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8.水族館

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「きたきた」

待ち合わせ場所の水族館の前で、夏木が手を振った。

「おぃちゃ」

咲凪は駆け寄ることもなく、でも手を振って答える。

「咲凪ちゃん、元気か?」

「うん」

これには真顔で頷くが、

「ママから聞いてたよ。お魚さんに会うの、楽しみだったって?」

「うん」

今度ははにかむように笑いながら頷いた。

「じゃあ、会いに行こうか」

夏木が手を差し出すと、咲凪はその手を取った。

男性と女性に挟まれて楽しそうな軽い足取りで歩く女の子。

この3人は、きっと傍から見れば、家族なのだろう。

なんてことを、咲良は考えてみる。

もし夏木が父親だったら?

悪い気はしない。

特別な感情も現れないが。

ただ、嫌悪感が全くないのが、咲良は不思議だった。

「ままぁ?」

咲凪の声がした。

「ん?」

慌てて視線を落とす。

不思議そうな幼い目が映り、笑みを浮かべた。

「行こっか」

「うん」

咲良は再び咲凪の手を握った。



受付で幼児用のチケットを買おうとすると、夏木が財布を出した。

「わたしが出します」

「いいって。俺が誘ったんだし」

断る間もなく、夏木が支払いを済ませる。

「ありがとうございます」

咲良がお礼を言うと、

「あぃがとーごじゃましゅ」

咲凪がぺこりと頭を下げた。

意味がわかってやっているのだろうか。

それだけで、その場が和む。

「じゃあ、行こうか」

そうして3人は、並んで海の世界へと入っていった。



「……きれい」

咲良はつぶやいた。

水族館なんて何年振りだろう。

たくさんの魚たちが泳ぐ大水槽。

様々な魚たちがキラキラと輝き、ライトで青く染め上げられる。

まるで海の中にいるようだった。

「咲凪、綺麗だね」

そう見下ろしたところで、ハッとした。

「咲凪?」

咲凪が足にしがみついていた。

「咲凪ちゃん、どうかした?」

夏木もそれに気づき、すぐに膝を折る。

「……まぁまぁ」

「ここにいるよ」

たぶん、たぶんだけど、怖がっている。

母親の勘とでも言うのだろうか。

咲凪が何を思っているのか、わかってしまう。

「咲凪、怖いの?」

咲良も膝を折って、娘に視線を合わせる。

「……こわいぃ……」

咲凪は泣いていた。

「とりあえず場所を移動しよう。できれば魚が見えないところに」

咲良が頷くのを見て、夏木は咲凪を抱き上げた。

水族館内のカフェテリアで、咲良は娘を抱きしめる。

そばには咲凪が好きなリンゴジュースを置き、落ち着くのを待つ。

ひっくひっくと、小さな身体が波打つのが、苦しい。

「咲凪、何が怖かったの?ママに言える?」

あんなに楽しみにしていた水族館。

魚料理に抵抗ていこうを示したこともない。

何が娘を怖がらせてしまったのか。

その原因を知りたくて、気持ちが焦ってしまう。

「おしゃかにゃしゃん……うどいてちゃ……っ」

咲凪はしゃくりあげながら答えてくれた。

「動いてた?動いてたのが、怖かった?」

「佐山」

勝手に焦ってしまう気持ちを、夏木が一言で止める。

「咲凪ちゃん」

そして、夏木は椅子のそばに座ると、呼びかけた。

「咲凪ちゃんは、ご飯を食べる時、いただきますって言う?」

「……ん」

「ごちそうさま、は?」

「ん」

どちらもちゃんと言っている。

こども園で教わったから、と。

「偉いな」

夏木は咲凪の頭を撫で、続けた。

「咲凪ちゃんもさっき見たと思うけど、ご飯になる前のお魚さんって、生きてるんだ」

咲良も黙って夏木の言葉を聞く。

「生きてるってことは、命があるってことなんだよ」

咲凪を産むときに、命については何度も考えた。

「ご飯を食べる前のいただきますって言葉は、命をいただく、お魚さんの命をもらうってことなんだ」

「……ん」

夏木の咲凪への言葉を聞きながら、咲良も話さなければと思っていた。



「咲凪、今日のお話は、ママが決めてもいい?」

その日の夜、まだ落ち込み気味の娘に、咲良は声をかけた。

咲凪は頷いて、母の腕の中に収まる。

「今日はびっくりしたね」

「……びっくぃ、ちた」

「ママね、咲凪に大切なお話があるの」

「なぁに?」

咲凪の真っ直ぐな視線に応えるように、咲良も娘を真っ直ぐに見つめる。

「今日は、夏木のおじさんに、お魚さんには命があるよって教えてもらったね」

「うん」

「お魚さんにも命があるように、咲凪にも、ママにも、命があって。命って、とっても大切なものなの」

「ちゃいせちゅって?」

「大切っていうのは……この世界で何よりも守らなければいけないもの、かな」

子どもがわかる言葉というのは難しい。

どんなに易しい言葉を使っても、伝わらなければ意味がない。

だから、咲凪のどんなに小さな疑問にも答えなければいけない。

「ママね、咲凪には、どんなに小さな生き物も、命あるものを大切にしてほしいって、思う」

「やしゃしくしゅる?」

「そうだね。幼稚園のお友達にも、先生にも、猫ちゃんやわんちゃんにも、優しくしてほしいな」

「わかった」

「ママと約束できる?」

「やくしょく」

約束と聞いて、咲凪が差し出してきた小さな小指に、咲良は自分のを絡ませた。

「優しくするものの中には、咲凪自身も含まれてるからね」

最後に、一番大切なことを伝え、咲凪は真面目な顔で頷いた。

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