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また本社に戻ったころには夜8時を回っていた。取るものもとりあえず出て行ったおかげで、デスクの上の書類はそのままだ。いや、出たときより増えている。俺はイスに腰掛けると、ただそれをぼんやり眺めていた。
まだ現実感などない。明日クラブハウスに顔を出せば、いつものように澪に会えるんじゃないか。そんな気さえする。けれど、現実は違う。シャツの胸ポケットから、一枚のメモを取り出すと、それに視線を落とす。
澪が運ばれた総合病院の名前。そして、部屋番号。帰り際、戸田さんから差し出されたものだ。
『明後日に手術する。そう難しいものじゃないから安心して。大事を取って1週間ほど入院するから、顔を見せてやって欲しい。きっと喜ぶ』
もちろん、仕事の上でも見舞いに行くのは当たり前だ。けど、どんな顔すりゃいいのかわからない。それに、今持っている仕事はこの1週間が山場。その上ソレイユのスケジュールの再調整。ほんの5分病院へ向かうのに、どこからどう時間を作り出すか。考えただけで頭が痛い。
それでも……
「やるしかねぇか」
俺は顔を上げると、パソコンに向かった。案の定、紙だけでなくメールも山のようにきている。これを1週間、いや1週間以内に片付けなくてはならない。
これ以上、不測の事態は起こらないでくれよ?
祈るような気持ちで仕事に取り掛かる。そこから俺は、寝食も忘れ仕事に没頭していた。
そして、明日の午前中には退院すると聞いていた日の前日。休日返上で働いた俺が病院に着いたのは、あと15分ほどで面会時間も終わる、というころだった。
会社の代表として見舞いに行った部長やソレイユの監督からは、元気にしていた、とは聞いていた。
俺は、はやる気持ちを抑えながら病院に入ると手続きを済ませ、澪のいる病室に向かった。見舞いの品なんか買う余裕もなく、とにかく顔を見たらそれを謝ろうと思っていた。
聞いていた部屋の前まで辿り着くと、一旦呼吸を落ち着ける。部屋は個室で、その扉は開いていた。廊下から覗くと、奥にはカーテンのひかれている。
そこに向かおうと一歩踏み出したとき、その奥から話し声が聞こえてきた。
「本当に……いいのかい?」
聞き覚えのある穏やかな口調は戸田さんだ。そしてそれに「……はい」と澪は弱々しく返事をしている。
「僕はリハビリだってサポートするつもりだ。チームでも、それ以外でも。君がいいなら、一生……」
そこまで聞くと、俺は気配を消したまま部屋をあとにしていた。
どう歩いたのかわからない。気がつけば駐車場に戻り、自分の車に乗り込むと、ハンドルに突っ伏していた。
今のは……
聞いてしまったさっきの会話を頭の中で反芻してみる。
一生っつったよな。あんな台詞、まるで……
「……プロポーズかよ」
そう思ったから逃げ出した。澪がそれに、何と答えたかなんて聞きたくなかった。
ふと腕時計が目に入ると、もう面会時間は過ぎている。結局一目すら見ることもなく去ってしまった自分が情け無い。
はぁ、と車内に響く虚しくなるような溜め息。それを聞きながらハンドルを握りしめた。
バカ……だよな、俺は。少しでも、自分に気があるんじゃないかなんて、そんなことあるわけないだろう。澪にとって、俺はただの同僚。それ以上でもそれ以下でもない。
こんなこと、グダグダ考えてもしかたねぇだろ……
自分を叱咤するように言い聞かせると俺は顔を上げエンジンをかける。
まだ俺にはしなきゃならねえことがある。恋なんかに、うつつを抜かしている暇など、ないのだから。
それからしばらくは、記憶がない。正確には、仕事以外に何をしていたのか、の。
次は6月末にある総会に向け動き出していた5月の終わり。俺はそれを部長室で、他人事のように聞いていた。
「枚田選手だけどね、正式に退部、退社が決まったよ。残念だ」
少し前に萌と打ち合わせをしたときそんな話は出なかった。もちろん戸田さんからも。そして、本人からも何も聞いていない。
連絡しようと思えばいくらでもできるはずなのに、俺からは一切連絡を取らなかった。取る勇気など出なかった。そして、澪からも同じようになんの音沙汰もなかった。メッセージアプリのタイムラインは、4月の頭で途切れたままだ。
「そう……ですか。記者発表の準備を進めます」
「あぁ、そうしてくれ。それから、本来なら引退セレモニーも考えるところだが、本人のたっての希望でね。迷惑をかけたから静かに去らせて欲しい、だそうだ」
俺はギュッと拳を握る。爪が食い込もうがお構いなしに。
「部長は、会ったんですか? 枚田選手に」
「いや。本社には来ていないよ。社長が直に会って、退部を了承したそうだ。まぁ、親戚だからその辺りは融通が聞いたんじゃないかな」
残念そうではあるが、部長はそう気には留めていないようだ。すでにチームは来シーズンに向け、新体制で動いている。退社していく選手など今までもいた。だから、いつもと変わらないのだろう。
だが、俺の胸には苦いものが広がっていっている。そんな気がした。
まだ現実感などない。明日クラブハウスに顔を出せば、いつものように澪に会えるんじゃないか。そんな気さえする。けれど、現実は違う。シャツの胸ポケットから、一枚のメモを取り出すと、それに視線を落とす。
澪が運ばれた総合病院の名前。そして、部屋番号。帰り際、戸田さんから差し出されたものだ。
『明後日に手術する。そう難しいものじゃないから安心して。大事を取って1週間ほど入院するから、顔を見せてやって欲しい。きっと喜ぶ』
もちろん、仕事の上でも見舞いに行くのは当たり前だ。けど、どんな顔すりゃいいのかわからない。それに、今持っている仕事はこの1週間が山場。その上ソレイユのスケジュールの再調整。ほんの5分病院へ向かうのに、どこからどう時間を作り出すか。考えただけで頭が痛い。
それでも……
「やるしかねぇか」
俺は顔を上げると、パソコンに向かった。案の定、紙だけでなくメールも山のようにきている。これを1週間、いや1週間以内に片付けなくてはならない。
これ以上、不測の事態は起こらないでくれよ?
祈るような気持ちで仕事に取り掛かる。そこから俺は、寝食も忘れ仕事に没頭していた。
そして、明日の午前中には退院すると聞いていた日の前日。休日返上で働いた俺が病院に着いたのは、あと15分ほどで面会時間も終わる、というころだった。
会社の代表として見舞いに行った部長やソレイユの監督からは、元気にしていた、とは聞いていた。
俺は、はやる気持ちを抑えながら病院に入ると手続きを済ませ、澪のいる病室に向かった。見舞いの品なんか買う余裕もなく、とにかく顔を見たらそれを謝ろうと思っていた。
聞いていた部屋の前まで辿り着くと、一旦呼吸を落ち着ける。部屋は個室で、その扉は開いていた。廊下から覗くと、奥にはカーテンのひかれている。
そこに向かおうと一歩踏み出したとき、その奥から話し声が聞こえてきた。
「本当に……いいのかい?」
聞き覚えのある穏やかな口調は戸田さんだ。そしてそれに「……はい」と澪は弱々しく返事をしている。
「僕はリハビリだってサポートするつもりだ。チームでも、それ以外でも。君がいいなら、一生……」
そこまで聞くと、俺は気配を消したまま部屋をあとにしていた。
どう歩いたのかわからない。気がつけば駐車場に戻り、自分の車に乗り込むと、ハンドルに突っ伏していた。
今のは……
聞いてしまったさっきの会話を頭の中で反芻してみる。
一生っつったよな。あんな台詞、まるで……
「……プロポーズかよ」
そう思ったから逃げ出した。澪がそれに、何と答えたかなんて聞きたくなかった。
ふと腕時計が目に入ると、もう面会時間は過ぎている。結局一目すら見ることもなく去ってしまった自分が情け無い。
はぁ、と車内に響く虚しくなるような溜め息。それを聞きながらハンドルを握りしめた。
バカ……だよな、俺は。少しでも、自分に気があるんじゃないかなんて、そんなことあるわけないだろう。澪にとって、俺はただの同僚。それ以上でもそれ以下でもない。
こんなこと、グダグダ考えてもしかたねぇだろ……
自分を叱咤するように言い聞かせると俺は顔を上げエンジンをかける。
まだ俺にはしなきゃならねえことがある。恋なんかに、うつつを抜かしている暇など、ないのだから。
それからしばらくは、記憶がない。正確には、仕事以外に何をしていたのか、の。
次は6月末にある総会に向け動き出していた5月の終わり。俺はそれを部長室で、他人事のように聞いていた。
「枚田選手だけどね、正式に退部、退社が決まったよ。残念だ」
少し前に萌と打ち合わせをしたときそんな話は出なかった。もちろん戸田さんからも。そして、本人からも何も聞いていない。
連絡しようと思えばいくらでもできるはずなのに、俺からは一切連絡を取らなかった。取る勇気など出なかった。そして、澪からも同じようになんの音沙汰もなかった。メッセージアプリのタイムラインは、4月の頭で途切れたままだ。
「そう……ですか。記者発表の準備を進めます」
「あぁ、そうしてくれ。それから、本来なら引退セレモニーも考えるところだが、本人のたっての希望でね。迷惑をかけたから静かに去らせて欲しい、だそうだ」
俺はギュッと拳を握る。爪が食い込もうがお構いなしに。
「部長は、会ったんですか? 枚田選手に」
「いや。本社には来ていないよ。社長が直に会って、退部を了承したそうだ。まぁ、親戚だからその辺りは融通が聞いたんじゃないかな」
残念そうではあるが、部長はそう気には留めていないようだ。すでにチームは来シーズンに向け、新体制で動いている。退社していく選手など今までもいた。だから、いつもと変わらないのだろう。
だが、俺の胸には苦いものが広がっていっている。そんな気がした。
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