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第六章 死神を斬る
55 百日目【2】
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すっかり見慣れた姿に変わった『それ』――死神は、戯れるように続けた。
「これであの子には遺族年金が入る。よかったですねえ。あの子の横には、ちゃんとあの子のことを好きな男もいますし、幸せになりますよ。というより、もう、あの子は幸せです。わたしが保障します」
「黙れ」
貴明は、淡々と低い声を出す。
死神は唇に三日月の笑みを浮かべると、ぱんっ! と一回手を打った。
その瞬間、貴明の視界は暗転する。
さっきまで目の前に広がっていた連絡船の光景は消え去り、辺りは闇だ。
木と、埃と、オイルの匂いがする、真っ暗な世界。
見えるものといえば、遠くに灯った光だけ。
あれは……ランプだろうか?
ランプの下に、誰かの姿があるような気がする。
倒れ伏した、女の姿……。
みゆきだ。
(幻だ)
ざわり、と騒いだ心をねじ伏せ、貴明は息を潜める。
暗闇の中、みゆきは精魂尽き果てた様子で伏せっている。
そこへ、ぼんわりと新たな光が近づいてきた。
ランプを持った男がやってきたのだ。
派手な羽織にくしゃくしゃの髪。六朗だ。
六朗はみゆきに明かりをさしかけると、びっくりした顔で何事か声をかける。
みゆきはのろのろと顔を上げ、助けを求めるように、六朗に手を伸ばす。
六朗はランプを置き、迷いなくみゆきの体を抱きしめる。
みゆきも必死に抱き返す。
二人の唇が重なる。
体が重なる。
じりじりとランプが照らす中、二人は獣のように相手を求め始める――。
貴明は小さく息を吐く。
そして、抜刀した。
かすかな擦過音だけを立てて、刀が空を切り裂く。
ぴっ、と、浅く肉を斬った感触。
(薄皮一枚)
貴明は冷たい金属の色の瞳をこらす。
あっという間に先ほどまで見えていた淫靡な光景が消え去り、雪が横殴りに降ってくる。
死神が笑顔のまま大きく跳びすさる。
その胸辺りは、確かに斜めに切り裂かれている。
「あらあら。あれだけこだわった割りには、案外あの女に情がないんですねえ」
貴明は答えず、容赦なく踏みこむ。
ひゅ、と刀が寒風を切り裂き、死神を追う。
死神は人間と言うより猿か何かであるように、ひらひらと跳んで刀を避けた。
普通の人間ならば、軽業じみた動きに目を奪われ、絶望したかもしれない。
だが、貴明は不思議なくらい死神の動きに幻惑されなかった。
(帝都ではわからなかったことが、ここならわかる)
ひとが近くにおらず、雪と海、石炭の臭い以外がほとんどないここなら、死神がどこにいるか、どこにいくか、直感的に分かる。
最低限の動きで死神を追い、予測し、攻撃を繰り出すことができる。
「ぐぅっ……!」
下から斬りあげた刃が敵のすねを斬り、どさり、と死神が甲板に転がった。
死神は顔に笑みを張り付けたまま座りこみ、貴明を見上げて軽く片手を挙げる。
「ああ、素晴らしい腕だ……素晴らしいですよ、あなたは。でもね、死神を殺してどうなると思います? それでまた、あなたの寿命が延びるとでも? そんなわけがないじゃありませんか」
誰もそんなことは望んではいない、と思ったが、貴明は死神の言葉を遮らなかった。
『これ』が、貴明に対してこうも饒舌になったのは初めてだからだ。
百日前は、貴明も死の恐怖に我をなくし、死神の言うことに従うことしかできなかった。
だが、今は違う。
命乞いするようにまくしたてる死神を、貴明は凝視する。
「死神の代わりなんかいくらでもいます。代わりの者が来るだけですよ? 死神を殺したとなれば、あなたも、あなたの周りも、地獄行き。免れないでしょうねえ」
邪悪な笑みを浮かべて、死神は言い切った。
ちょうどそのころ、覆甲板の客室側で騒がしい気配が生まれる。
誰かが貴明の立ち回りに気付いたのだろう。時間の猶予はそう長くないと見て、貴明も口を開いた。
「――貴様の言い分はわかった。次は俺が喋る番だ。貴様、なぜ、帝都で俺ではなくみゆきばかりを狙った? 先ほども、俺とみゆきの仲を揺るがそうとしていたな。それが、死神のどんな得になる?」
貴明の問いに、死神の瞳がちらりと光る。
妙に生々しい、人間めいた光だ。
「これであの子には遺族年金が入る。よかったですねえ。あの子の横には、ちゃんとあの子のことを好きな男もいますし、幸せになりますよ。というより、もう、あの子は幸せです。わたしが保障します」
「黙れ」
貴明は、淡々と低い声を出す。
死神は唇に三日月の笑みを浮かべると、ぱんっ! と一回手を打った。
その瞬間、貴明の視界は暗転する。
さっきまで目の前に広がっていた連絡船の光景は消え去り、辺りは闇だ。
木と、埃と、オイルの匂いがする、真っ暗な世界。
見えるものといえば、遠くに灯った光だけ。
あれは……ランプだろうか?
ランプの下に、誰かの姿があるような気がする。
倒れ伏した、女の姿……。
みゆきだ。
(幻だ)
ざわり、と騒いだ心をねじ伏せ、貴明は息を潜める。
暗闇の中、みゆきは精魂尽き果てた様子で伏せっている。
そこへ、ぼんわりと新たな光が近づいてきた。
ランプを持った男がやってきたのだ。
派手な羽織にくしゃくしゃの髪。六朗だ。
六朗はみゆきに明かりをさしかけると、びっくりした顔で何事か声をかける。
みゆきはのろのろと顔を上げ、助けを求めるように、六朗に手を伸ばす。
六朗はランプを置き、迷いなくみゆきの体を抱きしめる。
みゆきも必死に抱き返す。
二人の唇が重なる。
体が重なる。
じりじりとランプが照らす中、二人は獣のように相手を求め始める――。
貴明は小さく息を吐く。
そして、抜刀した。
かすかな擦過音だけを立てて、刀が空を切り裂く。
ぴっ、と、浅く肉を斬った感触。
(薄皮一枚)
貴明は冷たい金属の色の瞳をこらす。
あっという間に先ほどまで見えていた淫靡な光景が消え去り、雪が横殴りに降ってくる。
死神が笑顔のまま大きく跳びすさる。
その胸辺りは、確かに斜めに切り裂かれている。
「あらあら。あれだけこだわった割りには、案外あの女に情がないんですねえ」
貴明は答えず、容赦なく踏みこむ。
ひゅ、と刀が寒風を切り裂き、死神を追う。
死神は人間と言うより猿か何かであるように、ひらひらと跳んで刀を避けた。
普通の人間ならば、軽業じみた動きに目を奪われ、絶望したかもしれない。
だが、貴明は不思議なくらい死神の動きに幻惑されなかった。
(帝都ではわからなかったことが、ここならわかる)
ひとが近くにおらず、雪と海、石炭の臭い以外がほとんどないここなら、死神がどこにいるか、どこにいくか、直感的に分かる。
最低限の動きで死神を追い、予測し、攻撃を繰り出すことができる。
「ぐぅっ……!」
下から斬りあげた刃が敵のすねを斬り、どさり、と死神が甲板に転がった。
死神は顔に笑みを張り付けたまま座りこみ、貴明を見上げて軽く片手を挙げる。
「ああ、素晴らしい腕だ……素晴らしいですよ、あなたは。でもね、死神を殺してどうなると思います? それでまた、あなたの寿命が延びるとでも? そんなわけがないじゃありませんか」
誰もそんなことは望んではいない、と思ったが、貴明は死神の言葉を遮らなかった。
『これ』が、貴明に対してこうも饒舌になったのは初めてだからだ。
百日前は、貴明も死の恐怖に我をなくし、死神の言うことに従うことしかできなかった。
だが、今は違う。
命乞いするようにまくしたてる死神を、貴明は凝視する。
「死神の代わりなんかいくらでもいます。代わりの者が来るだけですよ? 死神を殺したとなれば、あなたも、あなたの周りも、地獄行き。免れないでしょうねえ」
邪悪な笑みを浮かべて、死神は言い切った。
ちょうどそのころ、覆甲板の客室側で騒がしい気配が生まれる。
誰かが貴明の立ち回りに気付いたのだろう。時間の猶予はそう長くないと見て、貴明も口を開いた。
「――貴様の言い分はわかった。次は俺が喋る番だ。貴様、なぜ、帝都で俺ではなくみゆきばかりを狙った? 先ほども、俺とみゆきの仲を揺るがそうとしていたな。それが、死神のどんな得になる?」
貴明の問いに、死神の瞳がちらりと光る。
妙に生々しい、人間めいた光だ。
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