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第二章
74話
致命傷を負い意識を失っているメトゥスは今、リュシアンが自ら張った厳重な結界の中にいる。これまで、兄と呼び懐いてきたので無下にはできず妹として扱ってきたが、事実上の関係は主従だ。配下の者に命を狙われるようなことがあれば即刻始末するべきであろうが、彼はその決断を下すことができなかった。長い年月を共に生きてきた同胞に対する情が、とどめを刺すことを思いとどまらせたのだ。
しかし――リュシアンは、メトゥスが流した黒い血の冷たさを指先に思い出しながら考える。あの娘の命はもう長くない……無駄に苦しませるくらいならいっそ、一思いに殺してしまった方がよかったのではないかと。
メトゥスに急襲され倒れたファヴィラは、自室のベッドで眠っている。彼女は背中からの一撃でいくつかの臓器を破壊されていた。それくらいで死にはしないが、完治するまでにはかなりの時間が掛かりそうだ。下級ヴァンパイアにしては傷の回復が早い方であるものの、今回は損壊が激しすぎる。
リュシアンはファヴィラを、側近として一番に信用していた。滅多に感情をあらわすことのない冷静沈着な彼女の助言はいつも正しく、自分を導いてくれたからだ。トニトルスが言っていたように下級魔物が張る結界は壊れやすい、だが聡い彼女のことだからなにか他に手を打っているのだろうと考えていた。
彼は煩悶した。彼女の判断力と善性を信じメトゥスの処遇を任せた、その判断の誤りがエミリアを危険な目に合わせ、トニトルスに大怪我を負わせた。この事実を目の当たりにすることは彼にとって耐え難い苦痛であった。
「近頃どうにもおかしくないか?」
トニトルスは鋭く光る瞳を闇に浮かせる。
「本能のまま生きるメトゥスが混乱を引き起こすトリガーだと常々思っていたが……この町に来てから問題を起こす頻度が高まっていたし、腹が満たされているときも狩りに出たりして、明らかに自制が効かなくなっていた。もしかしたらあいつを裏で操っている者がいるのかもしれんぞ」
――“あの娘はなにかよからぬことを考えているようです。くれぐれもお気をつけくださいませ”……リュシアンの耳底にイグニスの言葉が甦る。この警告が狡猾な火の戯言でないとすれば黒幕は……
震える手を握りしめたそのとき、エミリアの小さな呻き声が耳に届く。彼は弾かれたように窓辺から離れ、足早にベッドへと近づいた。
覗き込んだ白い顔のなか、唇だけにほのかな色がある。薄く紅を引いたような、小さく可憐な唇に、彼はしばし見蕩れた。
熱のこもった視線に応えるようにまぶたが薄く開き、濡れた菫色の瞳がリュシアンを見上げる。彼は、まだ完全に覚醒していない目元に冷たい指先を当て、やさしく視界を覆い隠した。
「眠って……私のかわいい人……」
耳元で囁く。その甘美な声に導かれるように、エミリアは再び深い眠りに落ちていった。リュシアンはそっと手を離し、額にくちづける。笑顔を多く見せてくれていたせいか起きているときには気づかなかったが……人知れず憂苦を抱えているのだろう、その寝顔には濃い疲労が滲んでいる。
青白いまぶたをかたく閉じ、かすかな寝息を立てているエミリアを見下ろしながら彼は言う。
「とにかく今回の件は、判断を誤った私の責任だ。メトゥスは私の手で罰を与えしっかりと躾けるべきであった」
「おまえはあの姉妹に甘すぎる。人の生き血を飲み力を蓄え、主としての威厳を取り戻せリュシアン。今こそ偉大なヴァンパイアであることをあいつらに示すんだ。ウングラもああ見えて野心家だし、舐められたままじゃいつか寝首を掻かれるぞ。下僕は主を殺せないというが、方法なんていくらでもあるんだからな」
狼の言葉が鋭く胸に刺さり、リュシアンは眉根を寄せる。
そうして黙り込んだ彼の脳裏には、ファヴィラの姿が浮かんでいた。
冷静に考えてみれば、エミリアが城に来たタイミングでメトゥスが結界を破壊するなど偶然にしてはできすぎている。しかも彼女は、餌である人間がわんさかいる町には行かずに、腹を空かせたまま一目散に主人の部屋へと飛び込んできたのだ。
ファヴィラが張る結界はメトゥスにとって薄い硝子のようなものであり、すこし力を加えればすぐに壊せてしまう。一時的にしか留め置くことのできない非常に脆い結界であるにもかかわらず、彼女は何十時間もその中から抜け出せずにいた。
それはなぜか。
おそらくファヴィラは、呪術で動きを封じてから結界を張ったのだ。そして今日、長いあいだ閉じ込められ空腹状態となった末妹がどんな行動を取るかすべてわかったうえで、掛けていた呪術を解き自由にした――
狙いはエミリアか……仮の答えに行きついたリュシアンは血が滲むほど強く唇を噛む。
当然ながら魔物は聖者を嫌う。特に下級種にとって教会の人間は天敵であり、近づくだけでも魔力を吸い取られるため、生命の危機に瀕する事態になりかねない。下級魔物であるファヴィラが神聖な力を持つエミリアを脅威に感じ、問題児のメトゥスを使って殺害しようとした可能性は十分にある。
思考をめぐらせるほど、ファヴィラに対する疑心はつのっていった。エミリアのために使い魔の鴉を飛ばしたと言っていたが、それすら疑わしく思えてくる。
あの女はいったい何を考えているのだろう。火の賢者の言うとおり、一連の事象の元凶なのか?
しかし――リュシアンは、メトゥスが流した黒い血の冷たさを指先に思い出しながら考える。あの娘の命はもう長くない……無駄に苦しませるくらいならいっそ、一思いに殺してしまった方がよかったのではないかと。
メトゥスに急襲され倒れたファヴィラは、自室のベッドで眠っている。彼女は背中からの一撃でいくつかの臓器を破壊されていた。それくらいで死にはしないが、完治するまでにはかなりの時間が掛かりそうだ。下級ヴァンパイアにしては傷の回復が早い方であるものの、今回は損壊が激しすぎる。
リュシアンはファヴィラを、側近として一番に信用していた。滅多に感情をあらわすことのない冷静沈着な彼女の助言はいつも正しく、自分を導いてくれたからだ。トニトルスが言っていたように下級魔物が張る結界は壊れやすい、だが聡い彼女のことだからなにか他に手を打っているのだろうと考えていた。
彼は煩悶した。彼女の判断力と善性を信じメトゥスの処遇を任せた、その判断の誤りがエミリアを危険な目に合わせ、トニトルスに大怪我を負わせた。この事実を目の当たりにすることは彼にとって耐え難い苦痛であった。
「近頃どうにもおかしくないか?」
トニトルスは鋭く光る瞳を闇に浮かせる。
「本能のまま生きるメトゥスが混乱を引き起こすトリガーだと常々思っていたが……この町に来てから問題を起こす頻度が高まっていたし、腹が満たされているときも狩りに出たりして、明らかに自制が効かなくなっていた。もしかしたらあいつを裏で操っている者がいるのかもしれんぞ」
――“あの娘はなにかよからぬことを考えているようです。くれぐれもお気をつけくださいませ”……リュシアンの耳底にイグニスの言葉が甦る。この警告が狡猾な火の戯言でないとすれば黒幕は……
震える手を握りしめたそのとき、エミリアの小さな呻き声が耳に届く。彼は弾かれたように窓辺から離れ、足早にベッドへと近づいた。
覗き込んだ白い顔のなか、唇だけにほのかな色がある。薄く紅を引いたような、小さく可憐な唇に、彼はしばし見蕩れた。
熱のこもった視線に応えるようにまぶたが薄く開き、濡れた菫色の瞳がリュシアンを見上げる。彼は、まだ完全に覚醒していない目元に冷たい指先を当て、やさしく視界を覆い隠した。
「眠って……私のかわいい人……」
耳元で囁く。その甘美な声に導かれるように、エミリアは再び深い眠りに落ちていった。リュシアンはそっと手を離し、額にくちづける。笑顔を多く見せてくれていたせいか起きているときには気づかなかったが……人知れず憂苦を抱えているのだろう、その寝顔には濃い疲労が滲んでいる。
青白いまぶたをかたく閉じ、かすかな寝息を立てているエミリアを見下ろしながら彼は言う。
「とにかく今回の件は、判断を誤った私の責任だ。メトゥスは私の手で罰を与えしっかりと躾けるべきであった」
「おまえはあの姉妹に甘すぎる。人の生き血を飲み力を蓄え、主としての威厳を取り戻せリュシアン。今こそ偉大なヴァンパイアであることをあいつらに示すんだ。ウングラもああ見えて野心家だし、舐められたままじゃいつか寝首を掻かれるぞ。下僕は主を殺せないというが、方法なんていくらでもあるんだからな」
狼の言葉が鋭く胸に刺さり、リュシアンは眉根を寄せる。
そうして黙り込んだ彼の脳裏には、ファヴィラの姿が浮かんでいた。
冷静に考えてみれば、エミリアが城に来たタイミングでメトゥスが結界を破壊するなど偶然にしてはできすぎている。しかも彼女は、餌である人間がわんさかいる町には行かずに、腹を空かせたまま一目散に主人の部屋へと飛び込んできたのだ。
ファヴィラが張る結界はメトゥスにとって薄い硝子のようなものであり、すこし力を加えればすぐに壊せてしまう。一時的にしか留め置くことのできない非常に脆い結界であるにもかかわらず、彼女は何十時間もその中から抜け出せずにいた。
それはなぜか。
おそらくファヴィラは、呪術で動きを封じてから結界を張ったのだ。そして今日、長いあいだ閉じ込められ空腹状態となった末妹がどんな行動を取るかすべてわかったうえで、掛けていた呪術を解き自由にした――
狙いはエミリアか……仮の答えに行きついたリュシアンは血が滲むほど強く唇を噛む。
当然ながら魔物は聖者を嫌う。特に下級種にとって教会の人間は天敵であり、近づくだけでも魔力を吸い取られるため、生命の危機に瀕する事態になりかねない。下級魔物であるファヴィラが神聖な力を持つエミリアを脅威に感じ、問題児のメトゥスを使って殺害しようとした可能性は十分にある。
思考をめぐらせるほど、ファヴィラに対する疑心はつのっていった。エミリアのために使い魔の鴉を飛ばしたと言っていたが、それすら疑わしく思えてくる。
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