魔法使いの弟子の勤労

ルカ

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第七話 倫敦の休日

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 帽子、日傘、杖、モーニングコート、作業服――様々な装い、様々な人が石畳の歩道を足早に行く。
 馬車の車輪の音と、自動車の歪なエンジン音が同時に鳴って重なる。煤とそれ以外の混じった独特なこの街の匂いが鼻について、テアはロンドンに来た実感を深めた。人目につくので眼鏡は外してポケットにしまっている。
「ブライアント様、到着しました」
 そう呼びかけるメイジーは、いつものエプロン姿ではなく余所行きの格好をしている。エヴァンズも含めた三人の前にはレンガ造りの大きな建物――百貨店がそびえていた。
 ――遡る事、二日前。
 テアはエヴァンズに問われ「メイジーと三人で、ロンドンの百貨店へ」と提案した。
 それは自分も興味があるからというよりは、メイジーが「また行きたい」と言っていたのを聞いたからだった。その発案はメイジーには全くもって予想外だったらしく、珍しく動揺しながら「私がいても、お邪魔になります」と首を振った。
「どう、ですか?」
 不安げな弟子が師匠に尋ねる。
「邪魔じゃない」
 いつもの通り凪いでいる主人に、動揺を恥じて使用人は姿勢を正した。
「――かしこまりました。私はそばで控えておりますので、荷物持ちでも、なんなりと」
 メイジーは事務的な対応をし、嬉しがる様子も、かといって面倒事と嫌がる様子も一切見せなかった。そんな彼女を見て、やはり余計な事だったかとテアは気を病んでいた。
 しかし、汽車に乗りロンドンの街へ来て百貨店に到着する頃には、使用人は一行の一切をはりきって取り仕切っていたのだった。
「ブライアント様、お帽子がずれています。そうです。エヴァンズ様、お時間の確認はよろしいですね? 事務局とのお約束の時間に遅れませんように。では、参りましょう」
 そう言ってから一時間半後。
「懐中時計のどこを見てらしたんですか、蓋ですか!?」
 使用人が主人を非難する声と共に、三人は速足で百貨店から出てきた。
 百貨店の売り場で、メイジーは色とりどりのレースをうっとりと眺め、テアは通りがかった浴槽売り場で動揺し他の客に白い目で見られた。エヴァンズは何の商品を見るでもなく、そんな使用人と弟子の様子を見ていた。二人が時折話したり、感嘆の声を上げたりして目を輝かせているのは、普段家で目にする彼女たちとは何か違う様子だった。
「二人を見ていて、そもそも時計を見ていなかった」
「然様でございます私めが浮かれておりました大変申し訳ありませんでした!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 三人は大きな十字路で足を止めた。ひとり市場へ買い出しに行くメイジーがテアとエヴァンズに向き合い、早口で念を押す。
「よろしいですか押し売りは相手にしちゃなりませんよ茶葉なんて誰かの使い古しです。あと絶対にブライアント様はエヴァンズ様から離れませんようにロンドンは魔境ですからね、はぐれたら駅の改札待ち合わせですよ。エヴァンズ様もよろしいですねブライアント様から目をお離しにならないでください」
「はい」「うん」
「では、お気をつけて」
 最早主人が誰なのか曖昧になっている一行は、二組に分かれて目的地に向かった。

「紳士様、美味しいマフィンは要りません? 奥様のご機嫌取りにも良いですよ」
「いいえ」
 籠を手に道に立つ女性商人を、エヴァンズが悠々と交わす。
 テアは籠の中のマフィンが気になり目で追ってしまったが「はぐれるな」と言った使用人の言葉を思い出し、顔を前に向けた。道中師匠との足の長さの差に苦労していたが、その苦労は使用人と別れてから割とすぐに終わることとなった。
 テアが城か何かと見紛うような大きく立派な建築群の、小さな隙間に、その建物はあった。石造りの四階建てで、周囲の物より壁の表面が古びている。扉の上には「TAURUS」と記された表式が掲げられていた。
 エヴァンズが出入り口の扉を開けて待ち、テアを先に通した。恐々と中に入ったテアが薄暗い玄関広間を見渡すと、天井に見慣れたものを見つけた。
「(星座盤だ。学校と同じ……)」
 エヴァンズが受付へと進む。そこには背の高い真鍮製の止まり木があり、鳥が羽根を休めていた。マグパイではなくテアが見たことのない灰色の大型の鳥だった。
「ごきげんよう、アルデバラン」
「ごきげんよう。黄道十二宮会第二領・トーラス事務局のロンドン支部へようこそ。番号をエラんでください」
 エヴァンズがアルデバランと呼んだ鳥の後ろの壁に、数字が刻まれた金属の札が鎖で釣られている。エヴァンズがその場で指を振ると、十七番の札から鎖へルブの光が走った。
 直後、受付の右手にある太い柱から音が響いた。柱の中を降りてきたそれは、到着を知らせるベルを鳴らすと扉を開く。中に数人が立ったまま入れる箱型の乗降装置だった。
 エヴァンズがそちらに足を向けた時だった。
「トコロで、私、小腹が空いていると思うノです?」
 エヴァンズはアルデバランの声で止まった。ジャケットの胸ポケットを探ると小袋を取り出す。その中身はビスケットで、小さく割って手のひらに出したのを嘴がつついた。
「私は満たさレた。センキュー、サー。お気をつけていってらっしゃいませ」
「ありがとう」
 師弟が乗降装置に入ると勝手に扉が閉まり上昇し始めた。
「――あの受付の鳥は、言伝鳥ではないんですか?」
 そこまでの光景をただ唖然と見ているしかなかったテアが、ようやく口を開いた。
「アルデバラン二世は言伝鳥ではない。生体操作ではなく、訓練で会話が出来るようになった鳥だ」
 テアは何から訊けばいいのかわからず、それ以上は無言になってしまった。魔法の世界には喋るが会話出来ない鳥と会話出来る鳥がいる。また、師匠の胸ポケットから当然のようにお菓子が出てきたことも、同様に不可解で白昼夢のようだった。
 到着を知らせる音が鳴って、乗降装置の扉が開いた。
「申請書提出の方、こちらへ」
 師弟が乗降装置から出ると右手にある事務室から声がかかった。衝立で区切られた複数の窓口の内の一つに、女性が立っていた。
 事務室は昼というのに薄暗く、独特な埃っぽい甘い匂いが満ちている。窓口にテア達以外の利用者の姿はなく、その奥では木製の机や本棚が並ぶ中で事務員達が静かに勤労していた。テアが思っていたよりも魔法使いの事務局の様子は普通だったが、彼らの頭上を光と共に書類箱が飛んで行くのを見て、彼女を幻想的な現実へ帰した。
 テア達を担当した若い女性職員は、師弟申請書を受け取ると手続きを進めた。愛想は無いがとにかく手早かった。
「――弟子側の魔法名、ウィーオリヴァー。スペルはこちらでお間違いないですね?」
「間違いありません」
 淡々と答える師匠の一方、緊張するテアの理解が遅れているところに女性職員が付け加えた。
「こちらの魔法名は師匠の名前を示し、師弟関係が中途解消されない限り家族姓の前に表示され、以後黄道十二宮会に登録される正式なお名前となります」
 テアはロンドンに行くことを聞かされた日に、エヴァンズからされた同様の説明を思い出した。名前が増えると知って面食らい、同時に気恥ずかしくなったのだった。
「(いえ、結婚みたいに姓が変わって同じになるわけじゃないんだから……)」
 と思い直して「結婚より重要な契約」という誰かの台詞を思い出した。なんとなく彼女の前で魔法名を名乗るのは避けたいと思った。
 テアは申請書の自分の隣の枠に記された師匠の名前を見た。オリヴァー・ウィーレベッカ・エヴァンズ。
「(魔法名は自分の師匠の名前の頭に〝ウィー〟が付く。エヴァンズ先生の名前がオリヴァーだから、私はウィーオリヴァー)」
 この法則も聞いていた通りだった。つまり自分の師匠の師匠は「レベッカ」という人物だったことになる。女性なのがなんとなくテアは意外だった。
「師匠側が階級五番以上をお持ちですので、無試験で弟子側に二番を付与できます。確認書の内容こちらでよろしいですか?」
「はい」
「では、オリヴァー・ウィーレベッカ・エヴァンズ様の弟子、テア・ウィーオリヴァー・ブライアント様、階級二番『四純素の三作用を自在に為す者』でお間違いありませんね」
「はい」
 エヴァンズが答えた後、職員がテアの顔を見る。
「ハイ」
「では申請書のこちらの丸欄にそれぞれ指を置いてください。ルブの光が完全に消えるまでそのままで」
 師匠を真似て、テアももう一つの丸欄に人差し指の先を置いた。それを確認してから女性職員が金印を押すと、瞬時に申請書を光の粒が覆って消えた。紙の申請書は姿を変え青みを帯びた石板となり、申請内容が整然と刻まれていた。
「師弟申請受理いたしました。このたびはおめでとうございます」
「どうもありがとう」
 特段めでたくなさそうな真顔で職員が言祝ぎ、感動しているとは思えない冷静さでエヴァンズが受けて、どう反応するのが正解なのかテアはわからないまま、師弟申請は終了した。

 建物を出て通りに出るとテアは息を吐いた。
 不思議を凝縮した空間から解放されると身体の強張りがほぐれた。その時気付いたことがあって、テアは扉を閉めるエヴァンズに問いかける。
「あ。あの、自己紹介をする時に、魔法名ってどうすれば……」
 ミドルネームを持たないテアは余計にその作法がわからなかった。
「初対面などの略式なら〝ウィー〟。正式に名乗る時に〝ウィーオリバー〟になる」
「(つい忘れちゃいそう、ちゃんと名乗れるかな……)」
 加えてやはり気恥ずかしさも伴ってテアは自信が無かった。
 師弟は通りを歩きだした。その横を客を乗せた馬車達がせわしなく行き交っていく。
「あの、この後は駅でメイジーさんと合流するだけ、ですよね?」
「ああ」
 名残惜しさに周囲の景色をよく見ておこうとしたテアの鼻先に、よく知る香りが届いた。
 行く手に現れたショーウィンドウには「秘伝のレシピ、ここだけの味!」という謳い文句が記されたポスターが貼られ、中には様々な総菜パンが並んでいる。そのパン屋の店内には数人の客と、それに笑顔で対応する女性の従業員が見えた。
「……」
 つい眺めてしまってから、何故かそれ以上見るべきでもない気がして、テアは視線を前に戻した。
「(はっ、エヴァンズ先生!)」
 我に返って師匠の姿を探すと、少し距離が出来たが進行方向に黒いコートの後ろ姿を見付けることができた。慌てて小走りで追う。
 十字路に差し掛かったところだった。彼女の右手から複数の派手な足音が響いた。
 先頭のハンチング帽の男は走りながら振り返り、追ってきた警察官たちに向けて水魔法を行使する。放水を警察官たちがかろうじて避け代わりに店先の椅子が弾き飛ばされた。警察官たちが迫る。前方を向いたハンチング帽の男の目がテアを捉えた。
「退け!」
 眼鏡を外していたテアは事態を理解できず反応が遅れた。進路を塞ぐ彼女に男が魔法を行使するため腕を振りかぶる。テアを脅かさないためにその速度を下げる気は、走る男たちの誰にも無かった。
「ッ!!」「?」「ウワッ!」「!?」「何だ?」
 硬直していたテアは、水に濡れることも大の男たちに巻き込まれることも無く、そこに立ち尽くしていた。
 彼女の目前でハンチング帽の男は固まっていた。頭から針金でも仕込まれたかのような見事な直立だった。すぐ後ろの制服の警察官たちも全く同じ事態となっている。
「おいお前逃げるなよ!」「ちくしょう捕まってたまるかァ!」「どうなってるんだこれは」「大人しくしてろよ!」
 追走劇の白熱したやり取りが繰り広げられるものの、全員指一本動かせずにいる。その状況に呆然としているテアは、しかし、男たちが自由を失う寸前彼らの周りに光が散ったのを目撃していた。
 エヴァンズの革靴の音が近づき、彼女を背にして男達との間に立った。
「(人体操作で体の動きを止めた?)」
 テアは魔法を行使した師匠の後頭部を見つめた。ベイカー氏を操ったのは見たことがあるが、複数を一度に仕留める状況に立ち会うのは初めてで、圧倒されていた。
「警部これは一体?」
「……光が見えた。あれは――」
 制服の若い男に応えて、髭を生やした恰幅の良い男性が呟いた。
「――魔法使い、の御方ですかな?」
 前方に立つエヴァンズに視線だけ向けて問いかけた。
「ええ」
「我々は見ての通り、警察です。そのハンチングの男が店に強盗に入り、逃亡したのを追跡していました。我々四人は解放していただいても?」
「分かりました」
 光が散って、途端に四人の硬直が解けた。
「おおお……?」「おい、確保だ」「はい!」
 唯一直立したままの逃亡犯に警察官が飛びつく。逃亡犯は喚いた。
「クソ、何で動けねえんだよ! 動けよ!」
「っ、関節が動かないから紐が……」
「あのー、縛れるように腕だけ曲げてもらうのって可能ですか? 魔法使いのお方」
 苦戦していた若い警察官がそう聞くと、エヴァンズが軽く手を振った。途端にバネ仕込みのように腕が動き縄を受ける姿勢を取った。
「ああクッッソ動くんじゃねえよ!!」
「うわーいいなぁ便利。助かりました。こいつ、水の魔法が使えるみたいで捕まえるのにてこずってしま――」
 エヴァンズに話す若手を小突いてから、髭の警部がエヴァンズに歩み寄る。
「魔法使いの御方、素晴らしい魔法を見せて頂きました。この男の粗末な魔法とは全くもって比べ物にならない」
 近すぎる程の距離で対峙すると、体格の良さを誇示するように胸を張った。
「ですが、この成りを見れば我々が警察官であることは直ぐにおわかりになったでしょうに。我々にまで足止めをしていただく必要はない。魔法の力を誇示したかったのなら話は別ですがな?」
 警部は明らかに挑発的だった。エヴァンズの背後のテアに緊張が走る。
「万が一次回があれば、是非その点もご協力いただけると嬉しい」
「留意します」
 エヴァンズは委縮することも機嫌を損ねることも無く、いつものように悠然としていた。手応えなさに相手が追撃する。
「下手すれば捜査妨害と取られてもおかしくありませんからなぁ?」
「そうですか。それは失礼を」
 エヴァンズの無感動な紳士ぶりは全く揺らがなかった。一人空振りを繰り返す状況に、警部は苦々しい顔をして踵を返した。
 男にかけた人体操作をエヴァンズが解いて、警察官たちが連行していく。強盗犯は喚き疲れて項垂れていた。ハラハラして様子を見ていたテアは、彼らが去っていくのを見てやっと肩の力が抜けた。
「それにしても凄かったですね。実は私も子供のころちょっとだけ使えたんですが――」
 その時、野次馬の間を行く彼らの会話が、ふと風に乗ってテアの耳に届いた。
「――人に直接効く魔法なんて初めて見ましたよ」
「あんなのがゴロゴロいてたまるか」
 興奮している若い警察官に、警部は捨て台詞を吐いた。
「(〝あんなの〟?)」
「大丈夫か」
 エヴァンズが見下ろしているのに気付いて、警察官達に気を取られていたテアは我に返った。
「――あっ、はい。あの、すみませんでした。だい……」
 大丈夫です、と言おうとして、テアは師匠を見つめたまま固まった。
 エヴァンズはずっと冷静だった。強盗犯の前に立った時も、魔法を行使した時も、警察官に挑発的な態度を取られた時も、テアに問いかけている今も。
 エヴァンズのおかげで怪我はひとつもなかった。大丈夫だった。しかし――
「(エヴァンズ先生のおかげで捕まえられたのに、あの警察官、どうしてあんな言い方……エヴァンズ先生は、聞こえなかったの?)」
 得体の知れない不快なものがテアの胸のあたりで渦巻いていた。渦は熱となって頭に昇ってくる。大丈夫ではない。何かが大丈夫ではなかった。だが混沌として掴めず、言葉には成らなかった。
「――、大丈夫、です」
「そうか」
「いやいや……魔法使い様、本当に素晴らしかったです」
 突如師弟に割って入った老人に、テアは面食らった。
「近頃は機械仕掛けが何でも叶えてしまいますゆえ……魔法もロンドンでは埋もれてしまいますが、貴方は別格だ。感動しました」
 老人は警部の不躾な態度を相殺するように深く感嘆してみせた後――自らの出店へ手を向けた。
「素晴らしい魔法使い様には、素晴らしい午後の休息が必要かと。うちの厳選した美味しい茶葉、ご入用ではないですかな?」
「いいえ」
 エヴァンズが冷静に断る。どんな瞬間にも商機を狙う商人に、やはりここは魔境なのだとテアは実感した。


 休日が終われば、平日の日常が戻ってくる。
 一日の勤務を終えたテアは事務所の机で、紙に書き留めた純素割合を暗記していた。師匠の終業を待っているところだった。
 数字の羅列から目を離して一息つくと、前回の休日の事が頭に浮かぶ。テアは結局、百貨店でも「欲しい物」が見つからなかった。何も持ち帰った物は無く、逃亡犯に遭遇した一連の出来事は謎の不愉快な感触を残した。
 それでも初めて三人で憧れのロンドンに出かけた思い出は心の中で幾度となく反芻され、その度に百貨店の光景と相まって、テアを夢見に似た不思議な気持ちにさせる。
 暗記作業に戻って少し経った頃、エヴァンズが管理室の戸を叩いた。室長に暇乞いをした師弟は中央棟を出た。
「エヴァンズ先生!」
 校門に向かっていた彼らに声をかけたのは、エヴァンズの同僚だった。
「帰り際に申し訳ない。生徒の実績表で今すぐ確認しておきたいんですけど、少し大丈夫ですか?」
 同僚は一瞬テアに視線を向けた。気を利かせたテアはこの場を離れなければと考えた。
「あの、私先に行って、家で修行の準備をしておきます」
「わかった」
 いつもなら魔法について話しながら二人で行く道を、テアは一人で歩き始めた。門番と挨拶を交わし学校を出て、商店街を進んでいく。見慣れた光景だが一人で歩くと新鮮に感じた。
「(あれ、このレース、どこかで見たような)」
 テアはある店先の、ロンドンと比べればだいぶ面積の小さいショーウィンドウの前で足を止めた。そこはハンカチやリボンなど服飾小物を扱う商店だった。
「(そうか、メイジーさんが百貨店で見てたのと似てるんだ……)」
「いらっしゃい」
 思いがけず店の中から背を丸めた女性が出てきて、テアは慌てた。
「エヴァンズ先生のお弟子さんね。珍しいわ、今日は一人なの?」
「あの、はい」
「何かお探し?」
「いえ、ちょっと見ていただけで、すみません」
「そう。遠慮しないで中もどうぞ。きっと気に入るものがあるから。贈り物なら、可愛いラッピングもあるわ」
 そう言った婦人が人差し指を振ると、小さな光の粒を伴って店の中から一筋の赤いリボンが躍り出た。宙で蝶結びを披露するその魔法に釘付けになっていたテアは――ふと、彼女の言葉を反芻して、電撃が走った。
「(どうして、今まで思いつかなかったんだろう!)」
 ロンドンを往復までした長い旅路の果て、ついにテアは『欲しい物』を発見した。

 エヴァンズ邸の台所で、オーブンレンジの掃除を終えたメイジーが腰を伸ばした。
 手を洗おうと蛇口を捻ったその時、ランプを片手に入室してきたのはテアだった。
「あの、失礼します……」
 何か小さな荷物を抱えたテアに、メイジーは溜息を吐いた。
「ブライアント様、ご用事なら呼んでいただければ私が伺いますと言っていますのに」
「あ、いえ、今日は用事というか、ただ見て頂きたいものがあって」
 テアはもたつく手つきで持っているものをメイジーの前に差し出した。格子模様の紙袋だった。赤いリボンが掛けられている。
「見る?」
「はい。『欲しい物』を見つけて、買ったんです」
「まあ。そうですか」
 使用人にわざわざ見せる必要があるのか疑問に思わないでもなかったが、メイジーは洗った手をエプロンで拭いてから、紙袋を受け取り中を見た。
「あら、素敵なレースのリボン」
 メイジーの声が少し明るくなった。テアは注意深くその様子を窺っている。
「本当ですか?」
「ええ。綺麗な深緑色で、髪飾りにしてもいいしお洋服につけても……素敵だと思います。良いお買い物をなされましたね」
「メイジーさん、貰ってくれますか?」
「え?」
 メイジーは一度瞬きをした。
「メイジーさん、百貨店で楽しそうにレースを見てたので……お店の人にも見てもらって選んだんですけど、もし、嫌いじゃなければ……」
「どういうことです? ブライアント様が『欲しい物』を見つけてお買いになったんですよね? ご自分のお給料を使って」
 テアはきょとんとした。
「はい。欲しかったんです。メイジーさんにはいつも本当にお世話になっているので、そのお礼にしたくて」
「――、受け取れませんよ、そんな」
 そういうことじゃない、とメイジーは心の中で叫びながら紙袋を差し戻そうとした。
「あ……やっぱり、お好みじゃ、なかったですよね。すみません、勝手なことをして」
 テアは一瞬だけ目を伏せたが、気丈に振舞っている。
 そういうことでもない! とメイジーは心の中で頭を抱えた。
「あの、気にしないでください。ごめんなさい、引き取りますので」
 そして、メイジーはあきらめた。
「――……いいえ。本当に、素敵です」
 紙袋を胸に抱いた使用人に、テアは目を丸くした。
「本当に、いいんですか? せっかくのお給料ですのに、私なぞの贈り物にお使いになって」
「――はい、はい! ありがとうございます」
 メイジーは困った顔をした。
「あなた様がお礼を言ってどうするんですか……こちらこそ、ありがとうございます」
 いつもは引き締まっているメイジーの表情が和らいだのを見て、テアは少し動揺して、顔を赤らめた。
「あの、いえ、もっと早くお礼すべきだったんですけど、私、思いつかなくて……メイジーさんとエヴァンズ先生には、本当にいつもご迷惑おかけしているのに」
「エヴァンズ様にも贈り物を?」
「――あ、あの…それが……」
 その問いにテアは困惑の表情を見せた。
「もちろんエヴァンズ先生にもと思って、考えたんですけど……何が好きそうなのか、全然わからなくて、まだ用意できてないんです……」
「ああ、それは仕方がありません。私も七年お仕えしても、ちっともわかりません」
「ちっとも……」
「ええ。嗜好品にしろ普段のお食事にしろお茶に――あ、そういえば、牛乳……」
「えっ牛乳が?」
「いえ。少し前に遠方の乳牛牧場と郵便のやり取りをなさっていて、まさかお取り寄せでもするつもりなのかと思ったんです。ただ、今も一向にそんな気配は無くて……ふと思い出しました」
 テアも首をかしげた。飲食に疎い彼が牛乳だけに拘るというのは妙な話だった。
「それについては何を思ったか知りませんが、そもそもあの方に好みなんてものが存在するのか私には疑問です」
 メイジーは首を振った。テアは彼女ならエヴァンズの好みを知っているかもと思ったが、あてが外れてしまった。
「もし、あるとするならば――ブライアント様なら分かる時がくるのかもしれません。あなた様は、私などとは違う。あの方の同士でいらっしゃいますから」
「――同、士?」
「正直言うと、あなた様とエヴァンズさまの師弟は、早々に破綻すると思っていました。いつか申し上げましたね、稀に見る不幸な組み合わせだと……浅はかな意見でした。あなた様はエヴァンズ様の内心を恐れて顔色を窺っても、彼の魔法を恐れてはいなかった。それが同じ魔法を持つ者の絆、とでも言うのでしょうか。私のように疎い者ではそうもいきません」
 テアは思いがけぬ話に彼女の言う事をはかりかねていた。テアの戸惑いを見て取って、メイジーは再び口を開いた。
「参考までに、少し昔話をさせていただきますと――私がここにお仕えするようになったのは、エヴァンズ様が望まれたからではないんです。リーブラ魔法学校の校長が、エヴァンズ様に使用人を雇うように『頼んだ』んです。使用人の一人も雇えない独身男と周囲に思われたら、エヴァンズ様と、彼を雇う学校の格が下がるからと。エヴァンズ様は別に要らなかったと思いますが、まあ、頼まれた事を断る程の強い意志もないですから。それにしても私のような純魔法も使えない年嵩に声がかかるのは不思議でしたが、後に察しがつきました。きっと、条件の良い使用人達には断られ続けて、紹介所が苦肉の策で私のような後の無い者を推したのだと思います。校長は面談の時、エヴァンズ様がどのような魔法の使い手なのかを私には説明しませんでした。知ったのはいよいよ派遣されてエヴァンズ様と対面して、彼があっさりと学校での自分の職務を説明なさった時です」
「――他の使用人さん達に断られたのは、エヴァンズ先生が人体操作の魔法を使えるから?」
「……私達は主人の命に従うものですが、それでも人としての意思は有ります。命令があまりに理不尽だと感じれば、最後は意思が自分の尊厳を守ってくれる。ですが、主人が人を意のままに操る魔法使いとなると――使用人としては、怖気付く気持ちはわかります。校長が私に言わなかったのは敢えてだったのでしょう。案外狡猾な方です」
 テアはロンドンで警察官がエヴァンズの事を「あんなの」と吐き捨てた意図を察した。学校において彼の魔法は尊敬されて然るべきものだが――外の世界においてもそうとは限らない。むしろ恐怖の対象になり得るのだ。
「実際は魔法云々より、執着の無さ過ぎるところとかひとの気持ちにとんと構わないところとか、人間性の方によっぽど唖然とさせられましたが」
 呆れた表情をしていたメイジーだが、ふと真面目な顔になった。
「ですが、ブライアント様がいらして修行が始まってからは、少し見直しました。教育者としてのあの方は確かに丁寧で意欲的なように見えます」
「はい、それは、本当に……私が修行を続けられているのは、本当に、エヴァンズ先生のおかげです」
「それはブライアント様もでございますよ」
「え?」
「あなた様が努力を怠らないからエヴァンズ様も修行を続けられるんです」
「――え? で、でも、私なんて何も……物覚えも良くないから……」
「投げ出さないだけご立派では? それに教える方がどんなに意欲的でも、受け取る方がそうでなければ何も報われません。私も大きな職場にいた時は後進の育成には骨が折れました。私なぞの見立てで恐縮ですが、あなた様の勤勉さは、きっと、エヴァンズ様の行いを無下にはなさいません」
 テアは戸惑い口ごもってしまった。師匠の労力に自分は応えられていないと思っていた。一人さ迷い歩いていたところを、急に暖かい手に引かれたような心地がした。
「外野のように無駄に疎まず、内野のように必要以上に持ち上げたりもしない、あなた様はあの方のたった一人のお弟子で、同士ですから。きっといつか、あの方が好むものだって分かるようになるかもしれませんよ」
「そ、そうでしょうか……」
テアはなんだか気恥ずかしく、目を伏せたまま上げられないでいた。
「おしゃべりが過ぎました。エヴァンズ様への贈り物も程々にして、次は本当にご自分でお使いになるものを手に入れてください」
「あ、はい」
「――贈り物、ありがとうございました。大切に、させていただきます」
 テアに真っすぐ向けられた顔は明確な喜楽を見せてはいなかったが、それでも表情の端に柔らかさがあった。テアが初めて見るメイジーの表情だった。
「あ、あの――」
 テアは、ずっと思っていたことを言うなら今だと思った。意を決して口を開く。
「メイジーさんも、エヴァンズ先生と同じに、テア、と呼んでもらえないでしょうか。あの……ずっと、恐れ多くて……」
 照れくさそうしているテアに、使用人は応えた。
「お受け致しかねます。あなた様は私めの主人のお弟子様。立場をお弁えください」
「アッハイスミマセンでした」
 平手打ちの如き冷淡な物言いは既にいつもの彼女で、テアは反射で引き下がった。
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