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夜の庭園は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
水面を渡る風が、灯籠の火を揺らす。
「久しいね、胡蝶」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が軋んだ。
変わらない、優しい声。
それだけで幼い頃へと引き戻されるような錯覚を覚える。
「陛下」
そう呼んだ自分の声が、思いのほか落ち着いていて胡蝶は内心で驚いた。
月明かりの下に立つ白龍は、人間離れした美しさであった。
「後宮での暮らしは、どうかな」
「不自由はございません」
嘘ではない。
ただ、訓練場がないのが少し物足りないだけだ。
白龍は、わずかに目を伏せる。
「…皇后の選出は、先帝の決定だった」
「存じております」
短く答える。
その言葉に、感情を乗せないよう意識しながら。
「国のため、同盟のため。皇帝陛下として正しい選択です」
それは白龍を責める言葉ではない。
自分に言い聞かせるための言葉だった。
沈黙が落ちる。
水面が、2人の間に横たわる距離を映し出す。
ふと、水面が乱れバシャリと音を立てた。池の水で形どられた小さな魚が、胡蝶の周りを跳ねた。
驚いて、つい固まってしまう。
「喜んでくれないのか?」
「…いえ、驚いてしまって」
龍神の加護である水を操作する力を使っているので、白龍の髪の毛が白くなり淡い光を纏っていた。
そうだ、幼い頃に胡蝶が落ち込んでいた時はこのように慰めてくれていたのだった。
「貴妃になったからといって、胡蝶が特別な存在であることに変わることはない」
その言葉に、胸が痛む。
「嬉しいお言葉ですわ、陛下」
胡蝶は微笑んだ。
将軍家の娘として鍛え上げた、崩れない笑み。
「ですが、私は陛下の“唯一”ではありません」
白龍の喉が小さく鳴った。
「すまない」
「いいえ、そう仰らないでください」
胡蝶は一歩下がり、深く一礼する。
「私は貴妃としての務めを果たします。どうか私のことは気にせずに、陛下も皇帝としての務めを」
それ以上、交わすべき言葉はなかった。
背を向け、歩き出しながら思う。
―私は、まだ諦めていない。
夜風が首元を撫でた。
皇帝と皇后の命が繋がる契約を、2人は等しく知っている。
その重さが、今はただ沈黙となって胸に残っていた。
水面を渡る風が、灯籠の火を揺らす。
「久しいね、胡蝶」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が軋んだ。
変わらない、優しい声。
それだけで幼い頃へと引き戻されるような錯覚を覚える。
「陛下」
そう呼んだ自分の声が、思いのほか落ち着いていて胡蝶は内心で驚いた。
月明かりの下に立つ白龍は、人間離れした美しさであった。
「後宮での暮らしは、どうかな」
「不自由はございません」
嘘ではない。
ただ、訓練場がないのが少し物足りないだけだ。
白龍は、わずかに目を伏せる。
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「存じております」
短く答える。
その言葉に、感情を乗せないよう意識しながら。
「国のため、同盟のため。皇帝陛下として正しい選択です」
それは白龍を責める言葉ではない。
自分に言い聞かせるための言葉だった。
沈黙が落ちる。
水面が、2人の間に横たわる距離を映し出す。
ふと、水面が乱れバシャリと音を立てた。池の水で形どられた小さな魚が、胡蝶の周りを跳ねた。
驚いて、つい固まってしまう。
「喜んでくれないのか?」
「…いえ、驚いてしまって」
龍神の加護である水を操作する力を使っているので、白龍の髪の毛が白くなり淡い光を纏っていた。
そうだ、幼い頃に胡蝶が落ち込んでいた時はこのように慰めてくれていたのだった。
「貴妃になったからといって、胡蝶が特別な存在であることに変わることはない」
その言葉に、胸が痛む。
「嬉しいお言葉ですわ、陛下」
胡蝶は微笑んだ。
将軍家の娘として鍛え上げた、崩れない笑み。
「ですが、私は陛下の“唯一”ではありません」
白龍の喉が小さく鳴った。
「すまない」
「いいえ、そう仰らないでください」
胡蝶は一歩下がり、深く一礼する。
「私は貴妃としての務めを果たします。どうか私のことは気にせずに、陛下も皇帝としての務めを」
それ以上、交わすべき言葉はなかった。
背を向け、歩き出しながら思う。
―私は、まだ諦めていない。
夜風が首元を撫でた。
皇帝と皇后の命が繋がる契約を、2人は等しく知っている。
その重さが、今はただ沈黙となって胸に残っていた。
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