死神若殿の正室

三矢由巳

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第二章 果報者

12 月姫と疾風

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 あやは美しい娘であった。ほっそりとしており、たおやかで男の心をくすぐるような容姿をしておった。琴が上手で、その音色はなんともいえぬ艶があった。
 あまり出しゃばらず奥の女達にも気を遣ったので、嫌われることもなかった。
 姫達もすぐに慣れた。珠姫と琴をともにつま弾くこともあった。
 若殿が閨に入れるのにさほど時はかからなかった。阿弥の方と呼ばれ、中老となった。
 ともに中屋敷に入ったとくはあやに比べれば背は低く丸い身体をしていたが、田舎者とは思えぬほど頭の回転がよかった。なんと阿蘭陀の言葉を若殿と同じくらい知っており、蘭方の知識もあった。若殿は雪姫によく蘭学を教えていたが、そこにとくも加わると話が深まると言うておった。ついには親しい蘭方医が中屋敷に来ると、とくも交えて話をするようになった。後にとくはその蘭方医と祝言を挙げることになる。



 さて、安房守のことだが、清光院の一周忌の十日ほど前、殿様との打ち合わせの際に、縁組の件はなかったことにしてくれと安房守から申し出があったということであった。
 わらわも若殿も安堵した。恐らく一周忌を前に落ち着きを取り戻し、己の言動がいかに非常識かを悟られたのであろう。何はともあれ、おかげで珠姫は良縁に恵まれたのだから、よしとせねばなるまい。
 と思っていたら、一周忌の朝、安房守は眠ったまま事切れてしまわれた。安房守の病弱な弟もまた亡くなり、榎原家は大混乱となったが、当家の殿様があれこれ指示しなんとか無事に御公儀への届けや弔いが済んだのは幸いであった。榎原の若殿様への家督相続も滞りなく認められた。
 それにしても、奥方が亡くなられた一年後に急に亡くなられるとは不思議な話じゃ。いくら仲がよくてもそこまでとは。ただ、なんとなくわらわには羨ましく思われた。そこまで殿に愛されるとはなんと幸せな清光院様であろうか。
 なれど、若殿は言った。

「そなたは私が死んでも一年くらいで死んではならぬぞ。長く生きて孫や曾孫の行く末を見てくれ」
「かしこまりました」

 果たせるかどうかもわからぬことであったが。



 秋の頃であった。上屋敷の奥方様から月姫を上屋敷の奥で預かりたいという話があった。
 奥方様は近頃、酒を以前ほど飲まぬようになったと聞いていた。殿様が広敷の用人に命じて、奥方様の酒入手に協力していた下女を見つけ辞めさせたのである。
 わらわも若殿もそれならばと月姫を上屋敷にやることにした。奥方様は月姫に養子をとらせることを考えているようであった。もっとも阿弥が男児を産めばその必要はなくなるのだが。それはともかく、奥方様の心を慰めるにはよいかもしれぬ。
 月姫は娘達の中で一番活発であった。大人しそうな顔をしておるが、貞眞院様と奥方様の実家加部家から譲られた阿蘭陀犬の疾風はやてという大きな犬の綱を引き、庭をよく散策しておった。
 この疾風というのは白地に茶色のぶちのある毛足の短い顔の長い犬であった。牝とはいえ地面から背中までの高さが二尺三寸(約70センチメートル)、重さは八貫(約30キログラム)と狆とはくらべものにならぬ大きさで、わらわなど近寄るのも恐ろしいが、月姫は臆することなく綱を引いた。疾風もよく慣れて、月姫の言うことをよく聞いた。
 ある朝のこと、その疾風がめったにせぬ遠吠えをした。奥女中に様子を見に行かせると、疾風を上屋敷に連れて行くため駕籠に乗せようとしているが、暴れているとのことだった。
 疾風を上屋敷に連れていくなどわらわは聞いていなかった。月姫も当然聞いておらぬ。奥女中に話をさらに訊くと、疾風をさる御家中に献上するとのことであった。
 月姫はえっと小さな声を上げた。月姫はおとなしそうだが、納得のいかぬことは決して譲らぬところがあった。逆に言えば道理を尽くして話をすれば納得する。
 わらわは月姫を伴い犬のいる中奥へと向かった。
 庭に面した廊下から見えたのは綱をつけられたままの疾風が家臣らに向かって歯をむき出しにして吠えている姿であった。皆遠巻きに見るばかりであった。

「疾風、おやめ」

 月姫の一喝で犬は吠えるのをやめ、月姫を見上げた。わらわの目には犬は怯えているように見えた。

「犬は怯えておるのじゃ。気を鎮めるため、皆離れよ」

 わらわの声で皆さらに後ろに下がった。疾風は悪いことをしたと思っているのかうなだれた。犬ながら己の所業がよくないとわかっておるらしい。賢き犬じゃ。
 そこへ若殿がやって来たので、月姫とともに座敷で事情を聴くこととなった。上屋敷の留守居役が廊下に控えていた。この者が上屋敷の殿様の命をここへ伝えに来たのであろう。
 若殿の話によれば、上屋敷の奥方様がいささか軽々しい振舞をして一橋様の御不興をかっているので、疾風を献上してお気持ちを和らげたいとのことであった。
 奥方様のいささか軽々しい振舞。数日前にわらわは御年寄から聞いていた。奥方様が、某家と一橋家との縁組を進めるために、あちこちの家の奥方に文を送ったという。奥方様は某家の大奥様と交流があり、それで文を書いたということだが、いくらなんでも軽々し過ぎる。留守居役たちはその回収に追われたという。
 先ほどの犬の振舞を見た後だけに、奥方様の振舞にはほとほと呆れた。犬でさえ我が身を省みてうなだれるというのに。

「つまり母上の尻拭いを何も知らぬ犬にさせるということか」

 わらわはそう言わずにはいられなかった。

「そういうことになる。可愛がっている月には申し訳ないが、御家のためなのだ。わかってくれるな。疾風にとっても、一橋に行くのはよいこと。よい餌も与えられるし、犬小屋ももっと広い。走る場所もある。人も大人になれば仕官や奉公をする。疾風も大人になったゆえ一橋様に奉公するのだ」

 月姫にとってはとうてい納得しがたい話であろう。けれど一橋様という名は大きい。八代将軍の血を引かれる方なのだから。

「もう決まってしまったことなのですか」
「上屋敷の殿様がお決めになったのだ」

 月姫はあの犬と同じようにうなだれていた。
 わらわは腹が立ってきた。犬にも月姫にも何の咎もないというのに。だから嫌味たらしく言った。

「一言、奥にお知らせくだされば。女達が怯えまする」
「すまぬ。知らせが早朝のことであったのでな」
「朝早いからこそ」
「朝は女子は支度が忙しかろうと思うてな」

 若殿も困惑しているのはわかるが、せめて月姫にだけでも早く話してくれればよかったものを。
 月姫は何かを決意したかのように、まっすぐに若殿を見つめた。

「父上」
「いかがした」
「わらわが上屋敷まで疾風を連れて行きます。そうすれば、散歩だと思って疾風は大人しく上屋敷に参りましょう」

 いくらなんでもそれは出来ぬ。わらわも若殿も同時に、それはできぬと言っていた。
 なんといっても月姫は嫁入り前の娘である。

「大名の姫が犬を引いて外を歩くなど、聞いたことがない」
「母上の言う通りじゃ。徒歩かちで行くものではない」
「二本の足があるというのにですか」

 月姫はそう言うと、徒然草の一節を引用した。

「もしなすべき事あれば、すなはちおのが身を使ふ、もしありくべき事あれば、みづから歩むと、兼好法師も言っています」
「兼好は男じゃ。嫁入り前の姫が市中を犬を引いて歩くというのは外聞が悪い」
「母上、一人で歩くと申しているのではありません。小姓らも、外においでの上屋敷の方もおいでならば、何の心配もいりません。目立ってはならぬのなら、髪も着る物も替えます」

 その時、咳払いが聞こえた。

「いかがした」
「畏れいりますが、よろしいでしょうか」

 留守居役が廊下から声をかけた。若殿はよいと言って許した。

「姫様の仰せの通りになされたほうがうまくいくかと存じます。けだものとはいえ、犬は賢い生き物。見ず知らずの者の多いところに連れて行けば不審を覚えるもの。慣れた姫様がおいでならさほど騒がぬかと存じます」
「一橋に参る時はいかがするのか」
「それはまたその時に。まずは上屋敷で綺麗に洗い、姿を整えねばなりません。殿に目通りもせねばなりません。家中の大事な犬でございますから」

 月姫の表情が少しだけゆるんだ。「大事な犬」という言葉が効いたのであろうか。
 若殿は腕を組んだ。

「あいわかった。ただし、姫の今の姿では動きにくかろう。奥の小姓の装束に袴を着せて、髪はわからぬように頭巾をせよ」
「殿、なんと」

 わらわはあきれたが、若殿は落ち着いていた。

「御家の一大事ぞ。月はそれがわかっておるから自ら役をかってでたのだ。その心意気、必ずや、疾風にも通じるはず。月、頼むぞ」
「かしこまりました」

 わらわとしては心配でならなかった。が、若殿は帰りは駕籠で戻ってくればよい、疾風も月と思う存分走れ手嬉しかろうと言う。揚句は身体によいから、そなたも走ってはなどと言う。まったくたわむれにもほどがあるというもの。
 結局、月姫は奥の小姓の衣装を着て御高祖おこそ頭巾で髪を覆い疾風を上屋敷まで連れて行った。途中、町の犬どもは疾風の大きさに驚き、皆尻尾を巻いて逃げて行ったという。
 上屋敷に到着した後、疾風の身体を洗ったため着ていた物が濡れたので、そのまま上屋敷の奥に留め置くと殿様から知らせがあり、月姫はその日から上屋敷で暮らすことになった。予定よりも早かったが、すぐに当座必要な着替えや布団を運ばせた。
 翌日一橋家に疾風を連れて行く時も月姫はつきそった。
 そこまで犬を案じるとはと思った時、象のことを思い出した。
 わらわは姫達が幼い頃に象のことを語ったことがあった。話の終わりに、一度けだものを養うことを決めたら、最後まで世話をせよ、けだものは人より短い命ゆえと言って締めくくった。
 月姫はそれを理解しておったのであろう。だから、一橋に行くまで疾風に付き添ったのではあるまいか。
 月姫は四年後の宝暦九年(1759年)輿入れするまで上屋敷の奥で暮らすことになる。




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