愚者のオラトリオ

Canaan

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第1章 What's Going On?

06.病みあがりの幻

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 翌朝目を覚ますと、熱は下がったようで、身体はだいぶ楽になっていた。
 そしてベッドの脇には自分で用意した覚えのない水差しと、身体を拭くための盥と布が置いてあった。
 ベネディクトはあの忌まわしい出来事のあと、ベッドに戻るなり気絶するように眠ってしまっていたらしく、部屋に誰かが入ってきたことには気づかなかった。宿舎の使用人が持ってきたものかもしれないし、ステラ・ハサウェイが持ってきたものかもしれない。

 これまでに何度も新人騎士の面倒を見てきたが、どうしても適応できない、騎士には向いていない者も中にはいた。
 すぐに辞めてしまうものもいれば、頑張って続けて適応できるようになった者もいるし、無理をした結果心や身体を壊してしまう者もいた。
 騎士に向いていない訳じゃないが、異動になった途端に労働意欲を失くす者もいる。その地方の気候や食事が合わなかったり、友人たちと離れ離れになったからだったり、やっぱり理由も様々だ。でも、「上官や先輩と上手くやれなかった」という人間関係が原因のことも多いらしい。
 そういう者たちをたくさん見てきてはいたが、自分には無縁の事柄だと思っていた。
 そして騎士になって八年ほど経つベネディクトは初めて考えていた。
 仕事に行きたくねえ。騎士、辞めたい。と。
 仕事だりぃ、程度ならば何度も思ったことがあった。でも、今は心の底から行きたくない。ステラ・ハサウェイと顔を合わせたくないのである。もともと「あの上官とは絶対にうまくやっていけない」という思いはあったが、それは教官長が戻ってくるまでの我慢だと自分に言い聞かせていた。
 しかし。
 しかし、尻の穴に指を突っ込まれた挙句、フル勃起状態のアレを至近距離で見られたとなると話は違ってくる。

「ベネディクト。起きているか?」
「うおお!?」
 その時ノックに続いてヒューイの声がした。やましい──というか忌まわしい──ことを考えていたので思わず飛びのいてしまう。
「……大丈夫か?」
「あ、ああ。悪い、起きてる」
 ヒューイは司令部へ行く前にここに立ち寄ってくれたらしい。
 少しだけ足元がふらつくが、昨日に比べたら驚くほど体調が良い。口から薬を取り入れるよりも直腸に突っ込む方が効果が高いと聞いたことはあったが、まさか、これほどまでとは。
 そこで四つん這いになった自分の尻にステラが薬を突っ込むところを想像してしまい、慌ててその画を頭から打ち消した。
「ベネディクト? 今日も体調が優れないようであれば、軍医をここに連れてくるが……」
「ああ、待て。平気だ。いま開ける」
 伝染病でもなさそうだったので、ベネディクトは扉を開けた。
 そこにはオレンジの入ったカゴを手にしたヒューイが立っていた。
「ふむ……顔色は良さそうだな。食欲があるようなら、これで滋養を摂取したまえ。今朝、農場から届けられたばかりのものを持ってきた」
「お、おお。サンキュー」
「昨日君の話を聞いてから、軍医のところへ行って熱冷ましを頼んでおいたが、それを飲んだのか?」
「う、ああ……」
 ちょっと声が沈んだ。ヒューイは動けないベネディクトに代わって薬の調合を頼みに行った。彼は飲み薬を想定しているようだが、実際に出来上がったのは坐薬であった。それを仕事終わりにステラが持って来て……ベネディクトの尻に突っ込んだのだ。
「早く忘れたいぜ……」
「ん? 何か言ったか?」
「いやいやいや! そうだな、風呂に行って汗を流してから仕事に出るわ」
「おい。まさか……もう復帰するのか?」
 正直に言えば休みたい。というか辞めたい。騎士を辞めて、どこか遠くへ旅に出たい。しかし、それでは自分は一生負け犬だ。あの女に負けるわけにはいかないのだ。ヒトの尊厳は失ったが、カスみたいなくだらないプライドは残っているようだった。

 だがベネディクトが仕事に出ると言うと、ヒューイは表情を変えた。
「やめておきたまえ。今日は剣術の授業もあるだろう? 怪我のもとだぞ!」

 ──戦闘以外で怪我を負うなど、騎士としてそれほど馬鹿らしいことはないだろう?

 そしてヒューイの言葉を聞いて、ステラのセリフも思い出してしまった。
 敵と戦闘した結果の怪我であれば仕方ないとも思えるが、現在のベネディクトの職務は戦闘ではなく新人騎士の指導である。怪我を負うとすれば、自分の不注意によるものがほとんどになるだろう。
 病み上がりに無理をしたせいで怪我なんてしたら……
『だから言ったではないか。このクソが』
 怪我をして動けなくなったベネディクトを見下ろしながら、彼女はそう吐き捨てるに違いない。想像しただけで屈辱に震えそうになった。

「昨日は君の研修生を僕が一緒に引き受けた。数日くらいならば、たいした負担ではない。授業の遅れは気にせずにゆっくり養生したまえ」
「そうか……何から何まで、悪いな」
「それから、剣術と馬術の授業はハサウェイ教官長代理にも手伝ってもらった」
「……あ!?」
「座学はともかく、運動系の授業はマンツーマンの形をとることも多い。僕一人では手が回らないからな。彼女にもあとで礼を言っておきたまえ」
 その時のことを思い起こしているのか、ヒューイは感心したような口調になった。
「今後、海軍のほうへ振り分けられる研修生もいるかもしれないだろう? そこで、彼女にカットラスを振るってもらったのだが……なかなか、面白かったぞ。機会があったら君も見せてもらうといい」
「だ……」
 誰があんな女なんかに!
 そう口をついて出そうになったが、船の上で剣を振り回す海軍のスタイルは、自分たちの剣術とはまったく別物だと聞く。ちょっと見てみたいなとも思った。その後で見てみたいと思ってしまったことを、なんだか悔しいと感じた。
 そのまま口を噤んだベネディクトに対し、ヒューイが首を傾げる。
「おい。まだ具合が悪いのではないか? 横になっていたほうがいいぞ。僕はもう行く。長話して悪かった」
「いや、調子はもう、だいたいいいんだけどよ……ヒューイ、お前だったら……」
「うん?」
「お前、好きでもなんでもない女にさ、ハダカ見られたらどうする? 次からそいつと顔合わせられるか?」
「……。」
 突然の質問だったこともあり、今度はヒューイが口を噤んだ。
「ハダカって、上半身だけじゃねえぞ。その……下のほうだ」
「どうした、いきなり……何かあったのか?」
「え? いや……熱で魘されてる時に変な夢見てさあ」
 実は何かあったわけだが、ステラ・ハサウェイに尻の穴を犯されて勃起したとはさすがに言えない。だが「夢」という設定にしておけばもうちょっと踏み込んだところまで話すことができた。
「しかも、おっ立ててるところを見られたら、お前だったらどうよ?」
「……。」
 ヒューイはおかしな顔をして、視線を泳がせている。
 ……夢だということにしても、さすがに無理があっただろうか。
 それにヒューイはベネディクトの知る人間の中で、もっとも精神力の強い男だ。いくら具合が悪くて朦朧としていても、ステラ・ハサウェイみたいな女に背後を取られてしまうことはないだろう。
「まあ、オナってるところ見られるよりは、少しはマシかな……いや、どうだろ……?」
 独り言のようにボソッと付け足すと、そこでヒューイが「うぐっ」と変な声を漏らしてむせた。
「ああ。お前、あんま下ネタ好きじゃないもんな」
 彼は昔からそうだった。下ネタにも、色恋の話にもほとんど乗ってこない。妻を身ごもらせたのだからそれなりのことはヤッているはずなのだが、それすらもきっとヒューイにとっては神聖な儀式のような何かなのだろう。
 そういうお堅い男を相手にぶつける質問ではなかったな、と少し申し訳なく思った。
「朝っぱらから変な話して悪かったな」
「い、いや……僕はもう行くが……ほかに、何か必要なものはあるか?」
「ああ。色々悪かった。今日は大事をとって休むがな、本当にもう大丈夫だ」

 そう言ってヒューイを送り出し、再び寝台にもぐり込んだベネディクトだったが、考え直した。いま眠ってしまっては昼夜の感覚がおかしくなって、明日からの仕事に差し支える。
 そこで当初の予定通り、浴場へ向かって汗を流した。さっぱりしたところで食堂へ足を運んだ。朝食の時間はとうに過ぎており昼食には早い時間だったので、中途半端なメニューしかなかったが、腹を満たす。食欲はあったし、食べたあとに具合が悪くなることもなかった。

 食堂を出て自室へ向かうと、部屋の前に誰かが立っていた。
 それはステラ・ハサウェイだった。
「……!?」
 ベネディクトは息を飲み、慌てて踵を返す。しかし、
「おい、バーキン!」
 ばっちりと姿を見られていたようだ。
「止まれ! 貴様、何故逃げる!」
 会いたくない、合わせる顔がないという気持ちはあったが、「逃げる」という表現も気に食わない。なぜ自分がステラ・ハサウェイから逃げねばならぬのだ。このベネディクト・バーキン……ではなくて、ラスキンは、負け犬ではない。
 ベネディクトはピタッと止まって、思い切りよく振り返った。わざとらしいほどに胸を反らして、ステラに向かってのしのしと歩いて行く。そしてステラの真正面に立って、彼女のつるんとした額をを見下ろしてやった。
「……ウス。なんっすかね」
「貴様、なぜ出歩いている。熱は下がったのか?」
「今日は大事をとって休んでるだけです。もうなんともないっすよ」
「あの坐薬、効果があったようだな」
「う……」
 坐薬のことを言われた途端、胸を張っている気力がなくなった。
 それに、ステラには礼を言わなくてはならない。非常に癪ではあるが、自分一人だったら、坐薬を正しい位置に収められたかどうか分からないのだから。尻に突っ込む薬があることは知っているが、使用するのは初めてだった。色々と躊躇っている間に、一つ目の薬のように二つ目もダメにしてしまっていたかもしれない。くわえて彼女には授業を手伝ってもらっている。
「ハサウェイ代理。あ、あのー……えー……」
「私は盥と水差しの回収に来ただけだ」
「あ、ああ……」
 あれも彼女だったのか……やはりお礼を言わなくては。言わなくては。この憎たらしい女に礼を言わなくては……。むかつくけど、言わなくては。
「あの、あのー……」
 ベネディクトが口ごもっているうちに、ステラのほうが別の質問をしてくる。
「バーキン。私は貴様について誤解をしていたようだ」
「え?」
「あの本のことだが……私は貴様がオオカミやドラゴンに自分を重ねているのだと考えていた。だから、ヒツジやヤギをくれてやろうとしたのだが……貴様は、カマを掘られたい側だったのだな」
「はあ!?」
「昨日の貴様の様子から、そう判断したが……違うのか?」
「えっ……ちっ、違う!!」
 ベネディクトの声が大きかったせいで、廊下の向こう側を掃除していたメイドがこちらを見ている。
「ではなぜ陰茎を硬直させていたんだ?」
「おわあ! ちょ、ちょっ……」
 黙ってくれと叫びたいところだがそれではますますメイドがこちらに注目するだろう。ベネディクトは自室の扉を開けてそこにステラを押し込もうとする。
 しかし、ステラの身体は動かなかった。彼女は一瞬で足に力を入れ、その場に踏みとどまったのである。身体の大きさは普通の女性の範囲のものなのに、男みたいな質量があった。ステラには底知れぬ筋力が備わっているのだ。呆気にとられていると、またステラのほうが先に口を開く。
「おい……いきなり、何だというのだ」
「え? いや……廊下でする話じゃないでしょうが!」
 そこでようやくステラもメイドの存在を認めたようだ。今度は彼女自ら部屋の中へと入っていった。

「……で、違うのか?」
 ふたりで部屋に入り、ステラと向き合ったベネディクトはたいへん困惑した。
 廊下でするような話じゃないのは確かだ。自分は間違っていない。しかしこれでは改めて説明しなくてはいけないではないか。自分はカマを掘られたい願望も無ければ、動物を犯したい願望もない。
 では、なぜあんな本を持っていたのかを説明しなくてはいけない。
「あれは……俺の本じゃなくて……えーと……か、借りたんですよ。その、好奇心で」
「貴様、自分のだと言っていなかったか?」
「まあ、それは……あの場を収めるためというか、ほら……」
 ステラは真顔を保ったままだった。
 実はあの本、あんたの叔父さんのなんだぜ! と言ってやったら彼女はどんな表情になるのだろう。彼女がショックを受けて、青ざめる姿を見てみたいという意地悪な思いに駆られたが、ハサウェイ教官長を犠牲にして自分の欲求を満たすわけにもいかない。
「あの時は、貰ったつもりでいたんですけど、えー、その……実際に読んでみたら、俺の趣味じゃなかったんで……」
「返したのか」
「そ、そう! 返したんっす!」
 ちょっとだけ興味はあった。だが、実際に目を通したら自分には合っていなかった。そうだ、これで説明がつくはずだ。そう思った。
「あの本が貴様のものでないのはわかった。では、なぜ昨日は陰茎を硬直させていたのだ?」
「うううっ……!」
 そうだった。その問題が残っていた。あと、陰茎とか言うのやめてほしい。ステラ・ハサウェイの口から「ちんこ」みたいな単語が出てきてもそれはそれで困るのだが。
「あれは、興奮した時の状態なのだろう?」
「あ、ああー……」
 そういうことになるのだろうか。非常に不本意である。しかし、朝立ちというものもある。
「別にやらしいこと考えてなくても、そうなることもあるんっすよ……起きた直後とか。ほら、俺、昨日なんかはずっと朦朧としてたんで……」
「そういうものなのか?」
 ベネディクト的にはそういうことにしておきたいので頷いた。
 彼女は真顔のままである。猥談をしている人にはまったく見えなかった。純粋な興味からの質問なのだろうか。
「ハサウェイ代理が普段いるところは、司令部以上に男所帯ってやつでしょ。ふいに見ちゃったりとか、話が聞こえちゃったりとか、そういうことないですかね……」
 教官長から、ステラは二十八歳──ベネディクトと同じ──だと聞いている。男所帯で過ごしている二十八の女にしては、何も知らないんだなと思った。いや、騎士団員たちは委縮しまくって、彼女の前ではそういう話を避けているのかもしれない。
 ベネディクト自身もエッチな話は大好きだが、ステラ・ハサウェイとそれをしたいとはまったく思わなかった。
「黒鴎騎士団の団員たちに、訊いてみたらいいんじゃないっすか。きっと、教えてくれますよ」
 気は進まなくても団長命令ならば教えてくれるだろう。そう考えて言った言葉だった。だが、ステラは美しい額に皺を寄せた。
「四六時中同じ船に乗ってる奴らよりは、貴様のほうが訊ねやすい」
「え? あ、ああ……そりゃそうっすよね」
 なんて答えてはみたものの、なにかスッキリしない。異性から下ネタを話しやすいなどと言われて嬉しい男がいるだろうか。
 ……いや、なんでステラ・ハサウェイに異性だと意識されなくちゃいけないんだ?
 何かモヤモヤしたものを感じているうちに、ステラは寝台の傍にある盥を手に取ろうとした。
「あ。俺が片づけるんで、いいっすよ。その……いろいろ、迷惑かけて悪かったですね。これ、ヒューイが持ってきたもんですけど」
 先ほどまでは「この憎たらしい女に礼を言うのは癪だ」と考えていたはずだが、今はなぜだかプライドが──カスみたいなプライドが──傷ついている気がした。
 彼女に早く立ち去って欲しくて、ヒューイに貰ったオレンジをお礼がわりにひとつ渡す。
「……オレンジか」
「ええ。今朝、農場から届いたばかりだって言ってました」
「ふうん」
 彼女はオレンジのヘタがついていない側に、ズボッと親指を入れ、もりもりと皮を剥いた。そして房を口の中に入れる。
「……甘くて美味いな」
 これまで真顔だったり眉を顰めていたりしたステラの表情が、ちょっとだけ柔らかいものになる。目元のほくろが、妙に可愛いものに見えた。

 いやいや、おかしいだろう。
 ステラ・ハサウェイと「可愛い」は対極にあるようなものなのに。

 うっかり見入ってしまったことを、非常に悔しいと思った。
 病み上がりのせいで感覚が狂っているのかもしれない。
 ステラが出て行ったあと、ベネディクトもオレンジを手に取った。彼女がやったように親指を突っ込もうとしたが、皮がぶ厚くて硬くてなかなかうまくいかない。
 ようやく指が入ったと思ったら、ブシュッと汁が飛んで目に入った。
「うお……!」
 瞬きを繰り返しながら、これは通常、ナイフを使って剥くものなのではないかと思った。


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