この度、仮面夫婦の妊婦妻になりまして。

天織 みお

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前編

その敵意は、どうして?

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 室内に入ってきたヴァーレリーちゃんは、「女です」と顔色を変えずに答えた。

 確かに凄い可愛いなって思ってたし……、今から思うとちゃん付け呼び大丈夫だったし、身長低いし、何となく察せる要素はあったかもしれない。でも、ローデリヒさんと同じ形の服着てたから、男の子だと思い込んでいた。

「ごめんなさい……。完全に男の子だと思ってた……」
「いえ。私も紛らわしい格好をしていますから、奥方様が勘違いされるのも仕方ないかと」

 真顔で私のフォローをしたヴァーレリーちゃんだったけど、それよりも表情を崩したのはローデリヒさんだった。

「は……?!男だと思っていたのか?!」
「殿下。そろそろお時間です」
「……分かった」

 何故か珍しくギョッとした顔で私を見たローデリヒさん。けれど、あっさりヴァーレリーちゃんに流される。

「……話が逸れたが、護衛はヴァーレリーが付くことになる。ヴァーレリーはそれなりに剣の腕が立つ。男が入れない場所にも連れて行けるから、私が貴女の傍に居れない時があればヴァーレリーを頼れ」
「分かりました」

 ヴァーレリーちゃんにお礼を言うと、「職務ですから」とクールな返答が来た。

 だいぶ彼女とは打ち解けていると思っていたんだけど……、打ち解けてるよね?

 ローデリヒさんの主導で、数人の侍女さんと共に王城の廊下に出た。
 そこで一旦ヴァーレリーちゃんとは別れる。

 ヴァーレリーちゃんは招待客としてパーティー会場に入るらしい。騎士と違って、敵にマークされにくいようにだって。なんか陰の護衛って感じでかっこいい。

 ヴァーレリーちゃんのパートナーの赤髪の男の人が、わざわざ彼女を迎えに来ていた。たぶんローデリヒさんと同じくらいの歳。

 あれ?そういえばヴァーレリーちゃんが女の子なら、同世代の男の人ローデリヒさん以外で久しぶりに見ることになるんじゃ……?

 白い塀で囲まれたお屋敷には、侍女さん達とアーベルくん、イーナさんしか見ていない。
 男の人といえば、年の離れた医者のジギスムントさんと国王様だけ。その二人も滅多に会わない。

 こんなに同世代の男の人と会わない事ってあるのかな?と、内心首を捻ってもいられなくなった。

 迷路のような王城の廊下を幾分か進んで行くと、小部屋のような場所につく。私室とはまた違った感じで、ソファーやテーブル、椅子に鏡しかない部屋。入ってきた扉とはもう一つ別の扉がある。

 決して貧相な訳ではなく、家具自体も敷かれている絨毯も見るからに高いものである。
 ただ、私は直感的に悟った。

 ここ、控え室だ――と。

 伝わってくる。別の扉から。

 オーケストラの演奏。人々のさざめき。
 この部屋の向こうに、大勢の人々の存在が伝わってくる。

 能力なんて使っていない。結界が張れるペンダントで、私の能力は封じられている。だから、これは直接耳から、肌から感じられる他人の存在。

 ただの人だ。それでも大勢の人。

 アリサ・セシリア・キルシュライトは初対面じゃないかもしれないけれど、私にとっては初めましてばかりの人達。

 室内に入って数歩でそれを感じて、私は思わず立ち竦んだ。

 緊張している。

 でも、ただの緊張だけではない気がした。

 胸がざわついた。今すぐここから背を向けて逃げ出したい衝動に駆られる。足が重い。まるで鉛になってしまったかのように。息が苦しい。今までどうやって空気を吸っていたか思い出せない。足の先から、手の先から、身体の芯まで冷気が襲ってくる。

 目に見えているのはただの扉だ。

 それでもその向こうにある全てが、私を飲み込んでしまいそうだった。

「……アリサ?」

 訝しげなローデリヒさんの声に引き戻される。私は慌てて笑みを浮かべた。

「少し緊張してるだけです」

 嘘は言っていない。それでも緊張とは別の、焦燥感にも似た気持ちを抱えながら、私は背筋を伸ばした。

 ここで引き下がれない。

「……そうか。そろそろ時間だ。結界を外すぞ?」
「はい」

 私の言葉に頷いたローデリヒさんは、何やら言葉を唱えた。ペンダントを外して、着いてきてくれたゼルマさんに預ける。

 覚悟していたからか、以前と比べて衝撃は少なかった。それでもずっと耳元で囁き続ける知らない声達は、悪意も善意も伝えてくる。私の意志とは別に。

 そして、殺意も。

 頭の中が声でいっぱいになる。気持ち悪い。

 それでも私は踏みとどまる。あのローブの女の子に会いに行かなければいけない。知らない人達の細かい感情について、私は一々深く考える事を放棄する。

「大丈夫か?」

 私の顔を覗き込むようにローデリヒさんは屈んだ。彼の海色の瞳が心配そうに揺らいでいる。私は笑みを作った。

「大丈夫です」
「そうか。無理はするな。正直に言え」
「ありがとうございます」

 ローデリヒさんはそっと手を差し出してくる。骨張った、私より大きい男の人の手。今は手袋に覆われている。

 私は無意識に差し出されたその手に、自分の手を重ねた。

 ――……やはり、会わせたくはない。

 ポツリ、と漏れ出た本音のような言葉が伝わってくる。きっと、ローデリヒさんの感情。

 身長の高い彼を見上げると、もう既に会場の方へ向いていて、どんな顔をしているか分からなかった。

「行くぞ」
「はい」

 私の返答を聞くなり、ギュッと手を握り締められた。
 扉の外は少し薄暗い廊下が続いている。沢山のカーテンのような幕が見える。

 きっとあれがパーティーホールに繋がる道。

 唾を飲み込む。手袋を嵌めたお互いの手の温度が、布越しに混じった。

 両脇に立っていた騎士が、ローデリヒさんの合図と共に幕を開ける。急に強い光が差し込んできた。
 眼下に見えるのは沢山の着飾った男女。パーティーホール全てが見下ろせる。

 だからこそよく分かった。

 皆、私達に注目しているって。

 目の前の階段をローデリヒさんの導きでゆっくりと降りる。穴が開きそうな位の沢山の視線を肌で感じる。
 見上げるのが怖くて、人の表情が見れなくて、自然と少し俯き気味になる。
 そしてようやく理解した。

 この焦燥感に似た感情は、

 、だ――。

 大勢の人が怖いなんて思ったことはない。思ったことは、ない……はず。ないはずだ。

 どうしてこんなにも、恐怖を覚えるのか。

 私達が階段の一番下の段を降り終える。誰かが声を張り上げている。階段から離れて、先程通ってきた道を見上げた。

 ふくよかな体型の国王様が、イーナさん程の歳若い女の人を連れて堂々と階段に現れる。

 いっぱいいっぱいだった。

 得体の知れない恐怖と戦いながら、その場に立っているのに精一杯だった。自然と手に力がこもる。ローデリヒさんがチラリと私を見たけれど、私は真っ直ぐ国王様達を見つめていた。

 国王様達よりも私の方に視線がまだ集まったりしている。私がこの場にいることが、物珍しそうな感情が伝わってくる。

 国王様達が階段を降りてその場で立ち止まる。そこで誰かの訪れを告げる声と共に、パーティーホールの中央が真ん中で割れた。

 つい最近の記憶に残る声が耳元で聞こえてくる。

 ――やっと、やっとだわ。出席してくれてありがとう。アリサ。

 ローブの少女の声。
 その声の主はすぐに分かった。ホールの入口から入ってきた一組の男女。その片方の銀髪の少女だ。

 私達と同世代くらいの二人は、明らかに特別扱い。
 二人がアルヴォネンの王太子夫妻だとは、空気で分かった。

 という事はローブの少女って、アルヴォネンの王太子妃だってこと……?

 少女の隣の黒髪の男性と一瞬視線が交わる。彼は紫色の瞳を細めた。私の姿を捉えるなり、口元に緩い微笑みが浮かぶ。

 ――久しぶり、アリサ。助けに来たよ。

 正義感と親愛と義務感と、滲む達成感。以前にお屋敷の中でも聞いた事があった声。ひたすら私の為を考えてくれているかのような、思いやりに満ちた気持ちが伝わってくる。

 ルーカス殿下。

 アリサ・セシリア・キルシュライトの婚約者だった人だ。

「今夜も歓迎のパーティーありがとうございます」

 穏やかな口調。優しげな笑み。
 でも、その裏に怒りが隠されている。

 見た目は全く敵意なんて感じない。むしろ友好的ですらある。どう見ても優男のような雰囲気だ。

 国王様とローデリヒさんとにこやかに話すルーカス殿下。国王様とローデリヒさんも快く応じている。

 なんで。なんで、そんなにローデリヒさん達を敵視するの?
 ローデリヒさんにとっては、奥さんの元婚約者に会うのはあまり気持ちのいい事ではないのは分かる。

 ルーカス殿下がローデリヒさん達を嫌う理由が分からない。アルヴォネンの王太子妃がローデリヒさん達を敵視する理由が分からない。

 ――この男さえ、いなければ。
 ――この男さえ、いなければ。

 重なるアルヴォネンの王太子夫妻の感情。
 私はただ、困惑するしかなかった。

「やあ、アリサ。久しぶりだね」

 ゆったりとした笑みを浮かべたルーカス殿下が、私に話し掛けてくる。感じるのは、ただただ私を案じる気持ちだけ。そこに悪意は含まれていない。
 完全な善意だった。

 アルヴォネンの王太子夫妻は、じっと私の動きを見つめている。
 何か返事をしようと口を開いた。

 ――ごめんなさい。アリサ。

 唐突だった。

 私の声が音になるよりも先に、少女が私に向かって謝る。訳が分からずに、思わず口を噤んでしまった途端。

 全ての照明が落ちた。
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