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未成熟な僕等の秘密
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数ヶ月ぶりのキスは軽く触れるだけのものだった。
けれど、はじめてキスしたときよりもずっと、胸がどきどきした。
布袋を抱える腕に自然とちからが込められる。呆然と瞬きを繰り返すアリエッタの瞳をじっとみつめて、照れを隠すように悪戯な笑みを浮かべると、エミリオは両手をポケットに突っ込んで、元来た裏道を戻って行った。
去りゆくエミリオの背中から目が離せないまま、しばらくのあいだアリエッタはその場に立ち尽くしていた。屋敷の角にエミリオの姿が隠れたところでようやく我に返り、屋敷へ戻って勝手口の扉を閉めた。帽子を脱ぎ、布袋を棚に置いて、閉じた扉に背を預け、小さく息をつく。胸の前で祈るように手を結び、高鳴る胸の鼓動を必死に抑えた。
触れ合った唇が離れたあと安堵したように綻んだエミリオの顔が、まぶたの裏に焼き付いていた。瞬きするだけで胸がきゅうっと締め付けられて、息が詰まってしまう。
数ヶ月ぶりに見たエミリオは冬季休暇のときよりもまた背が伸びて、肩幅も広く、顔立ちも凛々しくなっていた気がする。アリエッタを映す澄んだ碧い瞳はとても情熱的で、みつめられただけで全身が熱を上げてしまうほど強い想いを感じた。
薄暗い廊下で宙を見上げ、アリエッタはなんとか気持ちを落ち着かせようと首を振った。耳の上で留めてあった前髪の一房がはらりと流れ、顔にかかる。髪を纏めなおすことも忘れたまま靴の裏の砂を落とし、布袋を抱え直して厨房へと歩き出したところで、薄暗い廊下に良く通る声が響いた。
「さすがにこっちから屋敷に入ったりはしない、か」
聞き慣れた声に、アリエッタは反射的に全身を強張らせた。慌てて振り返ると、壁にもたれかかったウルバーノが腕を組んでアリエッタを見ていた。表廊下から射し込む明かりで影になり、表情がわからないのが薄ら寒い。
階下の、使用人通路だというのに、何故家人であるウルバーノがこんな所に居るのだろう。不自然な状況に胸がざわついて、無意識に布袋を抱えなおした。
アリエッタが言葉に詰まっていると、ウルバーノの含み笑う声が聞こえた。
「久しぶり、アリエッタ」
穏やかな調子でそう言って、ウルバーノが壁を離れ、アリエッタに歩み寄る。思わず後退りかけた右足を、アリエッタは慌てて引き戻した。
無理矢理に奉仕を要求されなくなってから随分と経つものの、アリエッタにとってウルバーノとふたりきりの状況が恐ろしいものであることに変わりはなかった。使用人通路のような薄暗い人目のない場所では、特に。
「おかえりなさいませ、ウルバーノ様。すぐに荷解きに伺いますのでお部屋でお待ちください」
「いや、遠慮しておくよ。エミリオに嫉妬されるのはごめんだからね」
愛想の良いアリエッタの言葉をウルバーノはさらりと退けた。そのまま前に進み出て、彼はアリエッタの目の前で足を止めた。逃げ出したい思いを堪え、なんとかその場に止まったアリエッタを、黒い影が覆う。アリエッタの耳元に唇を寄せて、彼はけぶるように囁いた。
「忠告だけしておくよ。アリエッタ、くれぐれもわきまえてね」
口調は柔らかいのに、アリエッタは鋭利な刃物を首筋に押し付けられたように錯覚した。真近に迫った碧い瞳から突き刺さるような視線を感じる。背筋にぞくりと悪寒がはしり、恐怖で全身が粟だった。
僅かなあいだ睨みを効かせたあと、ウルバーノはアリエッタと紳士的な距離を取り、更に続けた。
「滅多なことはないと思うけど、今のエミリオはあの頃の僕と同じで女性や……性的な行為に関して興味がある時期なんだ。きみにもちょっかい出すだろうけど本気にされたら困るんだ。使用人に手を付けたなんて噂が立ったらさ……ほら、面倒だから」
ウルバーノの唇が弧を描く。目元は笑っておらず、視線は変わらず鋭いままだった。
アリエッタがこくりと頷いて見せると、ウルバーノはアリエッタの肩に軽く触れ、満足げに頷いて、そのまま表廊下へと出て行った。
ウルバーノが消えた扉口をみつめたまま、アリエッタは壁を背にふらふらと床にへたり込んだ。
ひとりきりになってからも、アリエッタはしばらく身動きが取れなかった。
ウルバーノの言葉が、警告が、幾度となく胸の奥で繰り返されていた。
今のエミリオはあの頃の――アリエッタに奉仕を強要していたウルバーノと同じなのだろうか。アリエッタにはそうは思えなかった。
エミリオはアリエッタのことをきちんと人として見てくれている。家具や物のように扱うのではなく、ひとりの女の子として扱ってくれている。それは今日、一緒に屋敷まで歩いたときに理解できた。何度も足を止めてアリエッタの隣を歩こうとしてくれたエミリオが、ウルバーノと同じわけがない。
けれど、それと同時に、アリエッタにはウルバーノの言い分も理解できてしまった。
アリエッタは生まれたときからこの家の使用人だ。それはこれからも変わらない。
例えエミリオと同じ場所にいても、そこには常に身分の違いという見えない壁が在る。本人の意思とは関係なく、エミリオとアリエッタを隔てる強固な壁が存在している。言葉を交わし、触れ合うことが出来るけれど、その壁が消え去ることは決してない。
ウルバーノの言うとおり、エミリオはそう遠くない未来に社交の場に出るのだろう。エミリオの両親だって、この家の名を、地位を上げるために、エミリオと名家の令嬢との結婚を望むはずだ。貴族の子として生まれた以上、エミリオは卑しい身分のアリエッタを選ぶわけにはいかないのだ。
アリエッタに出来るのは、いずれ訪れるその日までエミリオの側に居ることだけで。自分本位な考えでエミリオの名前を傷付けるようなことはあってはならない。してはいけない。
震える指で、アリエッタは唇に触れた。
重なり合ったあたたかい吐息を、柔らかな感触を、まだ憶えていた。
――わきまえる。
そんな簡単なことが、アリエッタにはとても困難なことに思えてしまった。
けれど、はじめてキスしたときよりもずっと、胸がどきどきした。
布袋を抱える腕に自然とちからが込められる。呆然と瞬きを繰り返すアリエッタの瞳をじっとみつめて、照れを隠すように悪戯な笑みを浮かべると、エミリオは両手をポケットに突っ込んで、元来た裏道を戻って行った。
去りゆくエミリオの背中から目が離せないまま、しばらくのあいだアリエッタはその場に立ち尽くしていた。屋敷の角にエミリオの姿が隠れたところでようやく我に返り、屋敷へ戻って勝手口の扉を閉めた。帽子を脱ぎ、布袋を棚に置いて、閉じた扉に背を預け、小さく息をつく。胸の前で祈るように手を結び、高鳴る胸の鼓動を必死に抑えた。
触れ合った唇が離れたあと安堵したように綻んだエミリオの顔が、まぶたの裏に焼き付いていた。瞬きするだけで胸がきゅうっと締め付けられて、息が詰まってしまう。
数ヶ月ぶりに見たエミリオは冬季休暇のときよりもまた背が伸びて、肩幅も広く、顔立ちも凛々しくなっていた気がする。アリエッタを映す澄んだ碧い瞳はとても情熱的で、みつめられただけで全身が熱を上げてしまうほど強い想いを感じた。
薄暗い廊下で宙を見上げ、アリエッタはなんとか気持ちを落ち着かせようと首を振った。耳の上で留めてあった前髪の一房がはらりと流れ、顔にかかる。髪を纏めなおすことも忘れたまま靴の裏の砂を落とし、布袋を抱え直して厨房へと歩き出したところで、薄暗い廊下に良く通る声が響いた。
「さすがにこっちから屋敷に入ったりはしない、か」
聞き慣れた声に、アリエッタは反射的に全身を強張らせた。慌てて振り返ると、壁にもたれかかったウルバーノが腕を組んでアリエッタを見ていた。表廊下から射し込む明かりで影になり、表情がわからないのが薄ら寒い。
階下の、使用人通路だというのに、何故家人であるウルバーノがこんな所に居るのだろう。不自然な状況に胸がざわついて、無意識に布袋を抱えなおした。
アリエッタが言葉に詰まっていると、ウルバーノの含み笑う声が聞こえた。
「久しぶり、アリエッタ」
穏やかな調子でそう言って、ウルバーノが壁を離れ、アリエッタに歩み寄る。思わず後退りかけた右足を、アリエッタは慌てて引き戻した。
無理矢理に奉仕を要求されなくなってから随分と経つものの、アリエッタにとってウルバーノとふたりきりの状況が恐ろしいものであることに変わりはなかった。使用人通路のような薄暗い人目のない場所では、特に。
「おかえりなさいませ、ウルバーノ様。すぐに荷解きに伺いますのでお部屋でお待ちください」
「いや、遠慮しておくよ。エミリオに嫉妬されるのはごめんだからね」
愛想の良いアリエッタの言葉をウルバーノはさらりと退けた。そのまま前に進み出て、彼はアリエッタの目の前で足を止めた。逃げ出したい思いを堪え、なんとかその場に止まったアリエッタを、黒い影が覆う。アリエッタの耳元に唇を寄せて、彼はけぶるように囁いた。
「忠告だけしておくよ。アリエッタ、くれぐれもわきまえてね」
口調は柔らかいのに、アリエッタは鋭利な刃物を首筋に押し付けられたように錯覚した。真近に迫った碧い瞳から突き刺さるような視線を感じる。背筋にぞくりと悪寒がはしり、恐怖で全身が粟だった。
僅かなあいだ睨みを効かせたあと、ウルバーノはアリエッタと紳士的な距離を取り、更に続けた。
「滅多なことはないと思うけど、今のエミリオはあの頃の僕と同じで女性や……性的な行為に関して興味がある時期なんだ。きみにもちょっかい出すだろうけど本気にされたら困るんだ。使用人に手を付けたなんて噂が立ったらさ……ほら、面倒だから」
ウルバーノの唇が弧を描く。目元は笑っておらず、視線は変わらず鋭いままだった。
アリエッタがこくりと頷いて見せると、ウルバーノはアリエッタの肩に軽く触れ、満足げに頷いて、そのまま表廊下へと出て行った。
ウルバーノが消えた扉口をみつめたまま、アリエッタは壁を背にふらふらと床にへたり込んだ。
ひとりきりになってからも、アリエッタはしばらく身動きが取れなかった。
ウルバーノの言葉が、警告が、幾度となく胸の奥で繰り返されていた。
今のエミリオはあの頃の――アリエッタに奉仕を強要していたウルバーノと同じなのだろうか。アリエッタにはそうは思えなかった。
エミリオはアリエッタのことをきちんと人として見てくれている。家具や物のように扱うのではなく、ひとりの女の子として扱ってくれている。それは今日、一緒に屋敷まで歩いたときに理解できた。何度も足を止めてアリエッタの隣を歩こうとしてくれたエミリオが、ウルバーノと同じわけがない。
けれど、それと同時に、アリエッタにはウルバーノの言い分も理解できてしまった。
アリエッタは生まれたときからこの家の使用人だ。それはこれからも変わらない。
例えエミリオと同じ場所にいても、そこには常に身分の違いという見えない壁が在る。本人の意思とは関係なく、エミリオとアリエッタを隔てる強固な壁が存在している。言葉を交わし、触れ合うことが出来るけれど、その壁が消え去ることは決してない。
ウルバーノの言うとおり、エミリオはそう遠くない未来に社交の場に出るのだろう。エミリオの両親だって、この家の名を、地位を上げるために、エミリオと名家の令嬢との結婚を望むはずだ。貴族の子として生まれた以上、エミリオは卑しい身分のアリエッタを選ぶわけにはいかないのだ。
アリエッタに出来るのは、いずれ訪れるその日までエミリオの側に居ることだけで。自分本位な考えでエミリオの名前を傷付けるようなことはあってはならない。してはいけない。
震える指で、アリエッタは唇に触れた。
重なり合ったあたたかい吐息を、柔らかな感触を、まだ憶えていた。
――わきまえる。
そんな簡単なことが、アリエッタにはとても困難なことに思えてしまった。
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