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第二十章 偽の理想郷にて嘘を兄に
美しい街
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リン達に別れを告げ、僕は神降の国近くの森に来ていた。
目的の地はここから近いらしい。
『神降の国が近くにあるから天使が来ないってのもあるんですよ』
「獣人の国もあるけど……」
『それを言うなら酒食の国もある』
創造主ではない神々が降りた国、神の寵愛を受ける者達が住む国、世界で唯一悪魔が人と共存できる国。混沌としているが、だからこそ天使はあまり近寄らない。
「……それもそうだね」
大木の幹には苔が生え、下を見ても茶色の部分は見当たらない。緑に埋め尽くされた光景は植物の国を思い出したが、比べてしまうと遥かに劣る。
「神降の国もゆっくり見てみたいなぁ、結構綺麗な街だったし……」
『あまり天使が来ない国ですし、別に構いませんよ』
『私はいい思い出がないがな』
「僕は……結構いい思い出あるよ」
神降の国は兄が僕の為に生きていると言ってくれた場所だ。その前後に苦痛も多かったが、それだけ抜き出せばいい思い出だ。
「にいさま……どこ行ったんだろ」
『いない方がいいでしょ、あんなの』
「そんなこと言わないでよ、僕の唯一の家族なんだから」
『彼はヘクセンナハトの生まれ変わり。殺し合った方々が兄弟だなんて……本当、酷い運命ですねぇ』
兄は僕を愛してくれている、それは間違いない。やり方が歪んでいるだけで兄は愛情深い。僕はそう思いたいから、兄を悪く言われるのは頭に来る。
「何も知らないくせに好き勝手言わないでよ」
『あら、すみませんねぇ。怒りました?』
『ベルゼブブ様……あまり、そう言った事は……』
ベルゼブブの謝罪は相手を煽る為の決まり文句。だからアルは止めたし、僕は苛立った。
『ヘルシャフト様って、アレでしょ? 殴られてるのも愛情表現だって思っちゃうタイプでしょ? ふふっ、馬鹿みたい。いえ、馬鹿ですねぇ』
「…………それの何が悪いの。にいさまは、生き物を虐めるのが好きだから、痛がる僕が好きだから、従順なおもちゃが好きだから、だから僕はずっと我慢して……」
『馬鹿とは言いましたが悪いとは言ってませんよ、どうぞ死ぬまで我慢する自分に酔ってくださいな』
「言うこと聞いてれば、優しいよ。優しくしてくれる……はず、なんだよ」
『へぇ? さっき虐めるのが好きだとか言いませんでした?』
わざとらしく抑揚をつけて、演技じみた表情で、ひたすらに苛立ちを誘う。
「…………最小限で済むんだ」
『最小限も何も兄からの暴力なんて普通ありませんけどね』
アルが気まずそうに僕を見上げる。アルがベルゼブブに口答え出来ないのは知っているし、兄を嫌っているのも知っている。そう分かってはいるが、何も言わないアルにも腹が立つ。
森を抜けて浜辺が見えてきた頃、僕の怒りも表に出た。
「普通ってなんだよ、悪魔のくせに……普通なんて言うなよ! にいさまは天才で僕は無能! そんな兄弟に普通が当てはまると思うの!?」
『悪魔のくせにって何ですか? 私は人間の一般論を述べたまでですよ。悪魔だからって人間の常識に疎いと決めつけないでくれませんか。それともなんですか、悪魔に馬鹿にされるのが気に入らないんですか? そりゃ馬鹿にしてるのに馬鹿にされたらイラつきますよね、今の私みたいに』
「……何それ。僕を馬鹿にしてるの?」
『してますよ。貴方様もでしょう?』
『ベルゼブブ様! やめてください……ヘルも、もうやめろ』
アルの声に前を向くと、美しい港町の風景が目に飛び込んできた。怒りは心の底に沈んで、感動が浮いて出た。
「わ、すごい……綺麗な街」
『もう機嫌直したんですか? 単純ですねぇ』
『ベルゼブブ様! やめてくださいと何度も申しましたでしょう』
『私に貴方の申し出を聞く義務はありませーん』
ベルゼブブの腹が立つ言動は一旦無視して、入国審査の受付場へ向かう。
貼り付けたような笑顔を浮かべた受付嬢に首から下げる迷子札のようなカードを渡され、そこにマジックで「旅行者」と記された。
「ル・リエー・イミタシオンに滞在している間はその札を肌身離さずお持ちください」
「はぁ……分かりました」
「水中都市に行かれる場合は隣の店で泡の魔術道具をお求めください」
「隣……はい、分かりました」
身を隠す以上は地上よりも海中の方がいい、空から見渡された時に見つかりにくいだろう。
僕は探されているかどうかも分からないのに、天使の目から逃れる場所を考えていた。
『ヘルシャフト様、お金あります?』
「んー……あんまりかな」
『仕方ありませんね、道具は私が買ってあげます。バイトでもしてくださいね』
「あ、ありがと……」
最後に仕事をしたのはいつだったか、もう覚えてすらいない。交通費はアルがいるからかからないし、宿も泊めてもらうことが多かったから今まで気が付かなかったが、金欠だ。
ベルゼブブが買ってきたのは妙な模様が彫られた首飾りだ、それを首にかけて海の中の都市に向かう。
水に爪先を触れさせると、足の周りに出来た空気の塊が水を押しのけ、爪先は濡れない。そのまま進むと全身が大きな泡に包まれて、海底を歩くことが出来た。
太陽の光が差し込んでキラキラと輝く水面が真上に見え、色とりどりの魚が目の前を泳いだ。まだここは浅いからか、目線を下ろせば白い砂や半分埋まった貝殻が見えた。
その美しさに言葉を失う。
『ベルゼブブ様、この泡の仕組みは?』
『魔術ですよ。この首飾りは身体を覆う泡を作り呼吸を確保します。水中の酸素を自動的に取り込みますから、窒息の心配もありませんよ。結界系の魔術も施されておりますので、水が入ってくることはありません』
『溢れた呼気は勝手に漏れる……と』
『そういうことです。まぁ魔術使ってるんですから細かいことは気にしない方がいいですよ』
地上と同じように並び立つ建造物も僕と同じように泡に包まれており、その隙間を縫って魚の群れが泳いでいた。それに紛れる人……と魚の中間のような者達。あれが件の深き者とかいう種族だろうか。
『まず宿ですかね』
「……これ付けたまま寝たくないよ、首痛くなっちゃう」
この首飾りの鎖は太く、また奇妙な彫刻のせいで更に歪んでいる。体を起こしている分には何も問題はないが、横たわれば鎖は首の皮を挟み、突起が肌を傷付けるだろう。
『宿も泡の中ですから大丈夫だとは思いますけど……』
「でも……ほら、あの建物見てよ」
建物の外壁には首飾りと同じ彫刻が施されているが、その彫刻が削れて泡に穴が空いている建物もあった。穴は少しずつ広がり、その穴から水が流れ込んでいる。
「寝てる間に浸水するかもって考えたら外せないよ」
どうやらこの魔術は繊細なようだ。だが、本来住民には必要無いものだからか、大して丁寧に扱ってはいない。壁に石や貝をぶつけて遊んでいる子供らしきものも居る。
『溺れたくらいで死なないで欲しいですねぇ、分かりましたよ。宿は地上のを取ってきます』
「……ごめんね?」
『じゃ、こっちは観光ですかね。私はあまり気が乗りませんから、どうぞお二人で。私は宿を探しますから』
私がついているから心配するな、なんてことを言ったのは誰だったか。ベルゼブブは来た道を戻っていく。
『……行こうか、ヘル』
「あ、うん。なんか久しぶりだね。二人になるの」
『そうだな、寂しいか?』
「ううん、アルがいれば寂しくないよ。逆にみんながいてもアルがいなかったら寂しいな」
『そうか……それは、それは、光栄だ』
アルは嬉しそうに体を擦り寄せ、尾を僕の腕に絡めた。
『ヘル、私は貴方の傍に永遠を誓う』
「何、それ。ふふっ……ありがと」
泡の中で銀色の毛は柔らかく揺らめく。その中に指を滑らせるように頭を撫でる。時間もゆっくりと流れているような、そんな平和で幸せなひととき。永遠に続けばいいと、このまま時が止まってしまえばいいと、そんな在り来りな願いを心の中で何度も唱えた。
目的の地はここから近いらしい。
『神降の国が近くにあるから天使が来ないってのもあるんですよ』
「獣人の国もあるけど……」
『それを言うなら酒食の国もある』
創造主ではない神々が降りた国、神の寵愛を受ける者達が住む国、世界で唯一悪魔が人と共存できる国。混沌としているが、だからこそ天使はあまり近寄らない。
「……それもそうだね」
大木の幹には苔が生え、下を見ても茶色の部分は見当たらない。緑に埋め尽くされた光景は植物の国を思い出したが、比べてしまうと遥かに劣る。
「神降の国もゆっくり見てみたいなぁ、結構綺麗な街だったし……」
『あまり天使が来ない国ですし、別に構いませんよ』
『私はいい思い出がないがな』
「僕は……結構いい思い出あるよ」
神降の国は兄が僕の為に生きていると言ってくれた場所だ。その前後に苦痛も多かったが、それだけ抜き出せばいい思い出だ。
「にいさま……どこ行ったんだろ」
『いない方がいいでしょ、あんなの』
「そんなこと言わないでよ、僕の唯一の家族なんだから」
『彼はヘクセンナハトの生まれ変わり。殺し合った方々が兄弟だなんて……本当、酷い運命ですねぇ』
兄は僕を愛してくれている、それは間違いない。やり方が歪んでいるだけで兄は愛情深い。僕はそう思いたいから、兄を悪く言われるのは頭に来る。
「何も知らないくせに好き勝手言わないでよ」
『あら、すみませんねぇ。怒りました?』
『ベルゼブブ様……あまり、そう言った事は……』
ベルゼブブの謝罪は相手を煽る為の決まり文句。だからアルは止めたし、僕は苛立った。
『ヘルシャフト様って、アレでしょ? 殴られてるのも愛情表現だって思っちゃうタイプでしょ? ふふっ、馬鹿みたい。いえ、馬鹿ですねぇ』
「…………それの何が悪いの。にいさまは、生き物を虐めるのが好きだから、痛がる僕が好きだから、従順なおもちゃが好きだから、だから僕はずっと我慢して……」
『馬鹿とは言いましたが悪いとは言ってませんよ、どうぞ死ぬまで我慢する自分に酔ってくださいな』
「言うこと聞いてれば、優しいよ。優しくしてくれる……はず、なんだよ」
『へぇ? さっき虐めるのが好きだとか言いませんでした?』
わざとらしく抑揚をつけて、演技じみた表情で、ひたすらに苛立ちを誘う。
「…………最小限で済むんだ」
『最小限も何も兄からの暴力なんて普通ありませんけどね』
アルが気まずそうに僕を見上げる。アルがベルゼブブに口答え出来ないのは知っているし、兄を嫌っているのも知っている。そう分かってはいるが、何も言わないアルにも腹が立つ。
森を抜けて浜辺が見えてきた頃、僕の怒りも表に出た。
「普通ってなんだよ、悪魔のくせに……普通なんて言うなよ! にいさまは天才で僕は無能! そんな兄弟に普通が当てはまると思うの!?」
『悪魔のくせにって何ですか? 私は人間の一般論を述べたまでですよ。悪魔だからって人間の常識に疎いと決めつけないでくれませんか。それともなんですか、悪魔に馬鹿にされるのが気に入らないんですか? そりゃ馬鹿にしてるのに馬鹿にされたらイラつきますよね、今の私みたいに』
「……何それ。僕を馬鹿にしてるの?」
『してますよ。貴方様もでしょう?』
『ベルゼブブ様! やめてください……ヘルも、もうやめろ』
アルの声に前を向くと、美しい港町の風景が目に飛び込んできた。怒りは心の底に沈んで、感動が浮いて出た。
「わ、すごい……綺麗な街」
『もう機嫌直したんですか? 単純ですねぇ』
『ベルゼブブ様! やめてくださいと何度も申しましたでしょう』
『私に貴方の申し出を聞く義務はありませーん』
ベルゼブブの腹が立つ言動は一旦無視して、入国審査の受付場へ向かう。
貼り付けたような笑顔を浮かべた受付嬢に首から下げる迷子札のようなカードを渡され、そこにマジックで「旅行者」と記された。
「ル・リエー・イミタシオンに滞在している間はその札を肌身離さずお持ちください」
「はぁ……分かりました」
「水中都市に行かれる場合は隣の店で泡の魔術道具をお求めください」
「隣……はい、分かりました」
身を隠す以上は地上よりも海中の方がいい、空から見渡された時に見つかりにくいだろう。
僕は探されているかどうかも分からないのに、天使の目から逃れる場所を考えていた。
『ヘルシャフト様、お金あります?』
「んー……あんまりかな」
『仕方ありませんね、道具は私が買ってあげます。バイトでもしてくださいね』
「あ、ありがと……」
最後に仕事をしたのはいつだったか、もう覚えてすらいない。交通費はアルがいるからかからないし、宿も泊めてもらうことが多かったから今まで気が付かなかったが、金欠だ。
ベルゼブブが買ってきたのは妙な模様が彫られた首飾りだ、それを首にかけて海の中の都市に向かう。
水に爪先を触れさせると、足の周りに出来た空気の塊が水を押しのけ、爪先は濡れない。そのまま進むと全身が大きな泡に包まれて、海底を歩くことが出来た。
太陽の光が差し込んでキラキラと輝く水面が真上に見え、色とりどりの魚が目の前を泳いだ。まだここは浅いからか、目線を下ろせば白い砂や半分埋まった貝殻が見えた。
その美しさに言葉を失う。
『ベルゼブブ様、この泡の仕組みは?』
『魔術ですよ。この首飾りは身体を覆う泡を作り呼吸を確保します。水中の酸素を自動的に取り込みますから、窒息の心配もありませんよ。結界系の魔術も施されておりますので、水が入ってくることはありません』
『溢れた呼気は勝手に漏れる……と』
『そういうことです。まぁ魔術使ってるんですから細かいことは気にしない方がいいですよ』
地上と同じように並び立つ建造物も僕と同じように泡に包まれており、その隙間を縫って魚の群れが泳いでいた。それに紛れる人……と魚の中間のような者達。あれが件の深き者とかいう種族だろうか。
『まず宿ですかね』
「……これ付けたまま寝たくないよ、首痛くなっちゃう」
この首飾りの鎖は太く、また奇妙な彫刻のせいで更に歪んでいる。体を起こしている分には何も問題はないが、横たわれば鎖は首の皮を挟み、突起が肌を傷付けるだろう。
『宿も泡の中ですから大丈夫だとは思いますけど……』
「でも……ほら、あの建物見てよ」
建物の外壁には首飾りと同じ彫刻が施されているが、その彫刻が削れて泡に穴が空いている建物もあった。穴は少しずつ広がり、その穴から水が流れ込んでいる。
「寝てる間に浸水するかもって考えたら外せないよ」
どうやらこの魔術は繊細なようだ。だが、本来住民には必要無いものだからか、大して丁寧に扱ってはいない。壁に石や貝をぶつけて遊んでいる子供らしきものも居る。
『溺れたくらいで死なないで欲しいですねぇ、分かりましたよ。宿は地上のを取ってきます』
「……ごめんね?」
『じゃ、こっちは観光ですかね。私はあまり気が乗りませんから、どうぞお二人で。私は宿を探しますから』
私がついているから心配するな、なんてことを言ったのは誰だったか。ベルゼブブは来た道を戻っていく。
『……行こうか、ヘル』
「あ、うん。なんか久しぶりだね。二人になるの」
『そうだな、寂しいか?』
「ううん、アルがいれば寂しくないよ。逆にみんながいてもアルがいなかったら寂しいな」
『そうか……それは、それは、光栄だ』
アルは嬉しそうに体を擦り寄せ、尾を僕の腕に絡めた。
『ヘル、私は貴方の傍に永遠を誓う』
「何、それ。ふふっ……ありがと」
泡の中で銀色の毛は柔らかく揺らめく。その中に指を滑らせるように頭を撫でる。時間もゆっくりと流れているような、そんな平和で幸せなひととき。永遠に続けばいいと、このまま時が止まってしまえばいいと、そんな在り来りな願いを心の中で何度も唱えた。
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