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15、陣容を整える
昔のおんな
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宴がはけて、恭親王は詒郡王を歓待するために、蛇女を侍らせて〈清談〉をするといって大浴場の隣の部屋に籠った。その背を見送って、ゾーイはそっと溜息をつく。主たちの性的嗜好についてとやかく言うことはできないのだが、獣人の奴隷を集めて〈清談〉に耽るのだけは、どうしても受け入れられない。
「相変わらず、獣人だけをご寵愛なのか? サウラ様にも暇を出されたと聞いたし、現在、殿下の周囲には、まともなご側室はいないということか?」
ゲルは聖地の僧院で作られた芋焼酎をゾーイの盃に注いでやりながら、頷いた。
「サウラ様については、徹頭徹尾、放置気味でおられたし、今更不思議にも思わないが、夜のお相手はもっぱら蛇どものみだ」
「……レイナ様を失ったのが、これほど後を引くとはな。もう一人、外に囲っていた女がいたではないか、あれはどうしたのだ?」
空いた皿を重ねながら、トルフィンが言う。
「ユイファさんのことでしたら、彼女とはもうとっくに、かなりの金と不動産とを渡して、縁を切っていますよ。……あれは何というか、我が主ながら胸糞悪いやり口でしたし」
エンロンがトルフィンを手伝って皿を片づけながら、ちろちろとそのやり取りを聞いている。
「ユイファ……ああ、あの没落商家の未亡人のことか。いくら何でも、皇子の側室にはできまい。女の方も心得ていて、手切れ金をもらって、あっさりしたものだった。実は、ソリスティアに来る前に一度あの家を尋ねたのだ。今回の状況の説明と、最後の……まあ、遺産の前渡しのようなものだ。これ以後、もう関わることもないと、念押しに行ったのだが」
ゲルが、漬物を齧りながら言う。
「義弟の面倒を見ながら、逞しくやっていた。義弟が成人したら、もらった金で爵位を買うと言っていたな。殿下たち三皇子に、若気の至りとはいえ、滅茶苦茶なことをされたはずだが、割り切っているのか穏やかなものだったよ」
一人だけ事情を知らないエンロンの眉間に皺が寄っている。やっぱり暗黒三皇子、それなりの悪行を積んでいるじゃないか。
そのエンロンの表情を見て、ゲルが困ったように眉を八の字にした。
「ああ、若いとき……今でも十分若いけれど、奥方とうまくいかなくてね。邸に寄りつかずに遊蕩されたのだ。邸には気に喰わない正室と、側室がお二人おられたが、殿下がご寵愛だったのはお一人だけで……どういうことが起こるが予想がつくと思うが」
ゲルが説明すると、ゾーイが短く刈った頭を振った。
「昔から、こうと思い込むと頑固な方でな。女も、これと決めたらその一人だけしか愛さないんだ。当然、ご正室は嫉妬で荒れ狂うし、陰に日向に、いじめも後を絶たなくて、殿下はウンザリして益々、足が遠のくというわけだ」
遠慮がちに、紅一点のアリナが尋ねた。アリナは意外と酒に強く、さっきから淡々と盃を重ねている。
「一人の女性を一途に愛するのは、別に悪いことではないのではありません?」
ゾーイが首を振る。
「ある程度の地位に就く者は、体面上でも複数の側室を抱えざるを得ない。そういう立場の者が、一人に入れあげて他を全く省みないというのは、けして褒められたことではない。殿下の場合も、歪んだご寵愛のツケは全てご寵姫様に向かったわけだ。取り返しのつかぬ形でな」
エンロンが尋ねる。
「その……ご寵姫様というのが、さきほど名前が出たレイナ様?」
「そうだ。……殿下や我々が南方の異教徒征伐にてこずっている隙に、ご正室様が悋気を起こして折檻の挙句、真冬の火の気もない納屋に閉じ込めて、家宰が気づいて救い出した時には、虫の息だったそうだ」
ひっと思わずエンロンが息を飲む。道理で側室の話は地雷なのだ。
「南方から帰った後の殿下のお怒りは凄まじかった。あれ以来、獣人以外は近づけようとはなさらぬ。貴族の女というものを憎んですらおられるようだ」
ゲルが肩を落とす。邸の留守居役も相当に気をつけていたが、正室の権力の前には無力であった。深窓の令嬢である正室が、まさか側室に殺すほどの折檻を加えるとは、想像していなかったせいもある。
「わたしには、別に普通だったけれど……」
アリナが首を傾げる。アリナは十二貴嬪家の一つ、ゲセル家の末娘だ。
「それは、アリナ殿がゾーイの奥方だからだ。殿下は部下の奥方にはお優しいのだがな。亡きデュクト殿の奥方も、常に気をかけておられるし、うちのや、妾にまであれこれ気を使ってくださる」
ゲルの妾は、以前皇宮で恭親王付きの侍女をしていた女で、その縁でゲルが面倒を見ることになったのだ。トルフィンがつくづく不思議そうに言った。
「どうして自分の奥方にだけ、あんなだったのでしょうね?」
「香水臭いからだろう。奥方も意地になって振りかけていたフシがあるからな」
ゾーイが芋焼酎を煽りながら言うのに、トルフィンが首を振る。
「それもあるでしょうが、殿下って基本的には目下の者にはとてもお優しいでしょう。押し付けられた側室候補たちにも、乱暴なことはしないで接していたようですし、侍女や宦官にも気づかいを忘れない。……なのに、ご正室様にだけ、氷のように冷たかったですよね?据え膳には基本手を付けるあの人が、いっさい指一本触れなかったなんて……」
トルフィンの言葉に、エンロンもアリナも目を瞠る。据え膳に手を付けるのは、別に好色だからではない。手を付けずに追い返せば、後でその女がひどい折檻を受けたりすることになるからだ。だが、周囲がどれほど薦めても宥めてもすかしても、恭親王は絶対に正室と同衾しなかったという。
「それは……ご正室様にも同情するわ。お世継ぎを生むようにという圧力もすごかったでようし。それなのに、肝心の夫は自分に指一本触れないわ、側室一人に入れあげて、外に女まで囲うって。精神的にもおかしくなるわよ」
アリナの言葉に、ゾーイが苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「ご正室様のなさったことは到底許されることではないが、心情としては理解できなくもない。……レイナ様は身ごもっておられたらしいからな」
エンロンが、干した牡蠣の油漬けを壺から皿に盛りつけながら尋ねた。
「奥方様……ご正室様が亡くなられたのは、その一件と関係が?」
「表向き病死として届け出ているが、殿下に責められて、その夜に毒を呷られた」
ゲルの沈鬱な言葉に、一同沈黙する。
「結婚も側室も懲り懲りって思うわけですね。……なるほど」
エンロンが眉間に深い皺を刻んで、呟いた。
「相変わらず、獣人だけをご寵愛なのか? サウラ様にも暇を出されたと聞いたし、現在、殿下の周囲には、まともなご側室はいないということか?」
ゲルは聖地の僧院で作られた芋焼酎をゾーイの盃に注いでやりながら、頷いた。
「サウラ様については、徹頭徹尾、放置気味でおられたし、今更不思議にも思わないが、夜のお相手はもっぱら蛇どものみだ」
「……レイナ様を失ったのが、これほど後を引くとはな。もう一人、外に囲っていた女がいたではないか、あれはどうしたのだ?」
空いた皿を重ねながら、トルフィンが言う。
「ユイファさんのことでしたら、彼女とはもうとっくに、かなりの金と不動産とを渡して、縁を切っていますよ。……あれは何というか、我が主ながら胸糞悪いやり口でしたし」
エンロンがトルフィンを手伝って皿を片づけながら、ちろちろとそのやり取りを聞いている。
「ユイファ……ああ、あの没落商家の未亡人のことか。いくら何でも、皇子の側室にはできまい。女の方も心得ていて、手切れ金をもらって、あっさりしたものだった。実は、ソリスティアに来る前に一度あの家を尋ねたのだ。今回の状況の説明と、最後の……まあ、遺産の前渡しのようなものだ。これ以後、もう関わることもないと、念押しに行ったのだが」
ゲルが、漬物を齧りながら言う。
「義弟の面倒を見ながら、逞しくやっていた。義弟が成人したら、もらった金で爵位を買うと言っていたな。殿下たち三皇子に、若気の至りとはいえ、滅茶苦茶なことをされたはずだが、割り切っているのか穏やかなものだったよ」
一人だけ事情を知らないエンロンの眉間に皺が寄っている。やっぱり暗黒三皇子、それなりの悪行を積んでいるじゃないか。
そのエンロンの表情を見て、ゲルが困ったように眉を八の字にした。
「ああ、若いとき……今でも十分若いけれど、奥方とうまくいかなくてね。邸に寄りつかずに遊蕩されたのだ。邸には気に喰わない正室と、側室がお二人おられたが、殿下がご寵愛だったのはお一人だけで……どういうことが起こるが予想がつくと思うが」
ゲルが説明すると、ゾーイが短く刈った頭を振った。
「昔から、こうと思い込むと頑固な方でな。女も、これと決めたらその一人だけしか愛さないんだ。当然、ご正室は嫉妬で荒れ狂うし、陰に日向に、いじめも後を絶たなくて、殿下はウンザリして益々、足が遠のくというわけだ」
遠慮がちに、紅一点のアリナが尋ねた。アリナは意外と酒に強く、さっきから淡々と盃を重ねている。
「一人の女性を一途に愛するのは、別に悪いことではないのではありません?」
ゾーイが首を振る。
「ある程度の地位に就く者は、体面上でも複数の側室を抱えざるを得ない。そういう立場の者が、一人に入れあげて他を全く省みないというのは、けして褒められたことではない。殿下の場合も、歪んだご寵愛のツケは全てご寵姫様に向かったわけだ。取り返しのつかぬ形でな」
エンロンが尋ねる。
「その……ご寵姫様というのが、さきほど名前が出たレイナ様?」
「そうだ。……殿下や我々が南方の異教徒征伐にてこずっている隙に、ご正室様が悋気を起こして折檻の挙句、真冬の火の気もない納屋に閉じ込めて、家宰が気づいて救い出した時には、虫の息だったそうだ」
ひっと思わずエンロンが息を飲む。道理で側室の話は地雷なのだ。
「南方から帰った後の殿下のお怒りは凄まじかった。あれ以来、獣人以外は近づけようとはなさらぬ。貴族の女というものを憎んですらおられるようだ」
ゲルが肩を落とす。邸の留守居役も相当に気をつけていたが、正室の権力の前には無力であった。深窓の令嬢である正室が、まさか側室に殺すほどの折檻を加えるとは、想像していなかったせいもある。
「わたしには、別に普通だったけれど……」
アリナが首を傾げる。アリナは十二貴嬪家の一つ、ゲセル家の末娘だ。
「それは、アリナ殿がゾーイの奥方だからだ。殿下は部下の奥方にはお優しいのだがな。亡きデュクト殿の奥方も、常に気をかけておられるし、うちのや、妾にまであれこれ気を使ってくださる」
ゲルの妾は、以前皇宮で恭親王付きの侍女をしていた女で、その縁でゲルが面倒を見ることになったのだ。トルフィンがつくづく不思議そうに言った。
「どうして自分の奥方にだけ、あんなだったのでしょうね?」
「香水臭いからだろう。奥方も意地になって振りかけていたフシがあるからな」
ゾーイが芋焼酎を煽りながら言うのに、トルフィンが首を振る。
「それもあるでしょうが、殿下って基本的には目下の者にはとてもお優しいでしょう。押し付けられた側室候補たちにも、乱暴なことはしないで接していたようですし、侍女や宦官にも気づかいを忘れない。……なのに、ご正室様にだけ、氷のように冷たかったですよね?据え膳には基本手を付けるあの人が、いっさい指一本触れなかったなんて……」
トルフィンの言葉に、エンロンもアリナも目を瞠る。据え膳に手を付けるのは、別に好色だからではない。手を付けずに追い返せば、後でその女がひどい折檻を受けたりすることになるからだ。だが、周囲がどれほど薦めても宥めてもすかしても、恭親王は絶対に正室と同衾しなかったという。
「それは……ご正室様にも同情するわ。お世継ぎを生むようにという圧力もすごかったでようし。それなのに、肝心の夫は自分に指一本触れないわ、側室一人に入れあげて、外に女まで囲うって。精神的にもおかしくなるわよ」
アリナの言葉に、ゾーイが苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「ご正室様のなさったことは到底許されることではないが、心情としては理解できなくもない。……レイナ様は身ごもっておられたらしいからな」
エンロンが、干した牡蠣の油漬けを壺から皿に盛りつけながら尋ねた。
「奥方様……ご正室様が亡くなられたのは、その一件と関係が?」
「表向き病死として届け出ているが、殿下に責められて、その夜に毒を呷られた」
ゲルの沈鬱な言葉に、一同沈黙する。
「結婚も側室も懲り懲りって思うわけですね。……なるほど」
エンロンが眉間に深い皺を刻んで、呟いた。
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