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18、婚礼間近

暴走と逃走

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 前方から走ってくるのは、目を血走らせ、口から泡を噴いて暴走する馬に曳かれた一台の荷馬車。ガラガラと凄まじい音と砂埃をあげながら、大通りをまっすぐに突っ込んでくる。

「きゃ―――っ」
「暴走馬車だ―――! 危ないぞっ!」
「逃げろっこっちだっ」

 人々は悲鳴をあげて逃げ惑い、大切な連れの手を求めて名を呼び合い、のどかだった〈港街〉には一気に混乱が広がる。馬車は居並ぶ屋台を車輪に巻き込み、蹴倒しながら、どんどんとアデライードらの方に向かってくる。

「殿下!」
「アデライード、こっちへ!」

 驚きに棒立ちになったアデライードを右腕で庇うようにして、恭親王は道の端に寄り、細い路地に入る。その時、首筋に強烈な警告を感知して、恭親王はアデライードを右手で抱いて、後ろに飛び退った。

 ガシャーン!

 頭上から巨大な植木鉢が落下し、粉々に砕ける。直撃していたら、いかな龍種でも命はなかった。次の瞬間、背後から凄まじい突きが撃ち込まれ、間一髪で避ける。振り向きざま、左手で背後に隠していた剣を抜き、打ち合わせる。

 カキーン! 
 カン、カン、カンと商人風の服装をした相手の鋭い撃剣をいなすが、右腕にアデライードを庇った状態では分が悪い。ただ、即座に駆けつけたゾーイが敵の背後から袈裟懸けにし、敵は鮮血を噴いて倒れる。と、もう一人、建物の上から恭親王の背後に飛び降りて、肩口に打ち込んでくるのを、アデライードを庇うように巻き込みながら身体ごと反転し、回転力を利用して剣を弾き飛ばす。
 ガキーン!
 間髪入れずに長い脚で思いっきりみぞおちを蹴りつけ、後ろに蹴り倒した。

「ぐほっ」

 巡礼者のなりをした男は内臓を傷つけたのか、口から鮮血を吐いて路地の石畳に倒れる。さらに路地の奥から出て来た若い男が、剣を構えて走り込んでくるのを迎撃しようと身構えたところ、後ろから恭親王の顔の横ぎりぎりを飛んでいったナイフが、男の開いた口の中に命中してそのままがしゃんと頽れた。

 背後からはさらに数人が、イフリートの〈黒影〉であることを隠さない黒装束で現れ、ゾーイとアリナに斬りかかる。

「殿下! ここは我々が!」
「わかった! 気をつけよ!」

 かねての打ち合わせのとおり、恭親王はアデライードの手を引いて、路地の奥へと走り出した。

「でもっ! アリナさんがっ!」

 味方を見捨てて逃げることに、アデライードが躊躇する。

「あの二人は大丈夫だ。むしろあなたがいると邪魔なんだ」
「邪魔……」
「とにかく死ぬ気で走れっ!」




 散策に備えて歩きやすいブーツを履いているが、アデライードは石畳の道など走ったことはない。幾度もつまづいて転びそうになりながら、恭親王に抱きかかえられるようにして走る。路地を幾筋も曲がり、迷路のように入り組んだ小道を全速力で走り抜ける。途中、何人かとぶつかりかけ、罵声を浴びせかけられながら、ぐるぐると街を走り続ける。アデライードの心臓が早鐘を打ち、息が上がり、汗が噴き出し、足がふらつき、脇腹が痛くなる。こんなことはあの時以来。そう、エイダに追われ、森の中をやみくもに走った時以来だった。
 
 苦しさに頭が白くなりかけたころ、ふいに、強く左手を引かれてどこかの建物に引っ張り込まれた。立っていられなくて恭親王に抱きしめられるまま、彼によりかかって肩で息をする。恭親王がマントでアデライードを隠すようにして身を潜めていると、ばたばたと窓の外を何人かが通り過ぎていく。

「いたか!」
「そう遠くまでは行っていないはずだ!」
「捜せ!」

 声を掛け合うと再び散っていく。ふうっ。と恭親王が大きく息を吐くのが聞こえた。まだアデライードの息は整っていないが、恭親王は全く息を乱していない。自分がいなければ、この人はもっと早く、もっと遠くまで走れるのだ、とアデライードは「邪魔」と言われたことを思い出していた。

「客か? 三階の部屋なら空いているぜ!」

 背後から声をかけられて、アデライードは恭親王の腕の中でびくりと身体を震わせた。

「……ああ。連れが具合を悪くした。少し休ませてくれ」

 恭親王が答えると、店の奥のカウンターの向こうにいた髭面の男が、古びた鍵を出してきた。

「三階の、真ん中の部屋だ。両隣が盛ってるから、うるさいかもしれんがな。ま、おたくらも盛っちまえば気にもなるまい」

 恭親王が鍵を受け取りながら、軽く眉を顰める。

「こんな真昼間から、商売繁盛だな」
「なに、〈聖婚〉さまさまよ。結婚のために聖地まで来たけど、我慢できないって駆けこんでくんの。あ、料金は前金でもらうぜ」

 恭親王は財布から銀貨を出し、ついでに水も注文する。

「帝国銀貨か。お客さん、東の人かい?」
「ああ」

 水の入った瓶を二本、受け取って、恭親王はアデライードを抱えるようにして狭い階段を上がっていく。
 アデライードはこれからどうなるのかと、整わない息を懸命に宥めながら、黙って彼にしがみついていた。



 安宿のぼろぼろの壁といい、いかにも不衛生な雰囲気に、庶民的な恭親王も眉を顰めてしまう。連れ込み宿でも、こんなところでヤるのは勘弁だな、と恭親王は思う。

 三階は三部屋、少し広めのいい部屋なのだろう。この宿にしては、という但し書きが付くけれど。隣りの部屋のドアの前を通ると、中からくぐもった声が聞こえてくる。……壁はともかく、ドアはかなり薄い。

「ああんっ、ああっ、あん、あっあっ」
「マリア、マリア、はっはっ」
「ああああっ、ああっ」

 アデライードは怯えて恭親王に抱き着く。昼間っから何やってんだと恭親王もうんざりするが、傍から見れば自分たちも同じ穴の貉である。肩を竦めてさっさと隣のドアを通り過ぎ、真ん中の部屋のドアに鍵を差し込み、鍵を開ける。中は意外と普通であった。
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