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前編

思い出せない?

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「ゼルマと申します。ジギルスムントからは話は聞いています。奥様の侍女長を務めております。これからもよろしくお願いしますね」
「こ、こちらこそよろしくお願いします……」

 ジギルスムントさんと入れ替わるようにして入ってきたのは、白髪のおばあさん。
 ちょっと小太りな所も、しわくちゃの顔をくしゃりと笑う所も、人懐こそうな雰囲気を出している。なんかいい人そう。

「ご懐妊おめでとうございます。ローデリヒ殿下もさぞお喜びでしょう」
「いや、そんなことは……」

 子供が出来るような心当たりが一度しかない、とローデリヒさんは言っていた。
 どう考えてもこれ歓迎ムードじゃないのは私でも分かる。

「……って、殿下?」

 ローデリヒさんの呼称で引っかかった。ゼルマさんはニコニコと優しそうに笑っている。

「はい。ローデリヒ殿下はこのキルシュライト王国の王太子様ですから」
「お……っ?!王太子?!」

 思わず目を見開いてギョッとする私に「あんまり興奮されては駄目ですよ」と馬をなだめるようにゼルマさんは言った。

 いや、王太子ってそんな。おとぎ話の王子様っぽいな~なんて呑気に思ってたけど、リアル王子様なのかあの人。

 なんかすごくローデリヒさんって、近所のお兄さんに呼び掛ける感じの雰囲気で話しかけちゃってたけど大丈夫?殺されない?
 冷や汗がダラダラ流れ落ちる。

 ん?それじゃあ、私は?

「あれ?つまり妻の私って……?」
「ええ。ローデリヒ殿下の正妻、立派な王太子妃様ですよ」
「へ、へえ~……」

 目が泳ぐ。
 私、ただの一般的な女子高生なんだけど……、なんかヤバくない?結構ヤバい地位にいるんじゃない?これ。

 でも、王太子妃ってだけで何か特別なことは……あるか、流石に前世の外国の王族とかよくニュースになってたし、公務なんて言うお仕事だってありそうだ。

 それにしても、わざわざ正妻なんて言葉が出てきたんだろ……。

「……正妻って、ただの妻って感じなんですかね?」
「いえ、キルシュライト王家の嫡流男子は一夫多妻制が認められております。正妻は王子の正式な妻であり、側室は全て正妻の意向に従うようになっています」
「お……おう……」

 なんか凄いよく分からないシステムが出てきた……。
 前世のドラマで言う所の後宮女のバトル的な臭いがプンプンする。

 あれだね!これは関わらない方がいい話だね!
 私いつの間にか正妻になってるし、妊娠もしてるから、関わらない方が難しそうだけど!

 一夫一婦制が当たり前の私にとっては、一夫多妻制……受け入れられそうにない。
 離婚出来ないかな。

 完全にドン引きしてしまった私の様子を何か勘違いしたのか、ゼルマさんが心配そうに覗き込んでくる。

「色々な事があったばかりでお疲れになられましたか?ただでさえ大事なお身体なのですから、あまりご無理はなさらないで下さい」
「へっ、……あ、いや、全然大丈夫です!」

 慌てて両手を振る。むしろよく寝て快調。
 普通にベッドから出て動き回りたい。

「身体はもう何ともないので、動きたいなって感じです」

 階段から落ちて頭打っていたくらいだから、許されるかな~っと、ダメ元で聞いてみた。けれど、ゼルマさんはあっさり頷いてくれる。

「あまり長時間でなければいいですよ。奥様は読書がお好きでしたから、図書室にでも参りますか?」

 ゼルマさんの提案に私は思わず固まった。

 ……あれ、私ってば読書好きだったの?
 初耳なんですけど。

 どちらかと言うと、クラスでは物静かに読書をしている子達とは違って、友達と体育館でワイワイとバスケをしたりする活発なタイプだった。

 むしろ読書とか苦手な方で、三ページ位読んだらすぐに夢の世界に飛び立ってしまうんだよね……。毎年夏休みに出る宿題の読書感想文は苦手だった。

 絶対図書室なんか行かないわ……、と図書室行きを断ろうとして、ふと思いつく。

 意外と些細な切っ掛けで、抜けてしまった記憶を思い出せるかもしれない、と。

「……それじゃあ、お願いしてもいいですか?」
「ええ、勿論ですとも。ーーこの子も連れて行きましょうね」

 ゼルマさんは何度も頷いて、両手でベッドの下からを引きずり出す。

「……猫?」
「ええ、奥様が可愛がっておられますです」

 随分とふてぶてしそうな猫だ。目付きがとても悪くて、不機嫌なのか眉間に皺を寄せている。

 長毛種、だっけ?あんまり猫には詳しくないのだけれど、真っ白で毛が長かった。そしてかなり重量のありそうな見た目をしている。

 要するに、かなりおデブ猫。

「大丈夫です。病気は何も持っておりません」
「いや、そうじゃなくて……かなり不健康そうだなあ……って」
「ええ。奥様と殿下がよくおやつをあげていらっしゃいますので」
「マジか」

 何やってんだ過去の私……、このどっしり体型はどう考えても不健康極まりない。猫に申し訳がない。

「よし!ローちゃんを今日からダイエットさせましょう、ゼルマさん!」
「はい。かしこまりました」

 拳を握り締めた私に、ゼルマさんはニコニコと穏やかに微笑んだ。



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 ーーーーーーーー



 屋敷の中に図書室があるって一体どういう事なのだろうか。

 金持ちだ、金持ちだとは思っていたけれど、まさか屋敷の中の大きな部屋に沢山の本棚が並べられているとは思わなかった。窓に面していない壁は天井まで本棚である。

 しかも、本棚にはぎっしり本が詰め込まれていた。
 公立小学校に通っていた頃、図書室がこれくらいの大きさだった……。

 あんぐりと口を大きく開ける私を、ゼルマさんは室内に置かれていたソファへと案内する。

 このソファもなんかベルベット生地でふっかふかしているんだよね。枠もなんかよく分からない彫刻されてるし金色に塗られてるし、絶対お金かかってるやつ……。

 と思っていたら、ローちゃんが飛び乗ってガリガリと爪でベルベット生地を引っ掻きだした。
 人様の猫って感じが抜けないので、叱るに叱れない。

 私はどう見ても高級そうなのに成金趣味ではなく、シックに纏められている所がセンスあるなと現実逃避した。
 ものの価値があまりよく分かっていない一般人にとっては居心地の悪い空間でしかない。

 というか、図書室にもソファや椅子、テーブルが置かれているの至れり尽くせりって感じだわ。

 ローデリヒさん、王太子様っていってたもんね……。
 やっぱり王太子様が住むところって違うなあ……。

 室内を見渡したけれど、私の記憶にあるものは何もない。

 やっぱりそうだよね……、自分が読書しているイメージなんて湧かないもん。

 一番近くにあった本棚の手身近な本を抜き出してみる。
 焦げ茶色の革張りの分厚い本。辞書みたい。普通に重いし、素人目から見ても高そう。

 パラパラとページを開いて、固まった。
 書いてある内容がミミズがのたうち回ったかのような線だったからだ。

「え……?読めなさすぎるんですけど」

 子供の落書きかな、と思ってその本を棚に戻し、他の本を手に取る。
 またミミズがのたうち回っていた。

 それを二回ほど繰り返して、私は深々と溜め息をつく。
 もしかして、ミミズが苦しんだ跡みたいな字がこちらの標準語だったりしちゃうのだろうか……?

 例えるなら英語の筆記体を更に崩しまくった感じなので、もしかしたらそんな言語があるのかもしれない。

 背表紙まで焦げ茶色一面の本棚を見上げると、一冊だけ銀色の背表紙の薄めの本があった。それだけ異様に目立つ。

 ギリギリ届きそうだったから、背伸びして手を伸ばす。私の手の甲に誰かの手が覆いかぶさった。

 骨ばった、私より一回り以上大きい手。
 私の手がすっぽり収まってしまう、男の人の手。

 一瞬心臓が音を立てて軋んだ。

 前にも見た覚えがある。暗い場所で。

 でも一体どこで?
 そんな記憶はどこにもない。

 一度も体験した事がないはずなのに。
 どこか既視感あるその光景に、私は焦った。


 ーー急いで死ななければ、と。


 死ななければいけない。はやく。

 手遅れにならないうちに。

 急いで死ななければ。

 どんな方法を使っても。


 気がついたらその手を振り払っていた。声なき悲鳴と共に。

 手を振り払って、その人から距離を取る。少しだけよろめいたけれど、近くにいたゼルマさんが支えてくれた。

「……って、ローデリヒさん?!」

 顔を上げるとローデリヒさんが眉間に皺を寄せて、私に振り払われた手を見ていた。

 ……というか、手!手が触れちゃったんですけど!!
 女子中、女子高学校育ちの私にとっては、年齢の近い男の人との接触だけで一大事件。明日友達に報告したいくらいの案件だ。相手はイケメンだし。

「……すまない。驚かせた」
「えっ、あっ、こちらこそごめんなさいっ!振り払っちゃって……!」
「いや、いい。こちらこそ不用意だった。……だが、危なっかしいから思わず手が出てしまった。貴女の身体は一人ではない。大事にしろ。ゼルマもいるのだし、もっと周囲を頼れ」

 ……な、なんか、凄い小言言われてる。学校の頭でっかちの数学の先生みたいだ……。よく廊下を走って怒られるんだよね。

 私が届かなかった本を易々と取った彼は、銀色の表紙の本を私に差し出してくる。やっぱり見た目派手だなこの本。

「貴女の好きなロマンス小説がここに紛れていたのだな。司書にはあとで私の方から忠告しておく。……まあ、これだけ本があるんだ。たまにはミスもするだろうが……」

 司書がいるとか、サラッと凄い事を聞いた気もするけれど、それよりもロマンス小説を開いて私はローデリヒさんに突き出した。それに目を落としたローデリヒさんの動きが全停止する。

「あのこれなんですけど」
「ちょっ、おま、濡れ場シーンを見せつけてくるな!」

 こちらがびっくりする位、ズササササッと派手な音をたてて後ずさりする彼の顔は真っ赤に染まっていた。一気に冷たい雰囲気が霧散する。

「え、濡れ場シーンって……あの濡れ場シーン?!」

 ちょっと過去の私ってば一体何読んでたの?!
 慌ててページの文を見ると、どう見てもミミズがダンスしていた。駄目だ男の人に見せて良かったかどうか全く分からない。

 我を取り戻すのが早かったローデリヒさんは、一つ咳払いをして「で、その本がどうかしたのか?」と冷静に尋ねてきた。

「あ!そうでした!実は、この本を含めて文字が読めないんです」
「……なに?」
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