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最愛を失った男②
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怒りで充血した真っ赤な目。渾身の力でディッドは父親の後ろ衿を掴みあげた。
「お前っ!親に向かって何をするんだっ」
「五月蠅いっ!親も子も関係あるか!今すぐに出ていけっ!」
「ディ、ディッド君、落ち着いて、ね?落ち着いて」
「五月蠅い、俺に触るな」
兄嫁は触れてはならないディッドの逆鱗に触れた事を悟った。
父親を掴みあげた手が今にも兄嫁に向かいそうになり兄嫁は驚いて数歩下がった。
「わかった。わかったから手を離してくれ」
激昂したディッドは彼らにとって給料を持ち帰る「大黒柱」である。
ほとぼりが冷めるまでは仕方がないと4人は部屋の外に出た。
部屋を出た所で行く当てのない4人。
近所の者達が半月形の目で自分たちを見ながら口元を手で隠し通り過ぎるのを玄関前に並んで座って待った。
ディッドは部屋を見渡した。
そこに見えるものは両親や兄夫婦が持ち込んだ物ばかり。
唯一はディッドとコレット用にと買った寝台とソファーベッドだけだったが、それすら使用していたのは両親であり、兄夫婦だ。ディッドすら一度も使ったことはない。
式の3週間前からやって来た両親たちに搬入された日から占領されていたからだ。
「処罰を受けてもいいから‥‥突っぱねれば良かった」
ディッドの呟きは戸板の隙間から吹き込む風に消されていく。
従うしかなかったとは言え、屋根にした天井の布から雫がポトポトと落ちる調理室を寝所にするしかなかった。そこにあったのはもう底も怪しくなったフライパンや欠けた食器。
調理室の中央でもなく壁際でもない中途半端な位置にポツンとある足の高さが不揃いの木の椅子だけが雨に濡れずにぽつんと置かれていた。
コレットが深夜まで仕立ての繕い物をし、座ったまま仮眠を取った椅子だった。
まともな椅子すら両親たちの使用するものとなりコレットは捨てられていた椅子を拾ってきて手を入れなければ椅子すらなかった。
「娼婦を一晩買う金で椅子なら何脚も買えたのに…ごめん…」
ディッドが足を伸ばして眠る事すら出来ず、騎士団の仮眠室を寝床にしようと思いついた時の季節は冬だった。壁と言っても板を立てかけただけ。冷たい風が吹き込むため火を落とした竈の温もりで指先を温めていたコレットを思い出す。
「ごめん…コレット…ごめん…帰って来てくれ」
要領よく座らねばガタ付き、足の長さが不揃いな椅子に腰を下ろしディッドは両手で顔を覆って嗚咽をもらした。そのまま陽が沈み、月が真上になってもコレットが戻る事はなかった。
娼館の娼婦に入れあげていたと言われても反論が出来なかった。
ディッドは当初、ゆっくり眠りたい。それだけで当直を希望し仮眠室で横になった。しかし当直勤務もあれば通常の日勤もあり、それは同僚に交代をしてもらっても休日がある。
最初は休日は家に戻っていたが、どうしても固いテーブルの上でひざを折って垂らしながら眠る姿勢は体のあちこちが痛くなるし、眠れた気になれなかった。
若さゆえに当然性欲もあるが、仕切りとなるカーテンは兄夫婦が取ってしまったため行為に及べば家族の知る所となる。
ディッドは欲望を娼館で発散させる事を覚えた。通ううちに割増料金を支払えば娼婦を連れ出し宿屋に泊まる事も出来ると知った。そうなれば当然出費は増える。
コレットに娼館で女を抱いているとは言い出せず、「剣を買い替えた」と嘘を吐いた。そして頻度が多くなれば家に入れる金は減っていく。
コレットに申し訳ないと思いながらも、家に帰ればあのテーブルで寝なくてはならないし、母や兄嫁の愚痴を聞かされる上に、味付けもないような薄いスープと野菜くず、魚より肉が食べたいのに叶えられない粗末な食事かと思うと足が遠のいた。
給料を渡す時にだけコレットと話す機会もあったが、ここ1年半は「貯金がもう尽きた」から始まって両親たちに簡単な仕事で良いから働くように言ってくれというコレットの願いも愚痴かと思えばウンザリした事を思い出す。
ここ数か月は「外で働くのがダメなら家の事をするように言ってくれないか」とも言いだした。
コレットの性格からおそらくは何度か願い出ても聞き入れてもらえない事からディッドからも口添えをと望んだのだろうと考えずともわかる事だった。
現実から、見たくないものから目を逸らし、面倒事は全てコレットに押し付けた。
金を家に入れなかったわけではない。言い訳である。
家に全く帰らなかったわけではない。言い訳である。
他の女に傾倒してしまったのではない。これも言い訳である。
雨の中、コレットは一度もディッドを名前で呼ばなかった。
その事にもディッドは身を震わせた。
――いいや、そんな事はない!――
ディッドは大きく首を横に振った。
コレットの中にあるディッドへの愛が消えた事を認める事も出来なかったのだ。
「お前っ!親に向かって何をするんだっ」
「五月蠅いっ!親も子も関係あるか!今すぐに出ていけっ!」
「ディ、ディッド君、落ち着いて、ね?落ち着いて」
「五月蠅い、俺に触るな」
兄嫁は触れてはならないディッドの逆鱗に触れた事を悟った。
父親を掴みあげた手が今にも兄嫁に向かいそうになり兄嫁は驚いて数歩下がった。
「わかった。わかったから手を離してくれ」
激昂したディッドは彼らにとって給料を持ち帰る「大黒柱」である。
ほとぼりが冷めるまでは仕方がないと4人は部屋の外に出た。
部屋を出た所で行く当てのない4人。
近所の者達が半月形の目で自分たちを見ながら口元を手で隠し通り過ぎるのを玄関前に並んで座って待った。
ディッドは部屋を見渡した。
そこに見えるものは両親や兄夫婦が持ち込んだ物ばかり。
唯一はディッドとコレット用にと買った寝台とソファーベッドだけだったが、それすら使用していたのは両親であり、兄夫婦だ。ディッドすら一度も使ったことはない。
式の3週間前からやって来た両親たちに搬入された日から占領されていたからだ。
「処罰を受けてもいいから‥‥突っぱねれば良かった」
ディッドの呟きは戸板の隙間から吹き込む風に消されていく。
従うしかなかったとは言え、屋根にした天井の布から雫がポトポトと落ちる調理室を寝所にするしかなかった。そこにあったのはもう底も怪しくなったフライパンや欠けた食器。
調理室の中央でもなく壁際でもない中途半端な位置にポツンとある足の高さが不揃いの木の椅子だけが雨に濡れずにぽつんと置かれていた。
コレットが深夜まで仕立ての繕い物をし、座ったまま仮眠を取った椅子だった。
まともな椅子すら両親たちの使用するものとなりコレットは捨てられていた椅子を拾ってきて手を入れなければ椅子すらなかった。
「娼婦を一晩買う金で椅子なら何脚も買えたのに…ごめん…」
ディッドが足を伸ばして眠る事すら出来ず、騎士団の仮眠室を寝床にしようと思いついた時の季節は冬だった。壁と言っても板を立てかけただけ。冷たい風が吹き込むため火を落とした竈の温もりで指先を温めていたコレットを思い出す。
「ごめん…コレット…ごめん…帰って来てくれ」
要領よく座らねばガタ付き、足の長さが不揃いな椅子に腰を下ろしディッドは両手で顔を覆って嗚咽をもらした。そのまま陽が沈み、月が真上になってもコレットが戻る事はなかった。
娼館の娼婦に入れあげていたと言われても反論が出来なかった。
ディッドは当初、ゆっくり眠りたい。それだけで当直を希望し仮眠室で横になった。しかし当直勤務もあれば通常の日勤もあり、それは同僚に交代をしてもらっても休日がある。
最初は休日は家に戻っていたが、どうしても固いテーブルの上でひざを折って垂らしながら眠る姿勢は体のあちこちが痛くなるし、眠れた気になれなかった。
若さゆえに当然性欲もあるが、仕切りとなるカーテンは兄夫婦が取ってしまったため行為に及べば家族の知る所となる。
ディッドは欲望を娼館で発散させる事を覚えた。通ううちに割増料金を支払えば娼婦を連れ出し宿屋に泊まる事も出来ると知った。そうなれば当然出費は増える。
コレットに娼館で女を抱いているとは言い出せず、「剣を買い替えた」と嘘を吐いた。そして頻度が多くなれば家に入れる金は減っていく。
コレットに申し訳ないと思いながらも、家に帰ればあのテーブルで寝なくてはならないし、母や兄嫁の愚痴を聞かされる上に、味付けもないような薄いスープと野菜くず、魚より肉が食べたいのに叶えられない粗末な食事かと思うと足が遠のいた。
給料を渡す時にだけコレットと話す機会もあったが、ここ1年半は「貯金がもう尽きた」から始まって両親たちに簡単な仕事で良いから働くように言ってくれというコレットの願いも愚痴かと思えばウンザリした事を思い出す。
ここ数か月は「外で働くのがダメなら家の事をするように言ってくれないか」とも言いだした。
コレットの性格からおそらくは何度か願い出ても聞き入れてもらえない事からディッドからも口添えをと望んだのだろうと考えずともわかる事だった。
現実から、見たくないものから目を逸らし、面倒事は全てコレットに押し付けた。
金を家に入れなかったわけではない。言い訳である。
家に全く帰らなかったわけではない。言い訳である。
他の女に傾倒してしまったのではない。これも言い訳である。
雨の中、コレットは一度もディッドを名前で呼ばなかった。
その事にもディッドは身を震わせた。
――いいや、そんな事はない!――
ディッドは大きく首を横に振った。
コレットの中にあるディッドへの愛が消えた事を認める事も出来なかったのだ。
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