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01.感じたことのない痛みが
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感じたことのない痛みが左腕を襲っていた。泣いても叫んでも収まらない痛み。それでも助けてほしくて叫んだ。
何が起こったかなんてわからない。お母様と一緒に町へお出かけするために馬車に乗ったの。何を買ってもらおうか、ランチの後のデザートは何にしようか。
うきうきとしながらお母様とお喋りしながら窓の外を見ていた。その景色が急に線になって回転して、体が宙に浮いたような不思議な感覚がした。
「パフィー!」
お母様の叫ぶ声がして、気付けば体中が痛くて重くて、息も苦しかった。でも一番痛かったのは左腕。
泣いても泣いてもお母様は何も言ってくれない。いつもなら、
「大丈夫よ」
と言って優しく頭を撫でてくれるのに、温かな手が伸ばされることはなかった。
◇
「パフィー、帝都に行かないか? お前も年頃なんだ。社交界に出れば良い相手と出会えるかもしれない」
片田舎の領地を治める伯爵が、私の父テーダン。優しそうな父の顔には疲れが見える。
原因は分かっている。十年も前に愛する妻を喪い、生き残った娘は左腕を失って今もふさぎ込んでいる。
「こんな体で? 嫌よ。笑いものになるだけだわ」
歪んだ仄暗い笑みを浮かべると、ソファから立ち上がって自室に戻る。後ろで父の溜め息が聞こえて泣きそうになった。私だってもっと前向きに生きたい。だけど――。
「腕のない娘がドレスを着て似合うわけないじゃない」
伯爵家の一人娘といえば婿入りを望む令息は多い。でも我が家を訪れて私の左腕を見るなり、顔をしかめるのだ。
上手く表情を取り繕っていた方もいたけれど、人の表情を読むことに長けてしまっていた私の目を誤魔化してくれることはなかった。
引きつった表情。上辺だけの褒め言葉。
それでも歩み寄ってくれるならばと、その人の手を取ろうとした。思い切って夜会にも参加した。でもそこで待っていたのは残酷な現実だった。
友人に挨拶をしてくると言って離れた彼。一人になった私はちらちらと向けられる視線が痛くて、彼を探した。
バルコニーから聞こえてきた声にほっと緊張を緩めて足を進めた私は、聞いてはいけない会話を耳にして愕然とする。
「あんな女、よく連れて来たな。踊れないのだろう?」
「まあな。けど伯爵家に婿入りできるなら、このくらい我慢するさ。あまり社交界には興味ないみたいだし、結婚したら『君を他の男に見せたくない』とか上手く言って、屋敷に閉じ込めるさ」
気心の知れた友人が相手で気が緩んだのだろう。お酒の力も手伝ったのかもしれない。
彼は笑いながら本音を口にしていた。
悔しくて情けなくて、私は気分が悪くなったからと伝言を残して帰宅した。翌日には体調を心配する手紙が届いたけれど、父に頼んで婚約の話は白紙に戻してもらった。
「私のことは諦めて、後妻なり養子なり取ってくれればいいのに」
部屋の窓から見える田園風景を眺めながら、小さな溜め息を吐く。
母が亡くなった時、父はまだ二十代だった。後継ぎに相応しい男子がいないのだから後妻を娶るようにと周囲から奨められていたという。でも頑として首を縦には振らなかった。
父は母を愛していたからだと笑っていたけれど、本当は娘の私がまともに喋ることもできないくらいに落ち込んでいたからだ。後妻を迎えることで余計に追い込むことを心配してくれたのだろう。
だけどそんな気遣いなんていらなかったと今なら思う。
後妻を娶って嫡男がいれば、私は領地に引き籠って家族としか会わずに暮らせたのにと、過ぎてしまった過去を思ってもう一度溜め息を零した。
父を乗せた馬車が館から遠ざかるのを見送ってから、私は本を手に取る。愛する女性に捧げる言葉が綴られた、今帝国で人気急上昇の詩人スターベルの詩集だ。
「ティンクルベル、ティンクルベル。闇夜を照らす僕の光。ティンクルベル、ティンクルベル、君さえいれば僕はいつも幸せでいられる。嗚呼、愛しい君」
声に出して詠み上げると、うっとりと頬が緩んでしまう。
恋愛なんて無縁だと理解していても、私だって年頃の娘だ。いつかこんな詩を捧げられたいと夢見てしまう。
でもスターベルの詩に惹かれたのは、この詩を見てしまったからだろう。
「僕には君に薔薇を捧げるための腕がない。だから愛の言葉を捧げよう。幻想の薔薇を捧げても君は喜ばない。だから真実の愛を捧げよう。ティンクルベル、ティンクルベル。嗚呼、愛しい君」
何かの比喩なのかもしれない。それでももしかしたら彼も私と同じように腕がないのではと思ってしまう。
彼の恋が成就すれば、私にも素敵な王子様が訪れるのではないかなんて、そんな願掛けじみたことさえ考えていた。
何が起こったかなんてわからない。お母様と一緒に町へお出かけするために馬車に乗ったの。何を買ってもらおうか、ランチの後のデザートは何にしようか。
うきうきとしながらお母様とお喋りしながら窓の外を見ていた。その景色が急に線になって回転して、体が宙に浮いたような不思議な感覚がした。
「パフィー!」
お母様の叫ぶ声がして、気付けば体中が痛くて重くて、息も苦しかった。でも一番痛かったのは左腕。
泣いても泣いてもお母様は何も言ってくれない。いつもなら、
「大丈夫よ」
と言って優しく頭を撫でてくれるのに、温かな手が伸ばされることはなかった。
◇
「パフィー、帝都に行かないか? お前も年頃なんだ。社交界に出れば良い相手と出会えるかもしれない」
片田舎の領地を治める伯爵が、私の父テーダン。優しそうな父の顔には疲れが見える。
原因は分かっている。十年も前に愛する妻を喪い、生き残った娘は左腕を失って今もふさぎ込んでいる。
「こんな体で? 嫌よ。笑いものになるだけだわ」
歪んだ仄暗い笑みを浮かべると、ソファから立ち上がって自室に戻る。後ろで父の溜め息が聞こえて泣きそうになった。私だってもっと前向きに生きたい。だけど――。
「腕のない娘がドレスを着て似合うわけないじゃない」
伯爵家の一人娘といえば婿入りを望む令息は多い。でも我が家を訪れて私の左腕を見るなり、顔をしかめるのだ。
上手く表情を取り繕っていた方もいたけれど、人の表情を読むことに長けてしまっていた私の目を誤魔化してくれることはなかった。
引きつった表情。上辺だけの褒め言葉。
それでも歩み寄ってくれるならばと、その人の手を取ろうとした。思い切って夜会にも参加した。でもそこで待っていたのは残酷な現実だった。
友人に挨拶をしてくると言って離れた彼。一人になった私はちらちらと向けられる視線が痛くて、彼を探した。
バルコニーから聞こえてきた声にほっと緊張を緩めて足を進めた私は、聞いてはいけない会話を耳にして愕然とする。
「あんな女、よく連れて来たな。踊れないのだろう?」
「まあな。けど伯爵家に婿入りできるなら、このくらい我慢するさ。あまり社交界には興味ないみたいだし、結婚したら『君を他の男に見せたくない』とか上手く言って、屋敷に閉じ込めるさ」
気心の知れた友人が相手で気が緩んだのだろう。お酒の力も手伝ったのかもしれない。
彼は笑いながら本音を口にしていた。
悔しくて情けなくて、私は気分が悪くなったからと伝言を残して帰宅した。翌日には体調を心配する手紙が届いたけれど、父に頼んで婚約の話は白紙に戻してもらった。
「私のことは諦めて、後妻なり養子なり取ってくれればいいのに」
部屋の窓から見える田園風景を眺めながら、小さな溜め息を吐く。
母が亡くなった時、父はまだ二十代だった。後継ぎに相応しい男子がいないのだから後妻を娶るようにと周囲から奨められていたという。でも頑として首を縦には振らなかった。
父は母を愛していたからだと笑っていたけれど、本当は娘の私がまともに喋ることもできないくらいに落ち込んでいたからだ。後妻を迎えることで余計に追い込むことを心配してくれたのだろう。
だけどそんな気遣いなんていらなかったと今なら思う。
後妻を娶って嫡男がいれば、私は領地に引き籠って家族としか会わずに暮らせたのにと、過ぎてしまった過去を思ってもう一度溜め息を零した。
父を乗せた馬車が館から遠ざかるのを見送ってから、私は本を手に取る。愛する女性に捧げる言葉が綴られた、今帝国で人気急上昇の詩人スターベルの詩集だ。
「ティンクルベル、ティンクルベル。闇夜を照らす僕の光。ティンクルベル、ティンクルベル、君さえいれば僕はいつも幸せでいられる。嗚呼、愛しい君」
声に出して詠み上げると、うっとりと頬が緩んでしまう。
恋愛なんて無縁だと理解していても、私だって年頃の娘だ。いつかこんな詩を捧げられたいと夢見てしまう。
でもスターベルの詩に惹かれたのは、この詩を見てしまったからだろう。
「僕には君に薔薇を捧げるための腕がない。だから愛の言葉を捧げよう。幻想の薔薇を捧げても君は喜ばない。だから真実の愛を捧げよう。ティンクルベル、ティンクルベル。嗚呼、愛しい君」
何かの比喩なのかもしれない。それでももしかしたら彼も私と同じように腕がないのではと思ってしまう。
彼の恋が成就すれば、私にも素敵な王子様が訪れるのではないかなんて、そんな願掛けじみたことさえ考えていた。
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