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第五章 幸せの刻限

39 天啓

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 息を呑むみゆきの視線に気付いているのかどうか。
 貴明は数回匙を口に運んでから、ほとんど独り言のように言う。

「美味しい……が」

「が……?」

 我知らず、身を乗り出すみゆき。
 貴明は小さく息を吐き、匙を置いた。

「不思議だね。それ以上に、安堵する」

「安堵、ですか?」

 拍子抜けして、みゆきは聞き返した。
 安堵というのは、どういう評価なのだろう。
 口に合わなかったというわけではないのだろうが、よくも悪くもないのだろうか。
 みゆきが固唾を呑んで沙汰を待っているのに気付いたのか、貴明は視線を上げてふわりと笑った。
「ああ。あなたの作ったものは、不思議なくらい安心する。ひと匙食べるごとに、体の芯の凍っていたところが溶けていくようだ」

(貴明さんだ)

 みゆきはわずかに目を瞠り、貴明に見とれた。

 ――今の顔。今の笑い。
 どこからどうみても、貴明だった。

 いや、元から貴明は貴明なのだが、そういう意味ではなくて、みゆきの中の貴明像とぴったり重なる、穏やかできれいな笑みだった。帰ってきてからずっと、薄い雲のように彼の顔を陰らせていた死の憂いが追い払われて、顔色すらも少しよくなった気がする。

(ひょっとして、美味しいもので生気が戻った?)

 まさか、そんな奇跡があるのだろうか。
 藁にもすがる思いで、みゆきは貴明の顔を見つめてしまう。

 けれどもちろん、この世に軽々しい奇跡などありはしない。すぐにまた彼の顔色は陰ってしまった。
 青白い肌は名人の作った人形のように美しく、紫がかった唇はすでに多くを失ってしまったひとの笑みを浮かべる。

「いっそこのまま、何もかもが溶けて消えてしまえばいいのにね」

 戯れるような言葉の奥に、彼の本心があるのがよくわかった。
 みゆきだって同じことを年中考えるから、よくわかった。
 彼が叶わぬ夢を口に出していることも、今の自分たちは、叶わぬ夢をみることくらいしかできないことも。
 みゆきは胸にすうっと風が通るような気持ちで、かすかに微笑み返す。

「奇遇ですね。……私も、同じことを思っております、貴明さん」

 同じ事を思っている。同じ絶望を抱えている。
 目の前にあるのは温かく穏やかな食卓だけれど、一枚皮を剥がせば地獄がある。
 それでも、笑わなければならない。
 笑って、平然とここに座り続ける。

 そのことに耐えきれなくなったら、手を伸ばす。
 手を伸ばして、まだ貴明がそこにいることを確かめて、引き寄せて、引き寄せられて、体を重ねる……。
 それしか、できない。
 それしか。

 みゆきは、深い井戸の底にいるような、奇妙な心持ちになる。
 世界が不思議なくらい遠くなって、暗く、静かなところにいるような気持ちに。
 これが絶望なのだろうか。

 そう思ったとき、みゆきの脳裏に、昼間の講義の話が蘇る。

 ――死神は八百万の神々の一柱ではない。閻魔大王の手下であるとも言われるが、別に神話に語られたものでもないしな。おそらく原典は、この話に出てくるような冥府の小役人であろう。

 先生は、どうしてあんな話をしたのだろうか?

 くわしい授業の流れは覚えていない。ただ、あの死神の話だけが耳に飛びこんで来て、いつまでも残っている。

(そもそも……死神って、一体何者なのだろう? 貴明さんの死を待っているはずなのに、どうして私のところへ来たのだろう? 小役人のようなものなら……話し合いの余地は、ある?)

 そこまで考えると、みゆきの心臓は急に息を吹き返したようになってきた。
 死神に与えられた運命は揺るがない、というのが、この絶望の根っこ。
 不安の根っこ。
 もしも、万が一にも、その根を掘り返して、取り除くことができたなら?

 ――死神と交渉する。帰ってもらう。もしくは……倒す。
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