【本編完結済み】朝を待っている

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第八章

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 太一が緊急入院してから、約三週間後。

 結局長引いて三週間になってしまった入院生活も今日で終わりだと、大分良くなった体調に息を吐きながら、太一は一人病室でほんの少ししかない私物を整理していた。

 あっという間にもう七月となっており、開け放った窓から夏の匂いがする。

 もう夕方だというのに未だ晴れやかな青空が広がっていて、青々と茂る木々が風に吹かれわさわさと揺らいでいた。

 ……もうそろそろ、騒がしい蝉の声が聞こえるだろう。

 そう夏に想いを馳せていれば、

「太一」

 と後ろから優しく名を呼ばれ、太一は扉の方を見た。

 そこには学校帰りすぐに来てくれたのか、制服姿のままの亮が居て。
 それに太一は申し訳なさと嬉しさが混じった笑顔を亮に向けた。


「やっと退院できる」
「良かったね。でもほんとに大丈夫なの?」
「大丈夫だっての。毎回毎回、何回聞くんだよお前は」
「だって心配だから……。まぁでもお医者さんが大丈夫だっていうなら大丈夫だよね。もう帰るだけ?」

 ツカツカと近寄り、太一の纏めた荷物をさりげなく持った亮がそう聞いてくるので、荷物くらい自分で持てるんだけどなぁ。と思いつつも、その好意をありがたく受け取る事にした太一が、おう。と頷く。

「そっか。じゃあ帰ろう」
「ん。ていうかほんとに毎日見舞いに来たなお前。心配性すぎねぇ?」
「そんなことないでしょ」
「……でもそのせいで塾ずっと行ってないだろ。親御さんに怒られたりしなかった?」
「ははっ、怒られないよそんくらいで」

 そうあっけらかんとした表情で笑う亮が、ほら、早く行こうよ。と促す。
 その顔に、ほんとかよ。と呟きつつ太一も歩きだした。


「ていうか、荷物少ないけどほんとにこれだけ?」
「ん。龍之介達が来た時に持ってこられたエロ本はそっと共有スペースの本棚に差してきたし」
「ふはっ、なにしてんの。駄目でしょ絶対」
「えーだって俺いらねぇもん。でも捨てるのもアレだし、だったら使いたい人の手に渡る方がいいだろ普通に」
「使いたい人って言わないの」

 軽やかに、いかにも高校男子らしい会話をぽんぽんと交わす二人。
 それから一階に降り立ち病院から出れば、亮が迎えを頼んでいたのかいつもの黒塗りの高級車が待っていて。
 すっかり顔馴染みとなっている運転手の斎藤さんに会釈しながら、促されるよう亮の後に続いて車に乗り込む太一。
 その頃にようやく夕陽が街を染め始め、艶やかな赤に彩られていく街並みを窓から眺めていた太一だったが、グゥゥ。と腹の虫を鳴かせてしまい、恥ずかしさに夕陽と同じくボッと顔を赤くした。

「何食べよっか」

 横に座っている亮が、柔らかく問いかけてくる。
 その言葉に太一が、……うぅ、と恥ずかしげに唸ったあと、とりあえずがっつり系。と呟けば、いいね。と亮も白い歯を見せて笑った。





 ──それからまたいつもの日常へと戻った太一は、あっという間に迎えた自身の誕生日に、去年と同じく亮と二人であの海に来ていた。

 鼻を擽る、磯の匂い。
 太陽を反射してきらりきらりと輝く、水面。
 柔らかな波の音が、静かに耳を撫でてゆく。

 そんな一年前と何も変わらずゆらゆらと美しく揺らめいている水浅葱色の海を眺めた太一は、スゥ。と深呼吸をひとつした。

 もう、胃がキリキリと痛む事はない。
 その事に、本当に馬鹿な事をした。と心のなかで一人ごちていれば、たいち。と優しく名を呼ばれ、太一は隣に並び立つ亮を見た。

「誕生日、おめでとう」

 そうくしゃりと笑う、亮。
 亮の美しい茶色の髪の毛が海風でさわさわと揺れ、その穏やかな笑顔に胸がキュッと甘く痛むのを小さな呼吸ひとつでいなし、太一も柔く微笑み返した。

「ん。ありがと」

 ……好きなヤツに自分が生まれた日を祝ってもらえる事がこんなにも嬉しいだなんて。
 そう心のなかで呟いた太一が、なんだか堪らなく泣きたくなって、小さく目を伏せる。

 ありがとうと呟いた声は震えてはいなかっただろうか。友達として、笑えているだろうか。

 そんな事ばかりが頭を巡り、「ねぇ、手、だして」なんて言ってきた亮に腕を取られ、突然の事に太一はびくりと身を震わせた。


「大丈夫。何もしないよ」

 太一のその態度に小さく目を伏せ微笑みながら呟いた亮に、いや、そんなつもりじゃ、と慌てて否定しようとしたが、右手首にしゅるりと巻かれた白色と水色が美しく織り交ざったミサンガに、太一は顔をあげて亮を見た。

「……これ、」
「……白色は健康で、水色は鎮静の意味があるんだって」

 キュッと紐を結び、亮が一度するりと手首を撫でてくる。
 その温かな指先の感触に、そしてそのミサンガの意味に息を飲んだあと、ぐっと目に力を入れた太一は、泣くな……、泣くな。と自分を叱咤した。


「……あり、がと……」
「ほんとは太一が喜ぶようなプレゼントあげたかったんだけど……。ごめんね、俺のエゴ押し付けて」
「ぜ、ぜんぜんそんなことない! むしろごめんな、迷惑かけてばっかで……。でも、嬉しい……」

 亮がこのプレゼントにどんな想いを込めたのか。

 それが痛いほど分かっているからこそ申し訳なくなりながらも、それでも、嬉しい。と呟いた太一。
 鼻の奧が痛くなり、海の匂いがより一層強くなっていく。
 それに、……ああ、これがきっと、死ぬほど嬉しい。って事なんだ。とやはり泣いてしまいそうになるのを必死に堪えた太一は、一度自身の腕にぶら下がるミサンガをゆるりと撫でて、へにゃりと笑った。

 そんな太一を見て亮も小さく微笑み返し、それでもそっと太一から顔を逸らしたので、その心意を探れぬまま太一も亮から視線を逸らし、海を眺めた。

 いつの間にかもう既に夕陽が落ちかけていて、途端に暗くなりだした海は互いの表情を分からなくさせるかのよう、ゆらゆら、ゆらゆらと漆黒に揺らめき始めていた。




 ***



 太一の誕生日が過ぎ、季節は本格的な夏へと変わった。

 そして高校生活最後の夏休みが始まったが、しかし太一は以前にも増してバイトに精を出し、そして最後の夏休みだからなのか、何故か急に勉学に励み出した亮もまた昼は学校の特別講習を毎日受け、夜は塾に缶詰めといった状態になり、そのため他の皆と遊ぶ事はほぼなかった。


 それでもなんとか夜だけは共に食べるようにしてくれている亮に申し訳ないと思いつつも、太一はこうして亮と一緒に過ごせる残りわずかな日々を想えばもう一緒に食べなくて良いだなんて言えず、そんな醜い自分の感情に嫌悪してしまう毎日を過ごしている。

 そして今日もまた亮の塾が終わるまでもう馴染みとなってしまったあの雨の日のカフェで一人亮を待っていたが、窓から見える外に珍しく人が波のように蠢いているのを見て、太一は今日がお祭りの日だと思い出した。
 それを目にした瞬間、『お前ら頑張りすぎだろ~! たまには息抜きに遊ぼうよ~! 』なんて数日前電話口で喚いていた龍之介の声を思い出しては、ふっと表情を和らげた太一。

 ……今年は龍之介と亘と明さんだけで集まってんのかなぁ。
 なんて笑いつつ、もう一年も経ったのか。と月日の流れの早さを想い、それでもあの時からもう自分は亮の事が好きだった。と目を伏せた。
 ひたすらに気付かないフリをしていた一年前の自分がおかしくて、無駄な努力だったな俺。だなんて一人笑っていれば、

「遅くなってごめん、ってなんで笑ってんの?」

 といつの間にかやって来た亮が向かいの席に腰かけたので、太一は慌てて、なんでもねぇと言いながらへらっと誤魔化すよう笑った。

 最近はもっぱらこのカフェでしか夕食を取っておらず、すっかり顔馴染みになったマスターにいつものナポリタンを注文し、待っている間二人は何の気なしに窓の外を眺めた。

「来るときも思ったけど、なんか今日めちゃくちゃ人多くない?」

 亮もあまりの人の多さに気付いたのか物凄く不思議そうに聞いてくる。
 それに、「祭りだろ」と太一が返せば、亮は一瞬だけ呆けたあと、目を見開いた。

「え、あっあぁぁぁ!! 今日だったの!?」

  だなんて叫び、突然頭を抱える亮。
 その声量のデカさに太一はびくっと身を震わせつつ、え、こいつこんなお祭り好きだったっけ? ていうか龍之介達には行かないって断ってただろ。と内心思いながら亮を見つめれば、

「今年は太一と二人で行きたかったのに……」

 なんてぼそりと呟かれ、太一はボボッと顔を赤くし、な、なに言って、と口ごもってしまった。

 未だ項垂れぐちぐちと今日を呪っている亮を見つめながら、……こいつほんとなんでこんな事言うんだよ……。勘違いしそうになる……。と太一が目を伏せる。
 そんな太一にばっと顔をあげた亮が、

「来年、来年は絶対二人で一緒に行こうよ」

 と言ってくるので太一は息を飲み、それから、小さく笑った。

「ははっ、なに言ってんだよ。もう来年の話なんて気が早すぎだろ」

 そうぼやきながら太一が足元を見ては、来年は祭りの日どころかずっと側に居られないのに何を言ってるんだか。だなんて思ったが、それでもその言葉が嬉しくて嬉しくて、太一は顔を上げ小指をずずいっと亮の目の前に差し出し、ニカッと笑みを見せた。

「じゃあ来年、行こう。……指切りな」
「っ! うんっ! うん行こう! 絶対だよ!? 約束したからね!」

 太一の言葉にパァと表情を明るくさせ、約束したからねなんて言いながら、亮が小指を絡ませてくる。


 自分の指とはまた少し違う、長くて綺麗な、それでも男らしい亮の指の感触。
 それにドキドキと胸を高鳴らせたまま、「ゆびきりげんまん嘘ついたら……、」と無駄に良い声で歌う亮を見た太一は、そっと微笑んだ。

 来年は、この小指の感触だけがきっと俺を温めてくれる。と住む世界が違いすぎる亮との離別をそれでも仕方がないと諦め、覚えててくれなくても良いから、この温もりだけ俺にくれ。だなんてなんとも少女漫画の健気なヒロインめいた、けれども男の自分が願ってしまうにはひどく気色悪い事を考えながら、太一は亮の小指をキュッと握り返した。




 
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