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第2章 地球活動編
第74話 正義の味方 藤原千鶴
しおりを挟む2082年9月8日(火曜日)午前3時48分。
海底都市地下50階 パーティー会場
《ジャジャ》とかいう名の白髪の吸血種の出現により、本作戦の最高戦力の《ブライ》までも片腕を失い、戦線を離脱した。
度重なる吸血種共の横暴にも千鶴の足はまるで石にでもなったかのようにピクリとも動かない。
――ジャジャが本事件の重要参考人たる宇治夢嗣を殺し、肉の塊としたときも。
――エムプサが子供達を害そうと近づいたときも。
――保護対象の赤髪の少女――茜が子供達のために何度も、何度も立ち上がった時も。
――そして目の前で鼠とも猿ともつかない化け物に拉致被害者の青髪の少女――鏡が今にも乱暴されそうになっているときも。
ただその成り行きをガタガタと子兎のように震えながら眺めているだけしかできなかった。
あの茜という少女は拉致被害者。保護対象者であり、本来、助けられるべき無力な市民だ。その少女が勇気を振り絞って絶対的強者たる吸血種に挑んでいる。それなのにプロのはずの千鶴は床に膝を床につき振るえているだけ。その事実は今までの千鶴の全人生を否定されたようで涙が出る程情けなかった。
赤髪の少女――茜はモルモーにより床に抑えつけられ、青みがかった短い髪の少女――鏡の上着を異形の化け物が引き裂く。
そのときだ。とびっきりの異常は始まったのは――。
ボシュッという破裂音。異形のバケモノ達の頭部は爆砕し、脳症を床にぶちまける。
「な!!?」
モルモーの驚愕の声は最後まで続かず、茜を押さえつけていたその身体は、横凪に薙ぎ払われる。
凄まじい轟音と衝撃波を伴った爆風がパーティー会場全体を大きく震わせる。
気が付くと顔中に傷がある黒服男が鏡にその上着を掛けていた。
そして茜の傍には紫色の装飾がなされた上下の衣服に黒色のマント、黒の手袋を着用し、顔全体をすっぽりと覆う黒仮面の男が佇んでいた。
「ライト!!!」
遂に状況についていけなくなったのか、母親の一人の我が子を抱きしめる力が緩まり、男の子が母の胸の中から飛び出し黒仮面の男を見て目を輝かす。その男の子の言葉に次々に子供達が母親の胸から逃れようともがく。
そういわれればあの姿は子供向けのアニメ――《スターダスト》の主人公――《ライト》のコスチュームに酷似している。
兎も角、状況は非常にマズイ。この凄惨な光景は子供達の純真な心に深い傷を残す。
「思金神、残骸を全てこの部屋から取り除き、負傷者は回復しろ」
「イエス・マイマスター」
千鶴の頭の中に直接男の声が響くと部屋の床に漆黒の穴が開く。そして、吸血種達の死体が、《狂王》の頭部が、肉塊となった宇治夢嗣が、頭部を破壊された豚の怪物達がその黒い穴に肉片はおろか血の一滴残さず吸い込まれていく。同時に上空から赤い雨が降り注ぎ、受けた者の傷を瞬く間に復元してしまう。
瞬きをする間もなく、このパーティー会場から全ての流血等の戦闘跡は消失した。
「嘘……」
千鶴は呆然と眼前の非常識な光景を眺めていた。
そしてそれは千鶴以外も例外ではない。
パーティー会場の拉致被害者の大人達は勿論、百戦錬磨の《第一級魔道特殊急襲部隊――MSAT》の隊員達、非常識の代名詞たる《殲滅戦域》の《崩壊王子》、重傷を負っていたはずの《ブライ》すらも唖然とした表情で黒仮面の男と熊のような顔中に傷のある男に視線を集中させている。
「この会場の雑魚共は当初の計画通り私が全て処理する。刈谷、君は救助者の保護と避難誘導に徹しろ」
「は!」
刈谷と呼ばれた熊のような男は黒仮面の男に右腕を胸に当てると恭しくも一礼する。
「下等な家畜ごときが、あたし達を雑魚だと? 舐めやがってぇ、クソがぁ!!!」
エムプサが額に太い青筋を張らしながら、耳障りな金切り声を上げるとその背中に幾つもの黒色の翼が生じる。
「兄貴、いけねぇ!!! そいつは――」
角刈りの男性が掠れた声を張り上げる。
黒の翼は数回ゆったりとはためき鋭い大型の鋭い刃の形をとると黒仮面の前に佇む刈谷を横断、縦断せんと爆風を纏って高速で迫る。
ガキィッ!
黒翼が刈谷に衝突し、竜巻のような衝撃波が吹き荒れる。
千鶴達の前には青い透明の板が忽然と出現し、その嵐のような暴風から守ってくれていた。おそらくこれもあの黒仮面の男の所業だろう。
「は?」
間の抜けたエムプサの声が会場中に響き渡る。無理もない。世界序列402位の《化蛇》と激闘を演じた程の攻撃だ。魔術師でもないただの人間が受ければグシャグシャの肉片となるのが道理。その鋭利なギロチンの刃と化したエムプサの翼は刈谷の首で止まっていた。
刈谷は左手でエムプサの黒翼を鷲掴みにすると口を開く。その口調には強烈な怒気が籠っていた。
「幹部会議での決定事項だ。貴様らが俺の家族にした行為の落とし前はマスターに委ねよう。
だがなぁ、貴様は絶対に言ってはならねぇ言葉を吐いた」
今まで終始無表情だった刈谷の顔が悪鬼のごとく歪む。
刹那――。
ドンッ!
刈谷の右拳が唸りを上げてエムプサの鳩尾深く突き刺さっていた。
「ぐごっ!」
エムプサの身体がくの字に湾曲し苦悶の表情で呻き声を吐き出すと、グルンッと白目をむきうつ伏せに倒れ込む。
パーティー会場はすっかり静まり返り、子供達の興奮気味の陽気な声だけがシュールに響き渡る。
「い、一撃? あの吸血種を?」
隣の《第一級魔道特殊急襲部隊――MSAT》の隊員が震える声を絞り出す。そう。今の刈谷の一撃は千鶴達魔術師にとって極めて大きな意味を持つ。
エムプサはあの《化蛇》と同じ自然支配系の魔術師。ならば通常の攻撃では黒影となるエムプサに傷一つつけられないはずなのだ。それがあの刈谷とかいう男の右拳一つで悶絶する。この異常性はこの場にいる魔術師ならば嫌でも認識できてしまう。
だがその異常性を理解できるのはあくまで魔術師だけ。一般人の拉致被害者達から一斉に歓声が上がる。
「すいやせん。マスター。出過ぎた真似を――」
刈谷が登場時の鉄仮面に戻り、黒仮面の男に頭を下げる。
「構わんさ。手間が省けた」
仮面の男はグルリと部屋を見渡して吸血種達に視線を向けていく。
――幽鬼のような血の気の引いた表情で呆然と眼前の異常事態を眺める吸血種の一般兵士達に。
――壁から頭を数回左右に振って起き上がろうとするモルモーに。
――油断なく身構える将軍に。
――魂さえも凍えさせる程の凶悪な笑みを浮かべる《ジャジャ》に。
「さて吸血種の諸君。私は魔術審議会《殲滅戦域》の《ライト》」
仮面の男が《ライト》と名乗ったことにより、子供達は例外なく身を乗り出し嬉しそうにはしゃぎだす。
芝居がかった台詞とオーバーリアクション。まるで《スターダスト》の特撮撮影現場のようだ。
正直、千鶴はついていけない。それは千鶴だけではないらしく《第一級魔道特殊急襲部隊――MSAT》はおろか、《崩壊王子》、《ブライ》さえもポカーンと阿呆のように口を半開きにこの非常識な光景を眺めている。
「この度魔術審議会日本支部長――伏見左京君により君達には捕縛命令が発令されている。直ちに武装解除し全面降伏しろ。ジュネーヴ諸条約に基づき捕虜としての一定の人権は保障する」
「断るっ!」
声を張り上げながらもモルモーはその巨体に似つかわしくない迅雷のような速度で《ライト》目掛けて疾駆する。
モルモーの右手に持つモーニングスターが《ライト》の頭部に向けて振り下ろされる。
それは瞬きをする瞬間――。《ライト》に届く数センチ前でその姿が揺らめくとモルモーの右手にあったモーニングスターは弾丸のような速度で明後日の方向に飛んでいき壁に深く突き刺さる。同時に《ライト》はモルモーの顔面を右手で鷲掴みにして高く持ち上げていた。
「武装解除拒絶を確認。プランはAからBへ移行。
刈谷、後は頼むぞ」
「は!」
刈谷は再び胸に手を当て《ライト》に軽く頭を下げると二言三言呟く。
直後、数十人の絢爛な装飾がなされた黒の軍服と手袋を着用した者達が煙のように出現し、拉致被害者達を部屋の外まで連れて行く。
「頑張れ、ライト!」「いけぇ、ライト!」「悪い奴、やっつけて!」
子供達の歓喜に満ちた声が次第に遠ざかって行き、この会場には千鶴達審議会の人間と吸血種達が取り残される形となる。
ここからだった。《ライト》が明らかに変質したのは――。
「へ~、やるじゃねぇか」
《ジャジャ》が両手をポケットに突っ込みながらも不適な笑みを浮かべている。
対して将軍は額に大粒の冷たい汗を張りつけながらも油断なく《ライト》に構えをとる。
「…………」
《ジャジャ》の称賛にも《ライト》は答えない。ただ、ミシミシという骨の軋む音だけが会場に反響していく。
頭部を掴まれたままモルモーは《ライト》の頭や身体に暴風雨のような蹴りを入れる。その蹴りに身じろぎ一つせず《ライト》の右手の力は徐々に強まって行く。
強すぎず、弱すぎず、ただゆっくり、ゆっくりと。
「ぐっ! なぜだ……なぜ俺の力が使えない?」
苦痛と驚愕で声を震わせつつもモルモーは《ライト》にその理由を尋ねる。
「…………」
あれだけ自信と力に満ちていたモルモーの顔は恐怖で壮絶に歪み、その口からは悲鳴が漏れ出す。
いつしか、《ライト》の身体からは濃密な赤黒色の魔力が陽炎のごとく湧き出していた。
「や、止めろぉぉ!!」
「止めろ? そう懇願する子供達に、両親にお前らは何をしようとした? 青髪の女性に何をした? お前らは僕の中の禁忌に触れた。その言葉を紡ぐ権利を自らの意思で投げ捨てたんだ」
《ライト》の声の質、話し方すら一変し、赤黒色の魔力の濁流は会場中に充満し大気をミシリと歪ませ、その床や壁に亀裂を入れる。
「うあ……」
「滅べ」
その魂を握り潰されるごとき《ライト》の怨嗟の声に遂に千鶴は胸を押さえて蹲る。
「う、うあああぁぁぁっ!!!!」
モルモーは狂ったような絶叫を上げる。
『マスター、作戦をお忘れですか?』
頭の中に男性の声が響き渡ると《ライト》は小さな舌打ちをするとその右手を離す。
モルモーは全身の力を失いカクンッと床に崩れ落ちる。
吸血種は精神生命体であり、大抵の傷なら修復可能だ。特にモルモーは《ブライ》に頭をねじ切られ、粉々に砕かれても完全復活を遂げた限りなく不死に近い吸血種。頭部を失った以前と比較すればこの度は大したダメージを受けていまい。
しかし涙と鼻水を垂れ流し子羊のように恐怖に小刻みに震えるモルモーを見れば、戦意があるとは微塵も思えない。
何時も冷静沈着であった将軍でさえもその光景に頬を盛大に引き攣らせている。
対して――。
「いい! いいねぇ~、その狂いに狂った気質、テメエは最高だ!」
内心を独白すればこの仮面の男――《ライト》がとびっきりの危険な狂気を持つということには賛同する。
英雄? 馬鹿を言わないで欲しい。どこの世界にプロの特殊部隊を畏怖で行動不能にする英雄がいる? それにあの他者の生命、存在すら否定するかのような禍々しい魔力は英雄というよりは巨悪の親玉の方がしっくりくる。
「御託はいい。僕も暇じゃない。さっさと来い」
《ライト》が人差し指で数回、手招きをする。
「将軍。俺様の役に立って見せなぁ」
「はっ!」
黒色の魔力を体中から放出しながらも重心を低くして右腕を引き絞る将軍。黒色の魔力は将軍の右腕に集中していき、腕は数倍へ膨張していく。
膨張! 膨張! 膨張! 膨張! 膨張! 膨張!
「指揮官殿、あれはまずいぞ! あれが放たれればこの海底都市など――」
千鶴の傍まで来ていた《ブライ》が焦燥たっぷり含まれる声を上げる。
確かに唯一の地上への出口を塞ぐ48階の扉は世界序列68位の最大の攻撃でもビクともしない。だがそれはあくまで扉に限っての話だ。この48階から50階は扉ほど頑丈にできていない。この海底で海に投げ出されれば死しかない以上、当然にそのような構造になっている。
「馬鹿が、手遅れというものだ。この都市が破壊されれば暗く冷たい海底へ放り投げられる。そうなれば生身の人間の貴様らに待つのは死のみ。我らの勝利だ」
将軍の姿が消失し、《ライト》の右後方上空に出現する。
「《吸血獣王の渾身の一撃》ぃ!!」
将軍の数倍に膨れ上がった右腕が振り下ろされる。
《ブライ》すらも恐れるその核弾頭の着弾に等しい攻撃はこのパーティー会場はおろか海底都市を完全破壊しかねない。そんな攻撃。そのはずだった――。
しかし、轟音は生じず、代わりにパシィと乾いた音が静寂な会場に反響する。
「ば、馬鹿なっ! 俺の腕が――」
あれほど巨大化していた将軍の右腕は元の大きさに萎んでいた。
「~~っ!?」
自身の縮んだ右腕を振るえる左手で触れつつも、ゆっくり焦燥しきった顔で《ライト》を見て、息を詰まらせる将軍。
ドンッ!
《ライト》が将軍の顔面を無造作に蹴り上げると、まるでサッカーボールのように転がって行き、壁に背中から叩きつけられる。
ミシリッ!
将軍の眼前に出現した《ライト》は両手の拳をきつく握る。
「あああぁぁぁぁ!!!」
バギッ!! ベキバキ!! ゴシャッ!! ゴキィッ!!
将軍の断末魔の叫び声を子守歌に《ライト》は胸部、腹部、右上腕、右前腕、左上腕、左前腕、右大腿、左大腿、左右の膝、左右の足の指に雨霰のような拳打を放っていく。
その散弾銃のような《ライト》の拳打により、将軍の全身の肉と骨は折られ潰されて、襤褸雑巾のように壁にめり込みピクリとも動かない。
静寂が支配する。
今まで不敵な薄ら笑いを絶やさなかった《ジャジャ》すらも神妙な顔で《ライト》を注意深く観察しているようだ。
『マスター……』
「わかってるよ。でも命まで奪っちゃいない。皆との約束はちゃんと守っている」
《ライト》は床に肖像のようにめり込んでいる将軍から千鶴へ初めて視線を向ける。
心臓が跳ね上がり、嫌な冷たい汗が全身から発生し流れ出す。
「まあ、確かに少し刺激が強かったかもね」
そんな千鶴を見て肩を竦める《ライト》。
それは当初確実に純粋な恐怖しかなかった。だがその仮面越しから千鶴を気遣うように向けられる暖かな瞳を視界に入れてその恐怖は安堵と強い疑問に置き換わる。
この日、この時、この恐ろしくも優しい英雄と千鶴は出会う。
彼と千鶴はいわば似た者同士であり、水と油。そんな矛盾だらけの関係。
千鶴は近い将来、幾度となく少年を取り巻く事件に巻き込まれ、その都度少年とその信念を衝突させることになるが、それはまた別のお話。
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