に倒れ込んだ。
「歩月……ごめんね……」
「なんで謝るの?」
「力使い過ぎると……疲れちゃうでしょ……?」
「今はそういうこと気にしないの。私はゆーちゃんに元気になって欲しくてやってるんだから」
 歩月は微笑みながら針を背中に刺していく。由真は少し安心したように息を吐いた。
「なんかもう眠くなってきた……」
「いいわよ、寝てて。目が覚めたら楽になってるからね?」
「ん……ありがと、歩月……」
 由真はゆっくりと目を閉じる。その数秒後に本当に寝息を立て始めた由真の頭を歩月は優しく撫でた。
「ゆーちゃん……こんな状態でも、戦う必要はあるの……?」
 そういう風にしか生きられないのであれば、それはあまりにもつらいことではないだろうか。歩月は針にそっと触れながら、憂いを帯びた目で由真のことを見つめていた。



 由真も寧々も出てしまっていて、或果は一人でアルカイドのカウンターの椅子に腰掛けていた。部屋にいてもいいのだが、何となくここで絵を描きたくなったのだ。誰もいない店内。四つ並んだサイフォンを眺めていると、いつもその近くにいる由真を思い出してしまう。手遊びのようにクロッキーに鉛筆を走らせていた或果は、カウンターの上に置かれた一枚の紙に気が付いた。左側に四角い枠が連なり、その中に絵が描いてある。その右側に書いてある文字は絵の説明なのだろうか。首を傾げながらそれを手に取った或果は、その絵と字が由真のものであることに気がついた。
「これ……もしかして絵コンテ……?」
 正直に言えば、あまりにも絵が下手すぎて体を成していないが、何をしたいのかはわかる。そういえば寧々が、最近由真は本宮緋彩の事件以降やたらと映画やドラマを見るようになったと言っていた。最初は本宮緋彩が出演しているものから始まって、徐々に手を広げているのだとも。
 もしかしたら、本宮緋彩が出演している作品を見ているうちに、それを作ることに興味が湧いてきたのかもしれない。これまで喫茶店の仕事と能力者絡みの事件解決のための戦闘に明け暮れていた由真が、それ以外のものを見つけ始めているのだとしたら――今は気が付かなかった振りをしていた方がいいのかもしれない。もっとそれが大きく育って、夢と呼べるようなものになるまで。
 けれど――能力者が夢を見るのは難しい世界でもある。能力者の映画監督や映像ディレクターは少ない。能力者を忌避して、その監督の作品には出演したがらない無能力者の俳優もいるほどだ。ただ夢を見ているだけなのに、挑む前に能力者だからと排斥されてしまう。或果はそれを身をもって知っていた。だから今は――まだ夢とも呼べないだろうこの淡い蕾を守っていたい。
 けれど小学生でももう少し描けるだろうと言いたくなるほどの下手な絵に、思わず笑みが溢れてしまう。こっそり清書なんてしたら怒られてしまうだろうか。或果はそんなことを考えながら鉛筆を走らせた。
 暫くすると、携帯電話から着信を知らせるメロディーが聞こえてきた。兄の創一からの電話だ。けれど或果は一旦はそれを無視した。ここ最近の事件の黒幕が創一であることは既に由真から聞かされている。自分の能力を狙っているとわかっている人の電話に出るはずがない。
 そのまま放置していると、諦めたのか電話が切れた。或果がほっと安堵の溜息を漏らした瞬間、店の窓ガラスが叩き割られる音が聞こえた。或果が身構えていると、鉄パイプを持った男が数人或果に向かってくる。男たちは皆一様に虚ろな目をしていた。意思のない目は操られている者の特徴だ。しかし或果もアルカイドの一員ではある。或果の左腕には、自分自身の能力で生み出した小型のクロスボウが装着されていた。威力はわざと落としている。けれど少しでも戦闘で役に立ちたくて、密かに試作を繰り返していたのだ。
「私だって……この力だって、戦えるんだから……!」
 自分にその力がないなんて甘えたことは言ってられなかった。無能力者の梨杏ですら戦うために体を鍛えているのだから。カウンターを盾にして、陰から攻撃を加える。狙うのは足だ。動きを封じるのが一番大事なのだ。前方の敵は呻き声を上げて床に蹲る。あと二人――そう思った瞬間、背後から手が伸びてきて口元に布を押し当てられた。意識が急速に遠のいていく。おそらく催眠系の能力――体から力が抜け、なすすべなく崩れ落ちる或果の姿を、いつの間にかやって来ていた創一が冷たく見下ろしていた。

「ここは……」
 或果が目を覚ますと、そこは薄暗く、窓もない、ただ広いだけの部屋だった。或果は体を起こそうとするが、すぐに体の自由が奪われていることに気がつく。青色の根が或果の体を抱きかかえるようにして、四肢を完全に拘束していた。
「目が覚めたようだね、或果」
「お兄様……これは……?」
「ここは屋敷の地下……いや、君の母上が生み出した青の桜の根元だよ。僕の能力でこの空間を作り出したんだ」
「どうしてここに私を……?」
 創一は或果の横にしゃがみ込み、長い髪を一筋掬い取った。
「父上は君の能力を大したことがないと言っていたようだが、僕からしてみれば愚かな話だ。空間支配能力を運用するための呪具を作るのに、これほど適切な能力はない」
「お兄様……」
「君の母上はこの青い桜を、世界にひとつしかない植物を作り出した。僕はそれを使って僕の能力を最大限に活かすことができる薬を作りたいと言ったんだ。でも君の母上には断られてしまってね。僕としては木だけが残っていれば何の問題もなかったから、君の母上には死んでもらった」
 笑みさえ浮かべながら創一が言う。創一の言葉は俄には信じがたかった。けれどそんな冗談を言う人ではない。全て本気で言っているのだとすぐに理解できた。
「やっぱりお兄様が……お母様を殺したの……?」
「その口ぶりだと、もう気付いていたのかい? うまく演技できていると思ったんだけどな。それか……アルカイドの仲間から聞いたのかな?」
「どっちでもいいでしょ、そんなこと。お母様は私のたった一人の家族だったのに……!」
「ふん。家族なんてものは、人生に満足できない弱いものが縋るだけの存在だ。それに今は……僕だって君の家族だろう、或果?」
 創一は或果の長い髪を一筋掬い、それに恭しく口付けた。気持ち悪い――心の底から或果はそう思った。
「お兄様は、何が目的なの?」
「僕はね、この国を、世界を変えたいんだ」
 創一は桜の根に軽く触れる。するとそれが何かの生き物のように動き出し、或果の首筋に刺さった。
「……う、お兄様……何を……っ!」
「或果には最高濃度のアズールをあげるよ。その力をもっと強めて、僕のために働いてくれ」
「私は……私はそんなことしたくない……!」
「だが君の夢は能力者だからと言ってあっさりと台無しにされてしまうだろう? でもおかしいと思わないか? 僕たちは能力を持っているはずなのになぜ虐げられなければならない?」
 或果は首を振った。能力者だからといって差別されるのは理不尽だ。生まれつきのもので、好きで能力者に生まれたわけでもないのに、ただ能力者であるだけで夢を見ることさえ許されないのだ。
「僕はね、能力者が支配する国を作りたいんだ。父上のように裏から支配するなんてまどろっこしいだろう? 僕たちは表の人間になるべきなんだ」
 どうして能力者と無能力者が手を取るという発想には至らないのか。誰もがそうだ。どちらかがいなくなればいいのだと嘯く人たちを、或果はたくさん見てきた。
「表の人間になり、この国を支配するのが僕の夢だ。幼い頃からずっと夢見てたことが、今ようやく形になろうとしている」
「私は……そんな計画に手を貸したくない……!」
「無駄だよ。アズールの侵蝕を拒める者はいない。それは強力な呪具となって、僕の能力の有効範囲を著しく広げてくれる」
「っ……いや……私は……!」
 突き刺さった根から何かが或果の中に流れ込んでくる。その度に体がふわふわと浮くような不思議な感覚に襲われた。心地よいか心地よくないかで言えば心地よいと思ってしまう。幸福感が頭を埋め尽くそうとするのに、或果は必死で抗っていた。
「君はあの喫茶店に出入りするようになってとても強情になった。けれどもう何も考えなくていい。全てを委ねてしまえば幸福なままでいられる。君は俺の言うことだけを聞いていればいいんだ」
「嫌……だって私は……」
 夢を見たかった。それがどんなに遠くても、彼方に光るものを掴むために走りたかった。その力をくれたのはアルカイドのみんなで――ずっと戦う背中を見続けてきた由真だった。
「君は本当に強情になった。それなら君にいいものを見せてあげよう。君の意識を染め上げて、もう何も考えられなくなってしまうほどのものをね」
 創一が指を鳴らすと、空間の一部が剥がれて全身をロープで縛られた怜士が現れた。これまで創一の能力で隠されていたのだろう。空間支配能力はその空間を自由にできる能力だ。けれど創一の力はそこまで強かっただろうか。或果は縛られ空中に磔にされた父と、柔らかな笑みでそれを見つめる兄を交互に見た。
「ここまで計画が進んだ以上、この能力の持ち主は二人はいらない。そして『女王』も不要だ。俺が能力者の頂点に立ち、全てを支配する――」
 創一はそう言って、桜の根を軽く撫でた。
 根が鋭い槍のように姿を変え、磔にされている怜士を串刺しにする。
「――!」
 或果が叫び声を上げた瞬間に、或果の首筋に突き刺さった根から冷たいものが一気に流し込まれる。青い根に貫かれた父の姿。噴き出した血の赤色。それを最後の景色にして、或果の意識が薄れていく。
「あんなものを見たら忘れられないだろう。それが君を蝕む呪いになる。――さあ、もうすぐ……君は僕のものになる」
 或果は体が重くなるのを感じながらもゆるゆると首を横に振った。誰かに支配されたくなんてない。このまま創一の思う通りになどなりたくない。けれど体を拘束され、思考まで奪われつつあるこの状況で、抗う術などなかった。
「由真……」
 でも、美しく鮮烈な光は遠くにまだ輝いている。或果はその光に向かって、震える声で懇願した。

「助けて、由真……」

 傷ついても戦い続けるその背中を、差し伸べられる傷だらけの手を、この世で最も美しいと思えるものを――或果は願った。
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