上 下
127 / 191
18、婚礼間近

ゾーイの回想

しおりを挟む
「全くいい気なものだな。甘ったるくて背中が痒くなる」

 ぶっすりと呟くゾーイに、面白そうにアリナが微笑む。

「結婚を控えていたら、あんなものでしょう?あなたが無骨すぎるのよ」
「いや、しかし、仮にも戦神と讃えられた殿下が、子供のような姫君にすっかり骨抜きとは、何とも世も末だ。あんな屋台の食べ物など食して。殿下は胃が弱いのに」
「ねえ、ゾーイ。あたしたちも新婚よね。なんで殿下のデートにあなたは悪態ついているのよ」
「殿下のくせにあまりにも青春していて、正直羨ましいからだ!ああ見えても、肉を食べ過ぎると必ず腹を壊すくらい胃腸が弱い上に、『聖典』を全て暗誦あんしょうしているくらい、年寄りじみた信心深さなんだぞ。それがあんなに鼻の下を長くして、みっともなくて情けなくて涙が出る!」
「いいじゃないの、あるじの束の間の青春の一コマに貢献できて」

 悪態はついているが、ゾーイは主が女と二人連れで幸せそうに歩いていることを、心から安堵していた。だが、だからこそ、悔しいのだ。姫君に主が微笑みかけているのが。主の、あんな笑顔はいったい何年ぶりだろうか。

 初めて主に会ったのは、ゾーイが父メイガンとともに皇子の武術と魔術指南役に抜擢された時だ。ゾーイは二十歳。十三歳の主は、少女かと見まごうような、触れれば溶けてしまう氷の像のような、繊細な少年だった。
 長い昏睡から目覚めて、以前の記憶を全て失った不安さが、長い睫毛の先からも、やや薄い形の良い唇からも、黒くて艶のある髪からほの見える白いうなじからも、溢れ出ていた。
 これが女であれば、ゾーイはその場で跪いて愛を請うたであろう。男であると確認して、密かに落胆したくらいである。
 幸い、ゾーイにはそちらの性癖はないが、男と承知で劣情を抱く者は多かろうと思った。

 武術指南の師として、また、魔力制御の師として、ゾーイはその成長をずっと間近で見て来た。
 皇家と貴種の男は、魔物を討つ聖騎士であらねばならない。身体を鍛え、剣の腕を磨き、馬術を極め、聖別された剣の力を引き出すため、その血に受けた魔力を操る。
 皇家の祖である龍騎士がこの地上に降り立ってより、この世界を守る定めを負っているのである。

 だが、訓練の初め、主は剣を握ることを頑なに拒否した。理由はけして語らなかったが、刃を潰した剣で危険はない、と説明しても、主は首を横に振り続けた。ゾーイは根負けして、木刀を与えた。 

 木刀で訓練を続けると、細くてひ弱そうに見えた肉体は、実は恐るべき強靭な力を秘めていた。
 他の貴種の男とは比較にならぬほどの魔力を体内に巡らし、筋力を強化し、防御力を増す。それを無駄なく、効率よく行うための魔力循環の退屈な訓練にも、剣の技量を上げる地道な基礎訓練にも、主はさぼることも、文句ひとつ言うこともなかった。

 真面目で誠実な主を、ゾーイは幼い弟のように可愛がった。主もゾーイに懐いた。その頃の主はよく笑った。明るくて、汚れなどない、新緑が春の陽光を弾いてきらきらと輝くような笑顔に、ゾーイは魅了された。この少年を一生、命懸けで守るのだと、二十歳のゾーイは心に誓った。

 主の笑顔が、曇るようになったのはいつだったか。
 ある日、主は自ら剣を取った。けして触れようとしなかった剣を握り、その日からはのめり込むように剣に精進した。あの日以降、主は氷のような無表情を顔に貼りつけることが多くなった。作ったような冷笑、人を懐柔するための蕩けるような微笑み。主は仮面の上にいくつも人工的な笑みを浮かべるようになり、ゾーイたち従者にも、あの、輝く透明な笑顔を見せてくれなくなった。

 成人後、初めての巡検先の北方辺境で、彼らは突如侵入した異民族に囚われ、天幕に連れ去られる。虜囚となった二か月、恭親王とゾーイ、ゾラ、トルフィン、ゲル、そして正傅のデュクトは、今思い出してもはらわたを千切られれるような屈辱を味わった。ゾーイは、あの時主を守れなかったことを、おそらく一生、悔い続ける。ゾーイは知ったのだ。わが身を踏みにじられるよりもなお、辛い地獄があることを。



 恭親王のソリスティア赴任の知らせを受けた時、ゾーイは父の喪に服するために墓前に詰めていた。服喪を切り上げてすぐに出立しようとしたが、使者は恭親王の伝言を伝えてそれを止めた。

『メイガンは我が師でもある。私の分も、その魂の平安を祈って欲しい。師の魂が、永遠の陰陽の調和を得るように』

 聖地に行くのに、別に危険もないと思い込んでいたこともある。だから、自分が不在の間に主が何度も襲撃を受けたと聞き、ゾーイは怒り狂った。自分のいないところで主が危険に晒されるなど、あってはならないのだ。

 今回のお忍びの散策も、危険は重々承知している。だが、自分を信頼して相談を持ち掛けてくれた主の、ほんの小さな要望くらいは叶えたい。主と姫君がひと時、外の空気を吸う時間くらい、作れなくて何が従者か。

 今、質素な服に身を包んで、主は少女を抱き寄せて歩いていく。ゾーイは油断なく周囲に目を配りながら、主の表情を盗み見て驚く。

 十三歳の頃の、あの笑顔ほどではないが、主が氷の仮面を外している。目の前の少女を、本当に愛しているのだろう。少女の顔はフードに隠されて見えないが、少し、甘えるように身体を預け、片手は控えめに、主の上着を掴んでいる。

 どっからどう見ても、付き合い始めたばかりの恋人同士の図だ。アンジェリカが言うには、主からは常に、姫君に向かってピンク色のラブラブビームが飛んでいるらしいのだが、生憎あいにく、ゾーイにはそういう特殊光線を視認する能力がない。
 そんなすごい光線が視認できるアンジェリカは、是非、神殿に奉仕に行くべきじゃないか、と大真面目に言ったら、『ゾーイさんは本当に、冗談が通じない』とものすごく馬鹿にされた。何故だ。殿下程ではないが、ゾーイもアンジェリカが苦手だ。
 
 ラブラブビームは視認できないが、二人の間に漂う甘い雰囲気はわかる。主の笑顔から発散される甘い雰囲気は、道行く女たちが自分の恋人そっちのけで見惚れるくらいの威力である。時には、男の方まで明らかに見惚れている。主にもフードを被せるべきであったが、フード二人連れは異様すぎて却って目立ってしまう。ふと、隣のアリナが身を寄せてきた。

「なんか、まずくない? 目立ってるわよ……」
「うむ……俺たちは見慣れているが、少々、あの美貌を侮っていたな」

 恭親王が目立てば、横にいるフードの少女にも必然的に目がいってしまう。明らかに只者でない美貌を放つ二人の正体に、気づく者もいるかもしれない。

(気の毒だが、散歩はそろそろ切り上げてもらわねばならんな)

 ゾーイが予め決めていた帰宅の合図を送ろうとした時、恭親王が首筋に手を触れた。

 危険を探知した時の、彼の癖だ。

(来た――)

 ゾーイと、アリナが身構える中、大通りの向こうから、絶叫が聞こえた。

「救けてくれ―――っ馬車がっ、馬車が暴走した―――っ!」
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

【完結】婚約破棄の代償は

恋愛 / 完結 24h.ポイント:3,061pt お気に入り:385

神さま…幸せになりたい…

恋愛 / 完結 24h.ポイント:10,089pt お気に入り:136

本当はあなたを愛してました

m
恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,279pt お気に入り:218

わたしたち、いまさら恋ができますか?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,131pt お気に入り:379

平凡少年とダンジョン旅

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:92pt お気に入り:1

隻眼の騎士王の歪な溺愛に亡国の王女は囚われる

恋愛 / 完結 24h.ポイント:404pt お気に入り:429

身分違いの恋

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:4,955pt お気に入り:331

処理中です...