電車の男ー同棲編ー番外編

月世

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忘れても、好きな人

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※この話はパラレルです。このようなドラマチックな出来事は実際には二人に起きていません。いわゆる「if話」です。完全に本編と切り離して、別物としてお楽しみください。



〈倉知編〉

 目を開けると人の顔がぐるりと円を描いて並んでいた。ぼやけた視界に浮かび上がる人たちの顔が、一斉に明るくなった。
「ななせ」
 ななせが起きた、よかったよかったと涙を流す人々。
 体を起こすと、頭に痛みが走り、思わず手をやると大きな絆創膏が貼ってあった。
「ここは?」
 泣いている人たちに訊ねた。涙でぐしょぐしょになった綺麗な女性が言った。
「病院だよ」
「病院?」
「あんた、車に撥ねられたんだよ」
 もう一人、目に涙を溜めたショートカットの女性が泣き顔で言ってから、目元を拭う。
「死んだかと思ったんだから!」
 なぜか怒られた。ごめんなさい、と謝ってから、俺の足に布団の上からすがりつき、泣いている女性に気づいた。ななせ、ななせと叫んでいる。その女性の肩を抱いて撫でさすり、男性が涙をぬぐっている。
「あれ?」
 頭に手をやって、首を傾げる。
「俺の名前? ななせって言うんですか?」
 何か、ピンとこない。
「は? こんなときに何ふざけてんの」
 再びショートカットの女性に怒られた。もう一人の女性が「待って」と俺の肩に手を置くと、顔を近づけてきた。
「ななせ、私が誰かわかる?」
「えっと……、すいません、みなさんのこと、わからなくて」
「ちょっと、これって」
 バン、と大きな音がして、ドアが開いた。病室に飛び込んできたスーツの人が、肩で息をしながら俺の顔を見ると、ベッドに駆け寄り、飛びつくようにして抱きついてきた。
「生きてる」
 震える声でそう言った。俺の体を強く抱きしめながら、もう一度「生きてる」とつぶやいた。
「あ、あの……」
「事故ったって訊いて、頭ん中真っ白になった」
「生きてます、でも、あの、すいません、俺」
「お前が死んだら、俺も死ぬ。絶対、死ぬ。生きてられない。一緒に死ぬから、お願い、おいてかないで」
「え、ちょ、ちょっと、あの、落ち着いて」
 しがみついて離れない男性の背中を遠慮がちにポンポン叩いていると、「ななせ、あんた」と綺麗な女性が険しい顔で言った。
「記憶喪失なんじゃない?」
「記憶喪失」
 その言葉を聞いて、やっと納得した。そうだったのか、とすっきりした。
 俺はどうやら記憶を失っているらしい。
 だから自分の名前が「ななせ」なのかもよくわからなくて、この人たちに見覚えがなかったのだ。
 しがみついていたスーツの男性が、ゆっくりと俺から離れていく。そして、顔を覗き込んできた。
 息をのむ。
 その人は、とても美しい人だった。目も、鼻も、口も、全部が完璧で、絵に描いたように整っている。触りたくなるほどきめの細かい肌と、サラサラの黒髪が、綺麗だと思った。
 長い睫毛は涙で濡れていた。潤んだ瞳でまっすぐ俺を見て、形のいい唇が滑らかに動く。
「俺が誰か、わからない?」
「ごめんなさい……」
 胸が痛い。わからないことが、悔しい。どうしてこの人を忘れたのだ、と自分を罵りたくなった。
 それから医者を呼んで状況を説明し、正式に「記憶障害」だと診断されると、奇跡的に擦り傷だけで済んだので、とりあえず退院させられた。
 病室にいたのは俺の家族だった。父と母と姉が二人。俺の名前は倉知七世と言って、大学生で、今は実家を出てある人と一緒に暮らしていると教えられた。
 それは、あの、スーツの男性だった。彼は家族ではなく、同居人だったのだ。
 名前は加賀定光さん。俺より十歳上で、印刷会社で働いている。
 普段通りに生活したほうがいいという医者からのアドバイスもあり、家族と話し合った結果、実家には戻らず、彼と暮らしているマンションに帰ることにした。
 俺が暮らしていたらしい部屋は、完璧すぎた。こんな、ドラマにでも出てきそうな高級マンションで暮らしているのか、と気後れさえした。
 玄関からすでにオシャレな感じだ。自分がどんな人間かもわからないが、分不相応だと感じた。それにしても驚くほど掃除が行き届いている。フローリングは鏡のように磨かれていて、塵一つ落ちていない。無駄なものを置かない主義なのか、殺風景に見えるが居心地は悪くなかった。
 俺をソファに座らせると、着替えてくる、と言い置いて、加賀さんが姿を消した。背筋を伸ばし、部屋の中を見回した。なんだろう。緊張してきた。病院では混乱していて、物事を深く考えることができなかったが、時間が経った今、いろいろと疑問が湧いてきていた。
 この人は、誰だ?
 どうやら親戚でもなさそうだし、年も離れている。
 どういう関係なのか、気になった。
 俺はどうして、この人と一緒に住んでいるのだろう。
「やっぱり実家帰ったほうがよくない?」
 スーツからTシャツにジャージ下というラフな格好に着替えた加賀さんが、俺の隣に座って言った。
「車に轢かれてんだぞ」
 横断歩道を渡っている途中で、車に撥ねられたらしい。運転手はスマホでゲームをしていたとかで、病室に謝りに来た彼を、激怒した家族がよってたかって責めていた。両親と姉二人が攻撃する中で、加賀さんは壁によりかかり、黙ってその光景を眺めていただけだった。
 家族じゃないから。だから、怒らない。
 そう考えると俺は、ここにいるよりも家族のところに戻るべきかもしれない。でも、記憶のない今の俺にとって、家族も見知らぬ他人なのだ。どこにいても一緒だ。
「ここにいさせてもらえませんか?」
 加賀さんはソファの端で、肘掛に寄りかかるようにして俺を見ていた。本当に綺麗だと思った。この人はなんだろう。どうしてこんなにも、キラキラしているのだろう。ため息が出そうなほど、美しい。
「それでいいの?」
 加賀さんが眉間を搔きながら言った。
「いつも通りに生活したほうがいいって、お医者さんも言ってたし」
 俺が言うと、加賀さんはひたいを押さえてわかりやすくため息をついた。ぎくりとして慌てて言い足した。
「あ……、あの、でも、邪魔なら……、帰ります」
「違う、そんなんじゃない」
 加賀さんがソファから腰を上げた。
「お茶淹れる」
「あ、俺が」
 立ち上がりかけて、動きを止めた。茶葉やカップや急須の場所がわからない。
「いいよ、座ってて。頭痛くない?」
「今は平気です」
「具合悪かったらすぐ言えよ」
「はい……」
 今のやり取りで気がついた。
 俺は、この人に迷惑をかけている。事故に遭ったばかりの不安定な状態の他人と暮らすのは、きっと負担になる。どんな関係かはわからない。でも、他人なのだ。
「あのっ」
 急いで立ち上がり、声を上げた。
「何?」
「俺、やっぱり自分の家に帰ります」
「え」
「すいません、気がつかなくて」
「何、なんのことだよ」
「自分の都合で、ここにいたほうがいいかなって思ったんですけど、何かあったらあなたに迷惑かけちゃいますね」
 頭を掻いてから、「ごめんなさい」と謝った。
「帰ります」
 玄関に向かう俺を、加賀さんが呼び止めた。
「待って、行かないで」
 切羽詰まった声に思わず足を止めて振り向いた。
「あ……、いや、お前、帰るっつっても実家の住所わかるの?」
「わかりません、けど」
 家族に電話をして、迎えに来てもらおうか、と考えていると加賀さんが左手にマグカップをぶら下げたままうつむいて唇を噛んだ。つらそうに見えた。胸の奥でつっかえる、よくわからない感情。シャツの上から、自分の胸をつかんだ。
 やっぱり、気になる。俺はこの人の、なんなのだろう。
「あの、加賀さん」
 加賀さんが顔を上げた。ドキッとした。不安そうに陰った表情が、ぞくっとするほど美しかった。男の人なのに、おかしい。この人がおかしいのか、俺がおかしいのか、どっちなのだろう。
「何?」
 加賀さんにうながされ、ハッとなって動揺しながら早口で言った。
「訊きたいことがあるんですけど」
 加賀さんを見ていると心臓が早くなり、手のひらに汗がにじむ。自分の足元に視線を逸らす。
「俺と加賀さんってどんな関係なんですか? すいません、なんで一緒に住んでるのか、気になって」
 加賀さんが、うん、と小さく返事をした。
「気になるよな」
「はい」
「お前、気づいてない?」
「え?」
「左手の薬指」
 言われて、自分の左手に目を落とす。薬指に指輪をしている。
「あっ、俺、もしかして結婚してます?」
「違うよ。それはただのペアリング」
 加賀さんが笑う。笑った顔が可愛くて、キュンとなる。にやけそうになる口元を、歯を食いしばって引き締めた。
「ごめんね」
 なぜか謝られたとき、ケトルがピーッと甲高い音を鳴らした。すぐにコンロの火を止めて、音が止むと加賀さんが口を開いた。
「ショック受けるかもしれないから、落ち着くまで黙ってようってお父さんとも話してたんだけど」
 急須に茶葉を入れながら、加賀さんが息をつく。
「付き合ってるんだよ、俺ら」
「え」
「お前が高二のときから、お互いの家族公認で、付き合ってる」
「付き合ってるって、俺と、加賀さんが?」
「うん」
「加賀さんと俺が?」
「はは、うん。順番入れ替えただけじゃねえか」
 困った顔で笑う加賀さんが、顔をゆがめ、その場にうずくまる。膝を抱えて背中を丸め、また「ごめんな」と謝った。
「ごめん、気持ち悪かったらほんと、出てっていいから」
「え、えっ? 気持ち悪いって、なんでですか」
 うずくまる加賀さんのそばに飛んでいくと、その場に正座をした。
「あの、俺、加賀さんのこと、綺麗だと思うんです」
 加賀さんが少しだけ頭を上げて、隙間から俺を見た。
「なんかすごい、ドキドキするんです。見てるだけで幸せになって、温かくなるの、なんでだろうって思ってたんですけど」
 胸を抑えて、昂る気持ちを深呼吸で紛らわせてから、息を吐くと同時に言った。
「好きです」
 加賀さんが顔を上げた。
「謎が解けました。俺、そうか、加賀さんと恋人同士なんだ。だからこんなにドキドキして、綺麗だとか愛しいとか、可愛いとか思うんだ」
 加賀さんが泣きそうな顔をしてから笑って、突然抱きついてきた。
「怖かった」
 小さな声でそう言うと、肩を震わせて静かに泣き出した。
「死んだらどうしようって、怖かった」
 弱々しく泣きじゃくるこの人が、どれだけ俺を大切に思ってくれているのか、ひしひしと伝わってくる。嬉しくて、誇らしくて、くすぐったい。
「生きててくれてありがとう」
 加賀さんの震える肩を、泣き止むまでずっと優しく撫で続けた。


〈加賀編〉

 倉知が事故に遭ったと、六花から電話がかかってきた。六花は取り乱していて、やっとのことで搬送先の病院を聞き出した。容体もわからずに駆けつけると、怪我らしい怪我はなく、ケロッとしていた。
 生きていた。
 それだけで充分だった。
 いつどうやって死ぬのか、誰にもわからない。年齢は関係ない。まだ若いからといって明日死なないとは限らない。年上の俺が確実に先に死ぬと決まってもいない。
 先に、死ねたらいいのに、と思った。
 俺には無理だ。倉知が死んだら。
 想像したくもない。
「これ、どこの水族館ですか?」
 アルバムを見ながら、倉知が写真を指さした。巨大な水槽の中を泳ぐウミガメをバックに撮ったツーショットだ。人がはけるのを待って、亀に乗っているような写真を撮ろうと馬鹿なことに挑戦していた思い出がある。
「これは海遊館」
「大阪の?」
 そういう記憶はあるらしい。
「うん、これ、ここからここまで、二泊三日で旅行行ったんだよ」
 アルバムをめくりながら説明すると、目を輝かせて楽しそうに覗き込む。
 記憶が戻る刺激にでもならないかと、アルバムを見せていた。たまに見返しているアルバムだが、倉知は新鮮な目で見ているのだ。変な感じだ。
「わっ、ゾンビだ」
「うん、でも偽物だよ」
 ギャグで言った科白に、倉知は馬鹿正直に返してきた。
「なんだ、偽物か」
 記憶を失っても素直で天然なところは変わっていないらしい。
 それにしても、懐かしい。USJのホラーナイトだ。まだ付き合って間もない頃だったが、とにかく楽しかった。一泊目がラブホで、お前一晩中人のこと抱き倒したんだぞ、という言葉を飲み込んだ。
「あの、俺、加賀さんのこと、なんて呼んでました? 定光さん?」
 吹き出してから、「加賀さんでお願いします」とマグカップに注いだ温かいお茶を一口すする。
「俺、下の名前嫌いだから」
「そうなんですか?」
「お前もそうだよ。だから倉知君って呼んでる」
「七世って、いい名前なのに」
「お、じゃあ呼んでいい? 七世」
 倉知が俺を見て、ほんのりと頬を染めた。なぜか照れている。
「なんか、照れ臭いですね」
 一瞬、記憶が戻ったのかと思ったが、そうではないようだった。
 記憶喪失になった人間というのは、こんなにも変化がないものなのだろうか。倉知は倉知のままで、何の違和感もない。
「あ、敬語、やめたほうがいいですか?」
「元々敬語キャラだよ、お前」
「敬語キャラ」
 おかしそうに笑ってアルバムをめくり、笑顔のまま固まった。目が、何かを捉えて離さない。視線を追って、納得する。温泉で倉知が撮った、浴衣の俺だ。胸元がはだけていたり、いろいろと気持ちの悪い写真だが、倉知のお気に入りの一枚だった。
「これ」
「あー、あんま見るなよ。キモイから」
 隠そうとする俺の手をどけて、倉知が反論した。
「キモくないです。すごい、なんか、色っぽいですね」
 うっとりした目でため息をつくと、アルバムをめくる手が完全に止まってしまった。ずっと同じ写真を見つめ続けたままだ。
「俺、風呂入ってくるわ」
「あ、はい、どうぞ」
「一緒に入る?」
「えっ」
 急激に顔を真っ赤にさせ、大げさに飛びのいた。
「いや、ごめん、嘘、あー、アルバム見てて」
「は、はい」
 不謹慎かもしれないが、少し、いや、かなり可愛いと思ってしまった。知り合った頃の何も知らないまっさらな倉知が帰ってきたようで、むず痒い。視線が合うだけで恥ずかしそうにしていた頃が、懐かしい。
「やべえ」
 頭からシャワーを浴びて、一人、つぶやいた。
 倉知は今、倉知であって、倉知じゃない。記憶がないのだ。あいつにとって俺は出会ったばかりの他人。だから、何もできない。というか、すべきじゃない。
 初々しく恥ずかしがる倉知が見たいからといって、手を出すのは鬼畜の所業だ。
 よくない欲求が頭をもたげたが、冷たいシャワーで必死に振り払う。
 冷静になれ。
 平常心を保て。
 できる。大丈夫。俺ならできる。
 俺は自分をコントロールするのが得意だ。感情を抑制するのはいつでも簡単だ。
 スマホゲームに気を取られて倉知を撥ねたクソ野郎を、殴って蹴って首を絞めて半殺しにしたかったが、やらなかった。強靭な精神力のおかげなのだ。
 シャワーを浴びてリビングに戻ると、倉知はまだ熱心にアルバムを見ていた。
「面白い?」
 タオルで髪を拭きながら覗き込んで訊くと、倉知が俺を仰ぎ見た。
「はい。見てるだけで楽しくなります」
 無邪気な少年のような笑顔。あまりにも眩しすぎる。
「そっか」
 たじろいで、ソファに腰を下ろす。
 しまった、と思った。倉知を実家に帰すべきだった。触ることも許されないのに、この可愛い物体を手元に置いておくのは拷問に近い。
 勢いよく自分の頬を張った。肉を打つ音に、倉知が驚いて振り返る。
「どうしました?」
「いや、なんも……、倉知君、風呂は?」
「あ、じゃあ、いただきます」
 立ち上がったはいいが、ぼんやりと、何か迷っている。
「どした?」
「えっと、お風呂ってどこですか?」
 そうか、そこからか。そりゃそうだ。記憶喪失なのだ。
 ここがトイレ、ここが風呂、ここが寝室、と案内してやると、倉知が再び立ち尽くした。
「何?」
「あ、あの……、ベッド、一つですか?」
「え」
 またしても赤面タイムだ。耳まで赤い。
「お風呂、入ってきます」
 寝室に背を向けると、逃げるように風呂場へと飛んでいった。
 まずい。可愛い。めちゃくちゃ可愛がりたい。どうすればいい。
 こんなことなら風呂場で抜いておくんだった、と後悔しながらテレビを点けた。
 困った。内容がまったく頭に入ってこない。
 深刻そうな海外のニュースだったが、今の俺にはそんなことよりもいかに夜をやり過ごすかが重要だった。
「加賀さん」
 テレビを見ているふりをしていた俺を、倉知が小さな声で呼んだ。振り向くと、濡れた頭で腰にタオルを巻いただけの格好の倉知が立っていた。
「すいません、着替えってどこに」
「着替えな。うん、だよな」
 何食わぬ顔で寝室のクローゼットから着替えを出して、手渡した。
 着替えるために再び脱衣所に戻る倉知の背中を見つめながら、これはこれで、と思ってしまう自分がいる。
 タオルを巻いて出てくる慎ましさが新鮮というか、着替えの場所もわからない、何もできない感じが庇護欲をそそるというか、とにかく、いい。
 そして、しみじみと思った。
 俺は変態だ。
 夜の十二時を回り、寝るか、となったときに、倉知がぎこちなく緊張する様を見て、悪魔のささやきが聞こえた。
 変態の本領を発揮しろ。
「倉知君」
「はっ、はい……っ」
「俺、ソファで寝るから、ベッド使っていいよ」
「……え、えっ? でも、悪いです」
「いいから、ゆっくり休め。具合悪くなったら呼べよ」
「ありがとうございます」
 どこかホッとした様子の倉知を見て、これでよかったと満足した。よくやった、と天使の俺が労ってくれる。
 おやすみ、と言って部屋の明かりを消す。
 静寂と、闇。
 ソファに寝転がり、毛布にくるまって、目を閉じる。何があろうと、秒速で寝つくことができる。
 はずだった。
 眠れない。
 目を閉じると、思い出してしまう。六花からの電話。体が震えて、力が入らなくなった。体温が下がる感覚と、激しい頭痛。吐き気を堪えて車を走らせ、祈った。
 死なないでくれ。
 俺をおいて、死なないで。
 お前がいなかったら、俺はどうやって息をすればいいのかもわからない。
 目を開けた。
 体を起こすと、頬を濡らす涙を拭う。ソファから立ち上がり、闇の中、手探りで寝室のドアに触れた。音を立てないように、ドアを開ける。ナイトスタンドの明かりを点けた。淡い光だったが、倉知が気づくには十分な明るさだった。
「え、加賀さん?」
 上体を起こそうとする倉知の腹の上に、無言でまたがった。
「あ、あの、え、えっと、どう、しました?」
「ごめん、顔見たくなった」
 見下ろして、謝った。倉知は戸惑っていた。
「倉知君」
「はい?」
「触りたい」
「え、え?」
「いい?」
「さ、触るって、ど」
 倉知の頬に、手を伸ばす。体をびくつかせ、目をぎゅっと閉じて、小刻みに震える倉知を、心底から愛しいと思った。
「生きてる」
 つぶやくと、倉知がうっすらと目を開けた。
「……はい、生きてます」
「記憶なくてピンとこないと思うけど」
 倉知の頬を両手で挟んで、言った。
「俺、めっちゃ好きなんだよ、お前のこと」
 倉知の頬が赤く染まるのを見下ろしながら、顔面を撫でさする。
「可愛くて仕方なくて、もう、すげえ、好きなんだよ。ドン引きされるからあんま言いたくないけど、目に入れても余裕で痛くない自信あるし、あと、たまに食べたくなるくらいどうしようもなく可愛いときが」
「あの」
 倉知が慌てて俺を止めて、おずおずと口を開く。
「ありがとうございます」
 目元が赤くなっている。泣きそうな顔で、「俺も」と唇を震わせた。
「好きです。忘れてても、好きです。何回記憶なくしても、多分、いえ、絶対また好きになります」
 腹に乗ったままの俺を恥ずかしそうにはにかんで見上げてくる。
「加賀さん、好きです」
「……うん」
 倉知の顔を両手で包んでひたいをくっつけた。至近距離で目が合うと、倉知がなぜかきつく目を閉じた。ああ、キスされると思って身構えたのか、と気づき、たまらなくなった。
「キスしていい?」
 意地悪く訊いてみた。倉知が目を見開いて、体をこわばらせた。
「う、は、はい、どうぞ」
 ガチガチに固まって、身構えている。
 おいおい、キスだぞ? 毎日してんだぞ? なんだよこれ、可愛すぎる。
 我慢できずにかぶりついた。唇に、音を立てて何度も吸いついた。上唇を舌先でなぞり、甘噛みをしてやると、鼻にかかった声を小さく漏らす。意図せず出てしまった自分の声が恥ずかしかったのか、俺の胸を弱々しく押してくる。
「加賀さん、ちょっと、待って」
「待てない、ごめん。倉知君、すげえ可愛い」
 押しのけようとする力に抵抗して、可愛い可愛いと連呼しながらしつこくキスを続けていると、倉知の体がビクッと跳ねた。唇を離し、顔を覗き込む。
「え? あれ? もしかして、イッた?」
 倉知が両手で顔を覆い隠して、「すいません」と謝った。
「いつの間に勃ってたの?」
「え……と、加賀さんが、上に乗ったときから」
「マジか」
 それだけで勃起するとか、童貞みたいだ、と何か感動するものがあった。まさに、初期の倉知だ。
「よし」
 気合を入れた声を出すと、倉知が指の隙間から俺を見た。
「挿れよっか」
「……え?」
「大丈夫、優しくするから」
 倉知の頭を撫でてから、いそいそと準備に取りかかる。
「加賀さん」
「うん、待ってて」
「加賀さん」
「いい子だから待ってて」
「加賀さんってば」
 コンドームとローションをベッドの上に用意して、服を脱ぐ俺を、倉知がしつこく呼んでいる。
「なんだよ」
「どさくさで抱こうとしてません?」
 体を起こした倉知が、穏やかな笑みを浮かべて俺を見ている。
「ただいま」
「え?」
「お騒がせしました。なんかすいません、記憶、戻ったみたいです」
「……は?」
「思い出しました、全部」
 こめかみに人差し指をあてて、照れくさそうに笑う。
「え? なんで? どうやって? いつ?」
「わかりませんけど、さっき射精したとき、脱力感のあとでなんかこう、ぶわっと」
 喋っている途中の倉知に飛びついた。
「おかえり」
 しがみつく俺の体を優しく抱き留めて、倉知がもう一度言った。
「ただいま」
 記憶をなくしても、俺を好きでいてくれる。
 倉知は変わらない。愛せるし、愛してくれる。
 そう思っていたが、この、泣きたくなるような頼もしい安心感は、倉知が人生の中で経験した、出会ってきた、いろいろなもののおかげで得られた大きな武器だ。
 アルバムには到底収まりきらない。二人で過ごした一分一秒が、全部、宝物だ。積み重ねてきた俺たちの、二人の思い出が、どうしたって大切なのだ。

〈おわり〉
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