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1章

16、服は着なさい

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 月がぽっかりと夜空に浮かんでいる。
 雲を寄せ付けることもなくひとりぼっちで、手を伸ばしても、届かない。
 
「今ごろ、皇帝陛下は羊さんを抱っこしてスヤスヤだね。幻覚と入眠を誘うお香を焚いてもらったから」
  
 幻惑の術テンプテーションで宦官にひと仕事してもらった紺紺は、手の甲で額の汗をぬぐった。
 
「宦官の人たちは、『自分たちは仕事をしたぞ』って思いこんでくれたからよしとして。皇帝陛下の方は、朝起きたら羊さんがいてびっくりかもしれないけど……そっちをどう誤魔化そう。うーん」
  
 小蘭は精神的に疲れたのだろう、眠ってしまった。眠る前に「簀巻きにされそうになったりしたのは、夢を見たんだよ」と思いこむように術を使っておいたので、目が覚めた時に元気になっているといいな。

「ひとまず、小蘭を宿舎でちゃんと休ませてあげたいな」
 
 問題があるとすれば、服がないことだ。
 簀巻きにされた時に剥ぎ取られた服が、見当たらない。
 もしかしたら宦官が持って行ってしまったのかもしれない。

 ないものは仕方ない。
 後宮にいるのは女性ばかり。
「二人揃って、服をうっかりなくしてしまいました」と言って帰るしか……。
 
 紺紺は小蘭をお姫様抱っこで抱き上げた。

「紺紺さん」
「あっ。ふにゅっ」

 名前を呼ばれて振り返ると、ふにゅっと頬を摘ままれる。
 左手の指で紺紺の頬をふにふにと摘まんでいるのは、霞幽――と呼んではいけないらしい、先見さきみの公子だ。
 普通、視線を逸らすのでは? と思うが、道端で石ころを見つけたような顔だった。
 「全裸なんて大したことではないよ」「いつもと変わらないね」という雰囲気。
 しかし乙女心としてはあまり見ないでほしいのですが? 文句言ってもいい? 紺紺は頬を染めた。

「先見の公子様」
「よろしい」

 手が離された紺紺が文句を言うより先に、先見の公子は右腕に抱えていたものを差し出してくれた。

「紺紺さん。服は着なさい。全裸はいけない」 
「あ、それ、探してたんですよ。ありがとうございます」
「君、今『服がないけどとりあえず帰ろう』って思っていなかったかい」
「まさかそんな。まさか」

 先見の公子は服を着終わるまで周囲を監視してくれて、「主上の後始末はこちらでしよう」と約束してくれた。

「それと、その娘の母親は私が預かっている。人質が増えたと思うように」

「えっ。それは流石に嘘ですよね? だって……」

「証拠に母親を見せてあげよう。後日、面会の手配をするので、その娘を連れてきなさい」


 ――その後。
 皇帝は病で倒れたと公表され、ひと月ほど人前に姿を見せることがなかった。 
 そして、小蘭は後宮の門の外で家族との面会を許された。霞幽が証拠を見せてくれたのである。

 太陽が徐々に西の空へと沈み、空気が淡いオレンジ色に染まる、夕映えの中。
 小蘭シャオランは母親と再会した。

「おかあ、さん……っ」
 
 母が娘に駆け寄り、娘がその腕へと飛び込む。
 
 二つのシルエットが重なり、一つになる。
 母の痩せた手が、宝物を確かめるように娘の髪を何度も撫でた。
 娘は、大粒の涙を溢れさせた。
 
「お母さん、お母さん、お母さんっ! うわああん!」
「小蘭……っ! ごめんねえ。お母さんのせいで心配かけて、苦労させてごめんねえ」

 小蘭のお母さんは、白家に保護されて医師の診療を受け、高価な薬を飲んで養生しているらしい。よかった。

 母親の付き添いで紺兵隊のみんなが並んでいる。

「お嬢様、お友達ができたんですね!」
「お元気そうでなによりですぜ」
 
「うん。私、お友達ができたよ。どっかんどっかん、元気だよ!」
  
 小蘭と母親が抱きしめ合うのを背景に、紺紺はとびっきりの笑顔を見せて石苞に抱き着いた。
 ぎゅうっと抱きしめると、おずおずと頭を撫でてくれる。

「抜け道も順調ですよ、お嬢様」
「掘ってるんだ」

「霞幽様が許可をくださったんです」
「どうして許可してしまうの、霞幽様……」

 相変わらず霞幽の心はわからない。

「石苞。今度ね、新入りの宮女の試験があるんだよ。いい成績だったら配属先が変わるんだ。刺繍をしたり、詩をつくったり、絵を描いたり、故事問答するんだよ。みんなで試験勉強してるよ。私は承夏宮しょうかんきゅうに配属されたいよ。紅淑妃……胡月フーユエ妃っていうお妃様がいてね」
「おお。試験がんばってください、お嬢様。ですが、お仕事で後宮にいるのを忘れてはいませんか? 妖狐は見つかりましたか、お嬢様?」 
「うん」

 面会時間が終わる頃。
 紺紺は小蘭と手をつないで門の外に手を振った。
 
 門の外では、小蘭のお母さんと紺兵隊が手を振り返してくれている。
 
「またね」
  
 そういえば、お母様やお父様、お兄様とは、ちゃんとお別れができなかった。
 いつかお墓参りに行けるだろうか。

 紺紺は真っ赤な西の空を見て、ちょっとだけしんみりとした。
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