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第二章 祝言と黒い猫

10 初夜【3】

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(嬉しい。やっぱり……やっぱり、ここに、いて欲しい)

 ぼろぼろっと涙がこぼれ出す。
 恥ずかしいだなんて、思っている余裕もない。

 みゆきは必死にしゃくりあげながら続ける。

「いくらあなたの言いつけでも、ここから逃げたら、私、絶対に後悔、します。あなたがいないほうが、耐えられない。貴明さんは、変わったのかもしれない。でも、でも、きっと、変わってないところも、ある……」

 そうだ。
 雪の中で抱きしめられたとき、貴明からは懐かしい匂いがした。
 嗅ぎ慣れない匂いの奥で香っていた郷愁の香りは、ずっと変わらないもの。
 自分を守り、慈しむように抱いてくれた腕も、貴明のもの。

 だから、みゆきは顔を上げる。

「私、逃げません」

 涙でぼやけた貴明が、みゆきを見つめているのがわかる。
 無言のまま、彼の腕が伸びてくる。
 何をされるのだろう、と、みゆきの鼓動は早くなる。

(逃げない。絶対に、逃げない)

 自分に言い聞かせ、みゆきは挑むように貴明を見つめた。
 彼の指が頬に触れ……みゆきの後れ毛を、そっと耳の後ろへかける。
 敏感な耳朶を指がかすめ、みゆきはぴくりとした。

 貴明は気付いているのか、いないのか、丁寧にみゆきの髪を整えている。
 その手の動きが頭の形を確かめるみたいに髪を撫で始めたので、みゆきは少々うっとりとしてしまった。

(気持ちいい……ものすごく優しくて、繊細な、貴明さんらしい指)

 そう思っていると、もう片方の手で、とん、と胸の真ん中を押された。

「あっ」

 大した力は加わっていないのに、みゆきはぐらりと後ろへ倒れる。
 貴明はみゆきの後頭部をそっと支え、丁寧にみゆきを布団へ横たえた。

(ひえ……)

 あんまりにも自然に押し倒されてしまい、みゆきは再び緊張した。
 貴明が見下ろしてくる。
 ぱらりと落ちてきた長めの前髪がかかると、彼の顔は少し幼く見えた。

(あ、そうか、私が逃げないなら、初夜の続きをする……そういう、こと?)

 貴明の青光りする目が細められ、唇が物言いたげに薄く開く。
 あの唇がどれだけ柔らかいか、みゆきは知っている。
 けれど、さっき見た彼の姿は、骨で。
 なんであんなものが見えたのか、わからなくて。

(どうなるんだろう、これから)

 みゆきの頭はゆるゆると混乱し始める。
 ここから逃げられないのは、確かなこととして。
 これから自分は、どうしたいのだろう。
 貴明はどうしたいのだろう。

 どうすれば、いいのだろう……。

「今日は、少し疲れたね」

 不意にそんなことを言われ、みゆきは大きく瞬いた。

「あ……貴明さん、お疲れですか?」

 聞いてみてから、愚問だと気付いた。
 貴明は戦地から昨日帰ってきたばかりなのだ。
 貴明はみゆきから手を離すと、そのままするりと自分の布団に入ってしまった。

「――今日は眠ろう。おやすみ、みゆき」

 背を向けてそう言われてしまうと、みゆきにはどうにもならない。
 さみしいような、切ないような、ほんの少しだけほっとしたような気分だ。
 しばらく貴明の背中を見守ったのち、みゆきも自分の布団に入った。

「……おやすみなさい」

 小さい声で囁きかけて、布団を目の上の位置までかぶる。
 しばらくそうしていてから、みゆきはひょこりと布団から顔を出した。

「あの、貴明さん」

「なに?」

 貴明は振り返らないが、みゆきは気にせず声をかけた。

「寒くはないですか?」

「……ああ。大丈夫だよ」

 ためらいがちだったけれど、貴明の返事はあった。
 すぐ隣から、大丈夫だよと言ってもらえた。
 ひとまず貴明は自分の横にいて、寒くはない。

(今は、それだけ。そのことだけを、考えよう)
 
 みゆきはそうやって自分に言い聞かせる。

「なら、私も大丈夫です」

 そう囁いて、みゆきは布団の中に潜り込んだ。
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