魔女見習いのロッテ

柴咲もも

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第8話 さよなら、わたしの初恋の人

「そろそろ閉めようと思うのですが、よろしいですか」
 唐突に声を掛けられて顔をあげると、図書館司書のプライセルがすぐそばでロッテを見下ろしていた。読みかけの本とプライセルの顔のあいだで何度か視線を行き来させて、ちらりと館内を見回すと、天井から漏れる陽の光が夕陽で紅く染まっていて、じきに日が暮れるのだと気がついた。
 ロッテはふたたび手元の本に視線を落とし、先のページをめくってみた。あと十数ページでキリのいいところまで読み進めることができそうだ。ちょうど調子も出ていることだし、もう少しだけ読み進めておきたい。
「すみません。もう少しだけ待っていただけませんか?」
 ぺこりと頭を下げてロッテが言うと、プライセルは「うーん」と唸って考え込んで、それからロッテの前に手を差し出した。シャラリと金属が触れ合う音がする。見ると、その手には鉄製の輪で鍵を束ねたものが握られていた。
「今日は残業ができなくて。私は先にあがりますので、扉の施錠をお願いできますか?」
「いいんですか?」
「はい。あなたは本を大切にする方ですから」
 そう言ってにっこり笑うと、プライセルは鍵の束をロッテに手渡して、「応援してますよ」と囁いて、図書館を出て行った。
 扉が閉まる重々しい音が、人気ひとけのなくなった館内に響いた。

 エリクシアの件から、はやくもひと月が経っていた。あれからロッテは毎日図書館に入り浸り、医学書や薬学書、過去の流行り病の記録などを、洗いざらいに調べ続けていた。
 闇雲に探したところでめぼしい情報なんて見つかるはずもない。そんなことはわかっている。けれど、ひとりで部屋にいると寂しくなって、ついゲオルグのことを考えてしまうから、たくさんの本に囲まれて黙々と調べ物に時間を費やすことで、ロッテは自覚してしまった恋心をなんとか忘れようとしていた。
 ——もうすこし。あとちょっとで何か思いつきそうなのに。
 頭の片隅に解決の糸口が見え隠れしているような、そんな気がするのに、その何かがわからない。
 ロッテは小さく溜め息を吐き、分厚い本のページを閉じると、悶々と頭を悩ませながら本棚の前をうろつきはじめた。
 薄暗い館内にこつこつと乾いた靴音が響く。ロッテが考えることを諦めて部屋に戻る準備をはじめたとき、入り口の扉が軋んだ音を立て、ゆっくりと開いた。
「プライセルさん、忘れ物ですか?」
 分厚い本と鍵束を手に、ロッテは扉を振り返った。そして、その表情をすぐさま凍り付かせた。
 少し乱れた赤銅色の髪を風に揺らし、夕陽を背に受けて扉の前に立っていたのは、薄汚れた騎士装束を身に纏い、険しい表情をしたゲオルグだった。
 黒曜石の瞳が放つ射るような視線を向けられて、頬がかあっと熱くなる。ロッテがその場に立ち尽くしていると、ゲオルグはごつごつと荒々しく靴音を響かせながら、真っ直ぐにロッテに向かって歩いてきた。
「話がある」
 語気を強めてそう言って、強引にロッテの腕を取る。そのままぐいと手を引かれ、ロッテは慌てて声をあげた。
「待って!」
 ちからが緩んだ隙を突いて、ロッテはゲオルグの手を振りほどいた。ゲオルグは一瞬表情を歪ませて、けれどもすぐにロッテの腕を掴み、今度は強引にロッテの身体を抱き寄せた。
 力強い心臓の鼓動が胸板越しに鼓膜を震わせる。彼の興奮が伝わってくる。

 ずっとゲオルグに会いたかった。会いたいと思っていた。けれど、会えない時間が過ぎれば過ぎるほど、その想いは少しずつ、ロッテの心に不安の種を蒔いていった。
 ゲオルグに恋をしていると気が付いてしまった以上、ロッテはもうシャルロッテの代用品ではいられない。ロッテはゲオルグが好きなのだから、あのような行為を重ねても虚しいだけだ。辛い思いをするだけだ。そんなことは考えなくてもわかるのに、きっと求められれば応えてしまう。ずぶずぶと深みにはまってしまう。そんな自分の愚かさが、怖くて怖くて堪らない。
 ロッテは唇を引き結び、ぐっと両腕を突っ張ってゲオルグの身体を突き放した。
「わたしは……わたしには、あなたと話すことなんてありません。森での夜のように慰め合う相手が必要なら、どうか他を当たってください」
 ぺこりと頭を下げて言い切ると、ロッテはくるりと身を翻し、出口に向かって駆け出した。けれど、ゲオルグはロッテよりも上手うわてだった。彼は素早く通路を回り込み、ロッテの行く手に立ち塞がった。
「ちょっと待て、どういうことだ」
「そのままの意味です。いくら想いが叶わないからって、好きでもない相手で心の隙間を埋めるなんて、虚しいだけだと思います」
 真っ直ぐにロッテを見据えるゲオルグから目を背けて、ロッテは努めて冷静に、素っ気なく言い捨てた。
 ゲオルグの黒曜石の瞳が大きく見開かれる。驚いたような、落胆したような複雑な表情で、彼はわずかに声を荒げた。
「悪いが訳がわからない。じゃあなんだ、お前は、特に好意もなかったのに自慰の延長で俺に抱かれたと、そう言いたいのか!?」
「そっ……あ、あなただってそうでしょう? それともなんですか? わたしのことが好きだとでも言うんですか!?」
「そうだ」
「そうでしょう! 好きじゃなくてもあの状況なら……って、え? いま……」
「好きだ、と言った」
 よく通る低音がはっきりとロッテの耳に届く。ロッテは表情を強張らせたまま、目の前に立つゲオルグの顔をゆっくりと見上げた。唇が震えるのを止められない。
「ううう嘘ですよそんなの……だ、だってゲオルグさんは、シャルロッテ様のことをお慕いしているって……」
「なんの話だそれは。誰に聞いた」
「ユリウス様とお話しているのをこの耳で聞きました」
「全く心当たりがない。言っておくが、俺はシャルロッテ様に対して愛だの恋だのという畏れ多い感情を抱いたことは一度たりともないからな」
「そんな話、信じられません! わたしのことが好きだとか言うのだって、わたしがバカで単純で騙しやすいから、都合良く挿れれる相手が出来たとでも思っているんでしょう?!」
「都合良くって、お前なぁ……」
 そう言って深々と溜め息を吐くと、ゲオルグは一歩ロッテに歩み寄った。
「だって……だっておかしいじゃないですか。本当にわたしのことが好きだったら、もっとはやく会いに来てくれてもよかったのに……わたし、ずっと待ってたのに……!」
 最後まで言い切って、ロッテはそのまま俯いた。目頭が熱く、視界が涙で滲んでいた。
 言ってしまった。抑えきれなかった。胸の内で燻っていた不安も疑心も我が儘も、全て。
 ゲオルグは困ったように眉間に皺を寄せて、黙ってロッテを見下ろしていた。ときどきちらりと目を逸らし、ぽりぽりと首筋を掻いて、そうして何度か口を開きかけたあと、躊躇いながらロッテに言った。
「会いに行かなかったわけじゃない。行けなかったんだ。任務先で問題が起きて、解決するのに時間がかかってしまった。手紙を出そうとも考えたが、伝書鳩や早馬を私用で使うわけにもいかないだろう? お前の様子はディアナから聞いていたから、安心していたというのもある。それに、恋人というにはあまりにも曖昧な関係のまま離れてしまったから、言伝を頼むのもおかしい気がして……」
 また一歩、ゲオルグがロッテに歩み寄る。ふたりのあいだには、ほとんど距離が残されていなかった。けれど、ロッテはもう逃げ出したりはしなかった。ただ俯いて、黙ってゲオルグの言葉を聞いていた。
「大体、俺がお前に嘘をついて何の得があるんだ」
 ゲオルグがロッテに嘘をつく理由。甘い言葉を囁く意味なんてほとんど思いつかないけれど、心当たりならひとつだけある。
 ゲオルグだけは、魔女の媚薬の効果を知っている。あの薬を使って既成事実を作ってしまえば、シャルロッテをユリウスから奪うことができるかもしれないと、そう考えたとしても、おかしくはないはずだ。
「……薬を、作らせるつもりとか」
「それは良い考えだな。尤も、今あの薬を手に入れたとして、使う相手は決まっているが……」
 ゲオルグが含み笑う。ロッテが弾かれるように顔をあげると、穏やかに細められた黒曜石の瞳と眼が合った。思わず視線が足元に落ちる。
「そんなもの使わなくたって、わたしは……」
 消え入りそうな声で呟いて、ちらりと様子を窺うと、ゲオルグの顔がすぐそばまで迫っていて——ロッテは抗うことなく顔を上げ、そのまま静かに眼を閉じた。
 唇に、柔らかなぬくもりが触れる。どちらが先に動いたのかはわからない。けれど、気がつけばロッテはゲオルグの腕の中にいて、逞しい彼の首に縋るように腕を回していた。
 嬉しくて、嬉しくて、想いがあふれて止まらなくて。唇が離れたそばから、その言葉を口にしていた。
「ごめんなさい。勝手に決めつけて、ひどいこと言って……」
「気にしないでいい。正直な話、お前がそこまで取り乱してくれたことが嬉しいくらいだ」
 そう言って穏やかに笑い、ゲオルグはロッテの髪を優しく撫でた。ロッテは「へんなの」と呟いて、それからゲオルグの手にそっと触れた。
 節くれだった指の先が、ぎこちなくロッテの指を撫でる。あたたかくて大きな手のひらが、ロッテの両頬を包み込んだ。鼻先が触れるほどの距離で、ゲオルグの射抜くような視線がロッテの瞳に向けられる。
「もう一度、いいか……?」
 ねだるように告げられて、ロッテはこくりと頷いた。
 触れられた頬が燃えるように熱い。恥ずかしくて俯こうとするロッテの顎を、彼の指が優しくすくいあげた。とくとくと高鳴る胸の鼓動が、くすぐったくて心地良い。
 ロッテはそっと目を閉じて、祈るように手を結んで、彼のぬくもりがふたたび唇に触れるのを待った。

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