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前編

お母さんは誰?

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 突然なんだけど、このお屋敷のトイレって水洗トイレなんだよね。なんか木の椅子って感じ。座るところが全然温かくない。

 海色の宝石に触れると水が流れる仕組み。
 魔石とかいう特別な力を持った宝石らしい。すごいなこの世界。

 流石にもう、ここが現代の地球だなんて思っていない。いくつかのおかしいな?って思う部分を組み合わせたりすれば、どんなに現実味がなかったとしても信じるしかないなって思ってしまう。

 だって魔法だよ?
 ローデリヒさんとヴァーレリーちゃんがポンポン使っているのをよく見る。特にヴァーレリーちゃんは魔法を教えてくれてるから、実際に使っている所を見る事が多い。

 ヴァーレリーちゃんは土魔法が得意らしくて、芝生の植えてある庭をボッコボコにしていた。植物属性とかも持ってるらしくて、後で直してたけど。

 対する私は精神属性魔法とかいう、物騒な魔法に対してしか適正がないらしい。ぶっちゃけこんなヤバい魔法を使える気がしない。
 ……というか、使いたくない。

 妊娠しているのだし、魔法はどの道使えないんだけどね!

 ヴァーレリーちゃんには悪いけど、魔法の授業はほぼほぼ放棄してしまっている。ヴァーレリーちゃんの魔法を見てワクワクしているだけ。

 ヴァーレリーちゃんも分かっているようで、呆れながらも私に魔法を見せてくれていた。

 ちなみにローデリヒさんの魔法はかなり凄いらしく、使い魔もいるくらいの魔法使いと聞いた。使い魔って、高位の魔法使いじゃないと出来ないんだって。
 なんか魔女みたい。

 そして制約はあるけど、転移魔法とかいう自分の思った所に瞬間移動出来る魔法も使えるらしい。
 なんか凄さはよく理解出来ないけど、瞬間移動は正直羨ましいと思った。瞬間移動出来れば絶対に学校遅刻しない。いいなあ。

 ちなみに日記は新婚一ヶ月辺りから読み進められてない。

 だけど、一応毎日日記だけは付けてる。ほとんどがアーベルくんの可愛さばかり書いてる日記。アーベルくん可愛いから仕方ないね!

 ……なんて、そんな事言ってなんかいられないんですけど。

「き゛も゛ち゛わ゛る゛い゛い゛い゛」

 悪阻との戦いが来るなんて思ってもみなかった……。

 いや、自分には縁のないことかと思っていたって感じかな。妊娠なんてしてる実感湧かなかったし。

 不意打ちで吐き気と嘔吐が来る。
 匂いにもかなり敏感になってるし、身体もだるい。もうなんか船酔いした時の吐き気がエンドレスで襲ってくる感じ。これが五日も続いてる。

 はっきり言って地獄だ。日常生活に支障しかない。
 気持ち悪すぎてトイレにこもるんだけど、胃の中空っぽだから、吐きたいのに吐けない。オマケにえづいて胃の辺りが痛くなってきた……。

「うぅ……」
「あーたまぁ……」

 ちょっと吐き気治まってきて、一息つく。必死であんまり意識してなかったけど、ずっとアーベルくんが心配そうな顔で背中をさすってくれていた。必死に小さい手でとんとんしてくれる。

 天使だ……天使がここに……。

 最初にトイレにこもった時、ローデリヒさんはオロオロしてた。私へ手を伸ばし掛けたけど引っ込めて、ゼルマさんに代わりにさすってやってくれと頼んでいた。

「レモン水を持ってきた。飲めるか?」

 トイレの床に座り込む私の顔を覗き込みながら、カップを差し出す。「少しづつ飲め」と慣れた手つきでカップを支えて飲ませてくれた。

 ちょっと酸っぱいけれど、美味しい。まだ残っていた吐き気が少しづつ和らいでいく気がする。

「とーたま!」
「ヨシヨシしてたんだな。偉かったぞ、アーベル。やはりお前は天才だ」

 ローデリヒさんはしゃがんだまま真顔で親バカ炸裂させて、アーベルくんの髪をわしゃわしゃと撫でる。言葉の意味なんて分かってないだろうアーベルくんは、キャッキャと高い声を上げてはしゃいでいた。

 美形二人、本当に眼福でしかない。
 ちなみに国王様もアーベルくんにメロメロのようで、ついでとばかりにイーナさんにちょっかい出している。

 元々イーナさんは側室で、今は五十代後半の子爵の後妻らしい。親子程の年齢が離れているけど、子爵は若妻にぞっこんらしくて、一歳半の娘ちゃんがいるんだと。
 赤ちゃん可愛いよね……。

 そんな抜けた事を考えながら、ベッドで寝ようと立ち上がった。

 実は別にトイレにこもらなくても、枕元にいざと言う時の為の陶器の壺が置いてあるんだよね。

 ただその陶器の壺が……、すごく、お高そうなんですよ。花とか草とかが綺麗に描かれていて、口の部分は金縁。耳の部分なんかうねうねしてる独創的なデザイン。

 庶民でも分かるお高い雰囲気を壺が纏っていて、とてもじゃないけどリバースの為だけに使えない。あれお幾らくらいするんだろ……。
 王太子様が住んでる所にあるくらいだから、絶対にお金かかってそうだよね。

 ボーッと考えてると、何もない所で突っかかって転びそうになった。戻した後ってフラッフラになる。

「……っ、」

 咄嗟にローデリヒさんに下から掬うように抱きとめられたーーと理解して、私は喉の奥から息が漏れるような悲鳴が出た。

「っ……?!」

 気付いた時はローデリヒさんは尻もちをついていた。私は少し後ろによろけたけれど、転ばずに立ったまま。

 突き飛ばしてしまった。

 状況を把握するのに時間は掛からなかった。無意識にやってしまった事とはいえ、罪悪感が湧いてくる。

「ご、ごめんなさいっ!」

 別にローデリヒさんに触られるのはあまり抵抗はない……はず。
 女子校育ちで幾ら男の人に免疫がないと言っても、コレは過剰反応しすぎだった。……というか、同じベッドで寝ているのになんで。

 男女の意味ではなく、本当にただ睡眠を取ってるだけなんだけどね!

「いや、大丈夫だ。ゼルマに付き添ってもらえ。私はアーベルをイーナに預けて執務に戻る。……何か食べたいものはあるか?」
「それじゃあ……フルーツを」
「分かった」

 ローデリヒさんは一つ頷いてアーベルくんを抱き上げる。ゼルマさんがしわくちゃの手で、私の肩を支えてくれた。

 ……っていうか、よくローデリヒさんこのお屋敷に出没してるけど、お仕事どこでいつやってるんだろう……?

 特につわりでトイレに駆け込む時には必ず顔を出してくる。一日何回か行くのになんで分かるんだろ?

 トイレにセンサーでも付いてるのかな?

 キングサイズの大きな天蓋付きのベッドに横になる。ぐったりとしながら目を閉じた。

 妊婦、辛い。

 つわりが酷いから、一日何回かに分けて食べるようにしている。ベッドサイドにビスケットとかパン置いてちまちま夜とか食べてる。あとはフルーツとか。

 世の中の妊婦って、こんな大変な思いをしてるのかな……。

 イーナさんも、アーベルくんのお母さんもこれを乗り切ったのかな。っていうか、意外とローデリヒさんの処置に助けられている。

 レモンの飴玉くれたり、冷たいレモン水を淹れてくれたりする。なんというか……、とても手慣れてる感じがします……。

 まあ、ローデリヒさんも二人目だから、初めてじゃないのかも。アーベルくんのお母さんの背中さすったりしたのかな?

 ーーと、思ったところで、私は凄く大事な事に思い当たった。

 アーベルくんのお母さん、誰?

 今までお母さんの影すらなかったんだけど。私なんで気付かなかったの?

 ちょっとは気になるはずの違和感が、周囲に溶け込むようにして隠れてる。私は当たり前のように違和感を、違和感だと捉えられない。

 ……アーベルくんのお母さんについて聞いてもいいんだろうか?いや、藪から蛇が出てくるかもしれない。やっぱり止めとこ……。

 視線を感じて、目を開ける。
 ドアップのデブ猫の顔が、私の視界の全てを使って存在していた。

「ローちゃん。ローちゃんふわふわだあ」

 動物臭さのないローちゃんのふわふわの毛を、両手で触り倒す。若干嫌そうな表情をしたけれど、遠慮なくもふもふさせてもらった。

 アーベルくんの次に癒される。

 そんな事をやっていると、また吐き気が襲ってきて、私は無理矢理目をつむった。
 ……これ、いつまで続くんだろ……?
 五日目でギブアップ。私は頭の中で白旗を上げた。

 悪阻は個人差あるって聞いてるけど、私はもう辛すぎて泣きそうだ。終わりの見えない荒れた船旅の途中みたい。

 もう嫌だ。
 食べても食べなくても吐きそうだし、いつ気持ち悪くなるかも分からない。

 ただの女子高生だったはずなのに。

 じわりと目頭が熱くなる。鼻の奥がツンとする。
 グスン、と鼻をすすった。

「どうした?辛いか?」

 いつの間にか眉間に皺を寄せて、ローデリヒさんが私の顔を覗き込んでいた。穏やかな海の色が心配そうに揺れる。
 もう嫌だった。我慢出来なかった。

 私は結婚も、妊娠もした覚えがないのに、いつの間にか妊娠していて、その上こんなキツくて。
 いきなり子供を産めって、そんなの出来るわけがーー私に母親としての自覚が芽生えるわけがない。

 ローデリヒさんがそんな悪い人じゃないって知っていても、止められなかった。

 キッチリ着ていた彼の丈の長い上着を掴みながら上体を起こす。私の行動が予想外だったのか、彼は僅かに目を見開いた。

「もうやだ……」

 一度言ってしまうと、あとは濁流のように押し寄せてくる。溜まっていたダムが決壊してしまったように。

「もうやだ……。辛い。本当に辛い。ひたすら辛い。気持ち悪いのいつまで続くの?もう嫌だ本当に逃げたい……」

 ボロボロと涙がシーツに落ちた。
 上着を掴んだ手に力がこもる。指先が白くなった。

 ローデリヒさんの胸に額を当てる。彼がどんな顔をしているのが知るのが怖くて、顔を上げられなかった。

「っ、……すまない。……本当に、すまない」

 頭上から情けない声が降ってくる。
 私の背中に回された手が、宥めるように優しく動く。
 その手つきは随分と、ぎこちないものだった。
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